令和4年3月12日
お昼前にスーパーに行った。パックのお寿司とシュークリームを買って、あと牛乳と卵。ほかにいるものあったかなと思いながら棚の間を歩き、コーヒーのコーナーに来た。
つい、大神先生が見せてくれたあの瓶を探してしまった。昔からほぼ変わらないラベルのやつ。大神先生のおじいさんもここに立ってこの瓶を手にとっていたんだと思うと、なんだかしんみりした。
外に出ると、月曜に諦めたドーナツ屋さんの前に行列ができていた。数量限定のコラボ商品が正午から販売開始らしい。お店の中のポスターに印刷されたそのドーナツはとても美味しそうだったけど、私が見下ろしたエコバッグの中からはお寿司・牛乳・シュークリームという要冷蔵諸氏が私を見上げており、私は並ぶのは断念した。
もう春の陽気だ。スーパーの前の横断歩道を渡り、大神先生のコーヒースタンドの前を通る。スタンドのほうはしまっていたけど、隣の税理士事務所は換気中のようで、私は、おや、と思った。
そういえば事務所のほう、じっくり見たことなかったな。私は外から様子を窺った。口の開いた段ボールが4、5箱並んでいて、壁際の本棚はほとんど空だ。引っ越しも終盤、みたいな雰囲気。私が戸口で突っ立っていると、奥で扉が閉まる音がして大神先生が出てきた。
大神先生は大きめのパーカーの袖を捲って、濡れた手にステンレスのタンブラーを持っている。私に気づいて一瞬驚いた顔をしたけれど、私が頭を下げると「おはようございます」と言ってくれた。
「全然早くないです。もう昼です」
私はエコバッグを持ち上げて見せた。でも、中が見えるものではないから大神先生にはなんのこっちゃだろう。私が恥ずかしくなって後ずさると、大神先生もタンブラーを持ち上げてみせた。私がエコバッグでしたみたいに。
「一服していきます?」と聞かれたので、私はご相伴にあずかることにした。
おゆるしを得てスタンドのブースでお湯を沸かし、コーヒーを入れた。もちろんいつものインスタントの。
騙されない限りインスタントコーヒーを飲まないと言った大神先生のタンブラーの中身は、本人いわくほうじ茶ラテとのこと。駅前のコーヒーショップのものらしいのでかなり甘いと思うんだけど、大神先生は段ボールの上に腰掛け、ラテも、私が献上したシュークリームも目一杯頬張りながら、壁際のほぼ空になった本棚を眺めていた。
「これ、大神先生が片付けたんですか」
私が聞くと、大神先生は口の中のものを飲み込んでから答えた。
「そう。諸々任されていて」
「土曜日まで大変ですね」
「ほんとは休みたいですよ。でも時節柄どうしてもで」
年度末ってことかなあ、と思ったけれど。ふと私は表の看板を思い出し、「確定申告ですかね」と聞いた。大神先生は頷いた。
「預けっぱなしの資料が要るんだって電話がね。後で、渡すのが遅かったとか言われても困るし」
「でもこの時期に至ってはもはや断末魔の叫びでしかなくないですか」
「確かに。じゃあ僕が渡しているのは引導かもしれない」
大神先生はくつくつと笑いながら指についたクリームを舐め取り、顔を上げた。
「そういえば、お母さんには折り返したんですか」
私は一瞬何のことかわからず、え、と間の抜けた声を上げ、それから思い出した。私が母からの着信を確認したところを大神先生は見ている。私は正直に「折り返してないです」と答えた。
「私、母からは、父はずっと前に死んだと聞いていて。今回の件のあと母とまだ話してないので、なんか勇気出ないんですよね。あのあと着信もないし」
大神先生はきょとんとした顔でこっちを見、それから下を向くと、シュークリームの袋を細く折って結び、机の上に放り投げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます