人生の後半戦を生き抜くことの美しさ


主人公は、鎌倉幕府成立期の重鎮の一人ではあるが、誰もが知る有名武将ではなく、戦場を駆け抜ける若武者でもなく、足のわるいおじいちゃん。
そのおじいちゃんが戦乱の鎌倉で八面六臂の大活躍するかというと、そういうわけでもない。
歴史の大転換期を、村の長老ポジションで、飄々と生きていく。

長い話ではあるが、各場面が短編の密度で描かれており、登場人物の心情や空気をじっくりと味わうタイプの作品のため、読み通すには時間がかかる。

お手軽で刺激的な、タイムパフォーマンス重視のエンターテインメントが好まれる時代に、地味な主人公による長い物語は、多くの読者にとって、最もとっつきにくい作品だと思う。

結果、読まれないとすれば、もったいない。

この作品は、その独創性、文章力の高さから、数多ある投稿作品の中でも、鶏群の一鶴というべき名作だ。

作者は、短編の名手だ。
その筆致は、鮮烈で、派手さは無いが、森羅万象に生命を与え、無機物さえも瑞々しく描く。
何よりも、人が美しい。
作者は、登場人物一人ひとりに向い合い、人の心が動く理由を突き詰めて、発する言葉、所作を選び、綿密に物語を紡ぎ上げていく。
これまで、妥協をしない真摯な創作活動により、時には、震えるほど美しい作品を生み出して、評価を受けてきた。

その作者が新たに取り組んだ、大長編の主人公に選ばれたのが、大庭景義。
主役級の英雄が数多いる武家政権成立期に、どちらかといえば、知る人ぞ知る、これまでのドラマや小説でも、脇役として出てきたり、出てこなかったりする人物だ。

なぜ、大庭景義?
と、最初は思ったが、読み進めるうちに、大庭景義こそが主人公でなければいけないと思うようになった。

この物語は、今、時代が必要とする作品だ。

人の寿命が中世の倍の長さに至った現代に、当時の老齢期を人生の半ばとして迎える我々は、どう生きるか。
それを示唆する小説は、少ない。
世に溢れる作品のほとんどは、主人公が若者で、その成長と経験を描いたエンターテインメントだ。
たが、読み手は、圧倒的に若者以外だ。
同世代として、作品に接して人生に刺激を受けるのではなく、懐古の情か、もしくは、現実から離れた世界に一時的に心を遊ばせることに留まってしまう。

全人口の半数が、歴史上最長の後半生にあるこの国で、これから求められる作品は、ビルドゥングスロマンのその先を描くことではないのだろうか。

生きている限り、人生は続く。
主人公、大庭景義の生き様が示すように、長生きは衰えでなく成熟である。
その体は小さく見えるかもしれないが、樹齢を重ねた大樹のような心と知恵が実り、新しい世代を導くとともに、己自身が人生の主役であり続ける。

たしかに、義経の人生は儚く美しい、だが、生き続ける我々には、その先がある。

心が老いなければ、いつだって人生のど真ん中にいられる。
大庭景義のように、大切なもののために熱くなってよいし、争っても抗ってもよい。
年配者が若者に負けない武器は、経験に裏付けされた決断力だ。
大切なことを何によって決めるのか?義か理か、愛か利か、信じるものか。
人が決断する姿を丁寧に描いた、この作品から得られるものは大きい。

繰り返しになるが、これだけの作品が読まれないのは、もったいない。

とは言え、長い物語なので、読み始めるハードルは高い。

それであれば、作り手の意にはそぐわないだろうが、まず、独立した話として面白い第四部を読んでみて、自分に合うかどうかを試してみることをせひお勧めしたい。
歴史小説の楽しさを堪能できると思う。