令和4年3月13日

 昨日別れ際、大神先生は「勇気が出たらお母さんに電話してあげてください」と言った。

 私は、大神先生がそんなことまで踏み込んできたのは意外だったけど、すぐ納得した。なにせ本業と並行というハードスケジュールを組んでまでこのコーヒースタンドを開いている人なのだから。

 おじいさんと大神先生との間に何があったかはわからないけど、大神先生はたぶん、この事務所におじいさんが残したものの片付けを介して、その「何か」を一つずつ、ほぐすように飲み込んでいる。そこに私みたいな、母とのこと見て見ぬ振りする気満々の顔した女が飛び込んできたら、そりゃなんか言いたくもなるだろう。

 私は「勇気が出たら」と返事をし、頭を下げて事務所を離れた。


 家に帰り、冷蔵庫の前でエコバッグから牛乳を取り出した。まだ冷たいから大丈夫。私はそれと卵を冷蔵庫にしまい、事務所で空にしたお寿司の容器は軽くすすいでゴミ箱に入れた。既に割と満杯で、入れたというより置いて蓋載せた感じ。でも、このゴミ箱には生ゴミは入れてないし、ゴミの日もすぐだからセーフだろう。ちょっと蓋浮いてるけど。

 そのあとは、ネットで話題になっていた映画の配信を流しながらスマホをいじった。実況みたいなツイートをいくつかしたけど、映画の中身は正直ほとんど頭に入っていない。ツイートしている文面と私の実際の表情は、完全に乖離している。

 1本目が終わり、カップ麺を食べて(本来予定してたシュークリームを大神先生に献上したので、これはやむを得ない)、その容器をゴミ箱に押し込んだ。次にポテチの袋を抱えて2本目を見始め、3分の1くらいまで進んだところで飽きてテレビを消した。絶賛ツイートばっかり目にしてたから期待しすぎたんだろうな。私には面白くなかった。全部食べたポテチの袋は、大神先生と同じように細く折って結んでから捨てた。


 そして今朝だ。朝っていうか、もう11時だ。布団の中でスマホ見ながらゴロゴロしていたらこんな時間になってしまった。

 いい加減起きて、ごはんを食べる。準備が面倒くさいので、最近は「1袋で1日に必要な栄養がどれくらい摂れる」系のいろんなものを試していて、今日のはパン。袋から出して電子レンジで20秒温めるとおいしいと書いてあり、そのとおりにした。空の袋をひとまずキッチンに残してパンを器にのせ、レンチン。

 20秒なんてあっという間だ。レンジの前で立ったまま、器を持ってパンにかじりついた。もそもそして、食べられなくはないけど美味しくもなかった。二度目はないだろうなと思いながら、私はパンを片手に器をシンクにおろして、ゴミ箱の蓋を開けパンの袋を入れた。

 でも、その袋は、満杯に満杯を重ねたゴミ箱から滑るように飛び出し、ふんわりと床に落ちた。


 それを見て。私は唐突に、お母さんと話そう、と思った。


 パンを急いで口に入れ、袋を拾ってゴミ箱に押し込んだ。上からぎゅうぎゅうに押し付けて蓋を閉め、近くにあった液体洗剤のボトルを乗せて重しをした。

 昨日買った牛乳で口の中のパンを流し込んだ。私は時計を見た。今から顔洗って、着替えて、眉毛だけ描いて飛び出したら12時までにはドーナツ屋さんに行ける。

 もし、昨日の行列になってたドーナツが買えたら。そしたら。

 たまたま買えたから持って行くよと言って。お母さんに電話しよう。

 私は昨日も持って出た小さなバッグを手にとり財布が入っているのを確かめてから、通勤鞄のお母さんの腕時計をそっと移し替え、力強く頷いてから洗面所に向かった。


 あの事務所の前を通るころ、横断歩道の信号が見えた。私は街路樹の枝先を気にしながらダッシュした。

 このあたりの花も、もうすぐ咲きそうだ。

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