5/「僕」、33歳、弁護士

令和4年5月23日

 僕が祖父の事務所の明け渡しを終えてからもうすぐ二月ふたつきになる。

 それなりにイレギュラーな処理を重ねたので、関係各所との折衝を慎重にする必要があって、早起き以外の負担もいろいろ生じたのだけど。方針を決めたのは僕だし、やることは全部やったという満足感もあったから、残りのインスタントコーヒーをゴミとして分別するのも思ったよりは心が痛まなかった。予想外に減ったし。


 その後、事務所(とスタンド)は改装を終え、僕の背後を飾っていたコーヒーマシンの持ち主がちゃんとしたコーヒーショップを開店した。コーヒー豆や入れ方はもちろん、店舗の内装にもこだわり、もうあの埃っぽい事務所の面影は全くない。

 その店主はもともと僕とは直接の知り合いではなく、管理会社(佐倉さんの会社)の社長が紹介してきた人だ。社長の友人であるところの事務所建物のオーナーからは甥にあたるらしいけど、詳しい話は聞いていない。


 祖父の事務を引き継いだ際、事務所の賃貸借契約書が見当たらなかったので、僕は管理会社に連絡をした。管理会社からは契約書写しの交付と合わせ、契約満期が年度末であることと中途解約違約金があることの注意喚起を受けるとともに、オーナー側の意向を伝えられた。

 オーソドックスな処理としては、早期退去の上で違約金の減免交渉をするのだろうけど、そうすると残置物の撤去は外注しないと厳しいし保管場所を別に用意する必要も出てくる。違約金交渉だってお願いベースの話で、応じてもらえるかは分からない。そしてオーナー側の提案は「春にこの場所でコーヒーショップを開きたいので、そのためにちまちま揃えてきた什器備品を置いておいてもらえるなら今後退去までの家賃は多少減額してもよい」というものだった。

 関係者への申し訳が立つ程度の合理性は十分あると思ったので、僕はその提案を飲んだ。そうして事務所を3月末までは明け渡す必要がなくなったことから、僕は罪滅ぼしという名の道楽を始めた。


 そんな経緯で開かれたあのスタンドに来ていたのは、コーヒーを飲みたい人というよりも「毎日のきまりをつけたい人」だったように思う。決まった時間に僕のところに来て、僕という他人が入れたコーヒーを受け取って、そこで飲んで行くなりそのまま持って行くなり。あのシステムが功を奏してか、一度しか来なかった人は数えるくらいしかいなかった。


 祖父は相変わらず元気だ。体は。

 僕は全ての片付けを終えたあと、ゴミに出さずに残しておいた最後の一瓶を持って祖父に会いに行った。祖父は僕を見てもまったくピンとは来ていなかったけど、渡したインスタントコーヒーは喜んで受け取ってくれた。これが好きなんだよと言って。僕は、よく知っています、と答えた。

 祖父は上機嫌でカップを二つ準備し、僕にそのコーヒーをごちそうしてくれた。

 それは相変わらず、本当に相変わらず濃くて、僕はちょっとむせた。


 新しい店主は黒縁眼鏡をかけた、三十代後半の人のよさそうな男性で、夫婦で店を切り盛りするという。開店にあたり営業時間についてアドバイスを求められたけど、たぶん客層が全然違うから参考にならないと思い、お断りした。

 今のところ売れ行きはまずまずのようだ。とくに手作りのタルトが美味しいと評判で。僕のお客さんも何度か手土産に持ってきてくれた。ただ、コーヒーのほうはどうなんですかと聞いてみると、どのお客さんも一様で「まあふつうかな」。


 さすがにインスタントは出していないはずなので、僕もいつか行ってみるつもりではあるのだけど。

 店主のこだわりを解するお客さんが早めにあの店を見つけてくれることを、切に祈っている。





  〈 了 〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダサい名前の税理士事務所のコーヒースタンドの話 藤井 環 @1_7_8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ