ふところ島のご隠居・第一部・戦乱編

KAJUN

序章 春の夢

第1話 景義、伊豆山を訪れること

序章 春の夢




 伊豆山権現いずさんごんげんは、伊豆国と相模国との境にあって、古来より修験者の聖地として名高い。


 明るく東に広がる海はやわらかに湾曲し、緑あふれる山々に抱かれている。

 海岸からたちまちに、急峻な山際やまぎわが立ちあがっている。


 ふもとには濃密な白煙とともに熱湯が湧きい出でて、湯の川となり、勢いよく海にそそぎこんでいる。

 古代の人は、これを一種の神秘と感じた。

 それでいつの頃からか、はしとも走湯山そうとうさんとも呼んであがたてまつるようになった。


 膝がふるえるほどの急斜面に、長い長い一直線の参道が通されている。

 その坂を登り切った高みに、伊豆山権現は、鎮座ましましている。




 

 権現の社殿を抜けると、奥に広がる山々のふところは、さらに深い。

 今、この山道の急坂に、ひとりの老人が挑んでいる。


 頭にはゆるやかな烏帽子えぼしをかむり、ふさふさした真っ白な眉毛と口ひげを微風にゆらしている。

 左右に張り出た太い鷲鼻、高く突き出た頬骨、よく日に焼けた肌、こめかみには汗もしとど。

 真っ青な海に背をむけて、中身のぎっしりつまった葛籠つづら背負せおっている。

 名を、景義かげよしという。


 景義が難儀なのは、なにも山道のせいだけではない。

 この人は脚にさわりがあって、左膝の自由が利かない。

 左脚を引きずって、えっちらおっちら、太い杖にすがって、舟を漕ぐように進んでいる。


 ――大昔、えん行者ぎょうじゃという仙人がいた。

 国家叛逆はんぎゃくの疑いをかけられて伊豆大島に流罪となった。

 仙人は神通力をつかって空を飛行し、夜な夜なこの山に修行にやって来たという。

 山腹のほこらに役行者がまつられているのは、そういった由縁がある。

 脚の病に悩める者や、足腰弱き者が祠に祈れば、強足を得られるのだという。


 もちろん景義も伊豆山を訪れるたび、熱心に役行者に祈りを捧げてきた。

 できることなら今こそ仙人のように、風を翼に、日輪にちりんを車に、飛行自在ひぎょうじざい、思いのままに飛びまわりたかったが、それは叶うべくもない。

 できることはといえば、杖を使ってでも歩けることに感謝して、ただただ祠にむかって強足を祈るのみである。


 はたしてそのご利益りやくもあってのことだろうか、この人の歩みぶりは驚くほどに達者である。

 溌剌とした笑顔で、元気に胸を弾ませている。

 「四十の賀」を迎えるのがやっとの世のなかで、この人はよわい五十を過ぎて、まだまだ生気に満ちあふれている。

 両手で太杖を握りこみ、体の重みこそ命のあかしとばかり、えいさっ、と重たい体をもちあげる。

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