令和4年3月11日

 朝のニュースは震災から何年、という話をしていた。あの災害が起きたのは私が就職した年のことだった。もうそんなになるのかと思いながら、私は家を出た。

 数年前に駅前のコーヒーショップで買った、春限定のさくら柄のタンブラーも持っているのだけど。昨晩、それを思い出して戸棚から出した後、一応洗ってはみたけど持っていくのはやめた。もう鞄、割とぱんぱんだし。


 コーヒーはいつもスタンドの前で飲み切って、カップを大神先生に渡してからバス停に行くので、ゆっくり飲もうと思うと自然、家を少し早く出ないといけないことになる。

 今日私がスタンド前についたとき、まだスタンドは開いていなかった。開店時間の5分前なのに気配もないから、私はカードを見て今日が休みじゃないことを再確認すると、中を覗いたり周りを見回したりして大神先生を待った。

 果たして大神先生は時間ぴったりに来た。「早いっすね」と言いながら、隣の税理士事務所の鍵を開けて入って行く。私は「先生が遅いんですよ」と返事をしたけど、大神先生は「御社と当社とでは風土が違うんですよ」とか適当なことを言いながらネイビーのエプロンを広げ、慣れた手つきで身につけると屈んで水のペットボトルを取り出した。

 大神先生は私の仕事を知っている。実は割と最近も電話で話していたらしい。私は全然覚えがなかったけど。戸籍の取り寄せ書類の不備関係で、弁護士さんと話すことはちょくちょくあるから、多分その中の一人。


 いつもみたいにカードを渡して、お湯が沸くのを待つ。大神先生の後ろには銀色の大きなコーヒーマシンが並んでいる。

「そんな立派なマシンあるのに、どうしてインスタント出すんですか」

 私が中を指差しながら聞くと、大神先生は後ろを見、それから「これは置かせてあげているだけで僕のじゃないんです」と言った。

「え? 使っちゃいけないんですか?」

「別に使っても文句は言われないとは思います。でも僕はインスタントコーヒーを出したいので」

「なんでそんなにインスタントが好きなんですか」

「いや、好きじゃないです。騙されない限り飲みません。確実に眠れなくなる」


 謎が多すぎる。私はカップを受け取った。大神先生は、私のその(いかにも納得していないぞ、という)顔を見て、手元を見下ろして。それから、インスタントコーヒーの瓶を手に取ると私の前にコトンと置いた。

「ご気分を害するかもしれませんが。僕が提供しているこれは、もともと僕の祖父が買い貯めたものです。ここで数十年税理士をしていて、濃く入れたインスタントコーヒーが好きでした。今は親族の顔も覚えていませんが、そこまで進む前、まだここにいたときも、そこのスーパーに行くたびこれを買ってきていたと聞いています。その結果、人に譲れた分を除いてもかなりの数が」

「それはもう捨てていいんじゃないですか」

「藤沢さんは捨てられますか?」


 私は一瞬ドキッとして、思わず目を逸らすとコーヒーを一口啜った。このへんの街路樹はコブシで、日当たりのいいところではもう咲いているけど、ここはまだだ。

 私は一呼吸置き「悩みますね」と答えると、そのあと無言でコーヒーを飲みきり、ごちそうさまだけ言って大神先生に空のカップを渡し、お店の前を離れた。


 横断歩道に向かいながら、私は肩からかけた鞄を撫でた。

 就職してから通勤鞄は何回も変えたけれども。私はその都度、内ポケットに母がくれた腕時計をしのばせ続けている。ちゃんと電池を入れ替えて、時間だって合わせて。

 だから「悩む」なんて嘘だ。

 私もたぶん、捨てられない。

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