Then,she was gone

間川 レイ

第1話

1.

「ねえ、先輩。」


と。ポツリとあの子が呟いたのは、高校からの帰り道。夕暮れの差し込む公園で、私とあの子が、ベンチでホットのミルクティーを飲んでいるときのことだった。


「人生って、なんだと思います?」


唐突に難しい話をする。そう、苦笑しようとしてできなかった。だって、そういう彼女の横顔は、あまりにも思い詰めていたから。だから私も真面目に考えてみる。人生。人生とは一体、何なのだろう。


しばらく考えてみたけれど、私にはわからなかった。何せ、これでも私はまだ17年しか生きていないのだ。人生の意味とか、そうしたものを理解するにはまだ、早すぎる。だから私はゆっくりと頭を振るといった。


「わかんないな。」


と。それではあまりにもそっけなさすぎる気がしたので、「生きていれば、そのうち分かるようになるんじゃない?」と、つけ足しておく。


「そうですよね。」


そう、小さく口の端で笑って見せるあの子。それっきりあの子は何も言わなくなった。手元の350mlのペットボトルを手元で転がすだけで。コロコロ、コロコロと。口をつけることもなく。


からっ風が冷たい。思わずダウンの裾を閉じる。それでも彼女は微動だにせず、うつむいたまま。彼女と話すのは割かし好きだけど、こう、いつまでもだんまりというのも居た堪れなくなってきた。


「ねえ、それ、飲まないと冷めちゃうよ。新しいの買ってこようか?」


そう言ってベンチを立とうとしたとき、彼女がぽつりと口を開いた。立ち上がった私を見上げて、潤んだような目をして。そんな、今にも泣きだしそうな、奇妙に歪んだ顔をして。


「私はね、先輩。人生に意味なんてないと思うんです。死んでいないから生きているだけ。違いますか?」


私は黙ってベンチに腰を下ろす。彼女がこういうことを言い出すときはいつだって決まっている。でも、念のために確認しておく。


「また、殴られたんだ?」


彼女は無言でこくりと頷く。


ああ。私は無言で天を仰ぐ。彼女はこの辺りではそこそこ名の知れた開業医の一人娘だ。だが、そんなお嬢様といってもいいような境遇とは裏腹に、家族とはあまりうまく行っていないようだった。またか。私は心中溜息を吐く。それでも私は矢継ぎ早に尋ねる。


「今度はどっちに殴られたの?お父さん?お母さん?」


「父さんです。」


「いつ?昨日?一昨日?それとも今朝?」


「昨日の晩です。」


「どれぐらい?」


彼女は無言で制服の裾をめくる。そこから覗くのは、赤、黒、青と、色とりどりに変色した彼女のお腹。酷いな、と内心舌打ちをする。私は一つ溜息を吐くと言った。


「ねえ、前も言ったと思うけどさ。」


私はそこで一息つぐと続ける。


「児童相談所に行ったほうがいいよ。あるいは警察でもいい。近くの交番までなら、私もついていくから。」


でも、彼女は首をぶんぶんと横に振ると言った。今にも泣きだしそうな顔をしながら。


「駄目なんですよ、先輩。前にも言ったでしょう。」


そして小さく微笑むと言った。


「そんなことしたら、家族がバラバラになってしまいます。」


そう、儚げに小さく笑う彼女。


家族、ね。私はもう一度内心舌打ちをする。ああ、イライラする。私は時々彼女のこうした話にのっているから知っている。彼女の家族がどんなものかを。開業医の父親が一人、薬剤師の継母が一人、血の半分つながった妹が一人。


私に言わせれば、どいつもこいつもろくでなしだ。どいつもこいつも、彼女を殴るか、罵倒するか、あるいは見て見ぬふりをする。自分もまきこまれたくないから。ああ、ムカつく。そんなものが家族といえるものか。だから私は、彼女の向こう正面に屈みこむと、彼女の目を見ながら言った。


「ねえ、あんた。分かっていると思うけどさ。」


そしてその目を覗き込むようにしながら続ける。


「あんた、そのままじゃ殺されるよ。殺されてもいいの?」


そう、私には確信があった。彼女に対する父親からの暴行は日に日に酷くなってきている。頭を鷲掴みにして壁や柱に何度も叩きつけるなんて序の口で、先ほどもみた腹部への執拗な殴打。


前なんて70発以上も殴られたなんて聞いた。それ以上は数えるのがしんどくなってきてよく覚えていないとも。


途中から数え始めて70発までは数えていたんですけど、さすがに面倒になってきちゃって、とぼろぼろになった彼女は笑っていた。20発ぐらい殴られていると、段々頭がぼーっとしてくるのでそこまで痛くないんですよ、なんてフォローのつもりか言っていた彼女を思い出す。


ギリ、と奥歯が鳴る。馬鹿!と怒鳴ってやれればどれほど気が楽だったか。でも、ただでさえ傷ついている彼女にそんな追い打ちをかける真似なんてできるはずがなかった。


それに母親だって。そうして殴られた後に、いかに彼女が愚かで、それが故そのように殴られる羽目になったかを強烈な嫌味や罵倒とともに、こんこんと説いてくるのだという。その内容については、正直、思い出したくもない。


そして妹は、彼女が殴られ始めると一目散に自室に逃げ込むのだという。決して自分には飛び火せぬように。くそったれと毒づきたくなるというものだ。


そんなものが家族かよ。私は内心呟く。そして彼女は日々ぼろぼろに、そして何よりどんどん精神が不安定になっていっているように思えてならない。彼女は必死にそれを隠しているようだが、すでに綻びがあちらこちらで見え始めているのだ。


このままでは、遅かれ早かれ彼女は殴り殺されるか自殺する。そんな予感があった。


だからこそ私は言うのだ。せめて児童相談所か警察に行くべきだ、と。


でも彼女は笑うのだ。今にも泣きだしそうな、叫びたそうな顔をしているくせに。


「そんなわけないじゃないですか、先輩!」


そう言って、奇妙に湿った声で。


「これでも、昔に比べれば殴られなくなってるんですよ!それに今回は成績の悪かった私が悪いわけですし!母さんも昔ほどは厳しく言ってこないようになりましたよ!」


そう言って笑って見せる彼女。そして彼女は続ける。


「確かに昔は厳しかったですけど、最近は随分優しくなったんですよ!なんと言うか、このままいけば、まだ、仲直りする機会はあると思うんです。そこにあんまり事を荒立てるようなことをすると、せっかく丸く収まるものも収まらなくなってしまうと思うんですよ!」


だから、警察に行けだとか言わないで。そう、必死に目で訴えてくる彼女。そんな彼女を見ていられなくて。思わず目をそらしながらも私は尋ねる。


「それ、本気で言ってる?」


私には、彼女がそれを本気で信じているようにはとても思えなかった。だって、彼女は泣いていたから。口元だけは、笑顔の形に固まっているのに、目元からは涙がはらはらと。


正直、見ていられなかった。叶うことなら、彼女の腕をひっつかんででも交番に駆け込みたいぐらい。でもそれをすれば彼女は絶対に私を許さないだろう。絶対に私を恨む。


彼女に恨まれると考えただけで、心がきゅっと締め付けられるような心地がする。だって彼女は、私にとって大切な後輩だったから。


それに、私は臆病者だから、思ってしまうのだ。赤の他人の私が、そこまで踏み込んでしまっていいものか、なんて。だからこそ私は問う。あなたは本気でそれを言っているの?と。


どうか気付いてほしいと祈りを込めて。


あなただってわかっているはずだ。それが到底うまく行くはずがないということに。だってあなたは、そんなにも泣いているのだから。


でも。でも。彼女は笑って言った。涙をハラハラとこぼしながら。


「当たり前じゃないですか!」


そう、どこまでも歪な笑顔を浮かべて彼女は言う。


「前はうまく行かなかったんですけど、今度こそはうまく行く気がするんです。それに今、妹も高校受験の時期ですし!事を荒立てて妹の人生をめちゃくちゃにしてしまったら、それこそお姉ちゃん失格ですよ!」


そう、微笑んで見せる彼女。そして、その瞳の奥に光るのは、だから余計なことをしないでという強烈な拒絶の光。


「そう。」


もう、私には何も言えなかった。言うべき言葉が見つからなかったといってもいい。私の言葉は彼女に届かない。そのことがよくわかってしまったから。


彼女は、家族というものに囚われてしまっている。理想の家族という虚像に。そんなもの、初めから存在しないのに。


どうして彼女がそこまで囚われてしまったのかはわからない。親の教育が原因か、それとも学校で事あるごとに家族は大切にしましょう、親は敬いましょうなんて教え込まれるからか。あるいは社会全体に、家族は尊いもの、親は尊敬すべきものなんて価値観があるからか。


くそくらえだ。私は内心吐き捨てる。家族なんてくそくらえ。家族を敬う者もくそくらえだ。


そんなの、まるで洗脳じゃないか。私は思った。彼女を見ていると思ってしまう。所詮家族なんてものは、血のつながりのある赤の他人に過ぎないのに。法的に扶養関係という特殊な関係で結ばれているだけの、所詮は赤の他人に過ぎないのに。


なのに、この世界は家族を尊いものとする。親は立派なもの、敬うべきものとして教え込む。いかれてるよ。私は内心呟く。初めて、この世界を恨めしいと思った。常識というものを恨めしいと思った。


そんな妄想があの子を縛り付ける。何重にも、ぎちぎちと。ついには悲鳴すら上げられないほどに。助けての一言すら、あげられないほどに。


それは呪いだ。私は思った。世界の課した、子供たちに課した呪い。親は大事なものです、敬いましょう。家族は大切なものです、大事にしましょう。そうした呪いが、子供たちを追い込んでいく。


そしてそうした呪いが子供たちへの暴力を正当化するのだ。これは子供のためを思ってのことだから。これは子供への愛の具現化だ、部外者が口を出すな。そうした聖域を許容するのがこの世界。


嘘つきめ。私は冷笑する。お前たちは、ただ子供を痛めつけたいだけだ。抵抗しない、抵抗してきても容易に制圧できる生きたサンドバックとして。自分の暴力衝動を、加害衝動を発散するための道具として。お前たちはただ、弱いものいじめがしたいだけだ。


きっと彼女は死ぬだろう。私にはそんな予感があった。そして、彼女を殺すのはこの世界なのだ。そこまで考え、いや、と私は首を振る。


私もまた、世界側の人間だ。本当に彼女の身柄を心配するのなら、つべこべ言わずに彼女を児童相談所か交番にでも無理やりにでも引きずり込めばいい。そうすれば自動的に彼女は保護される。


なのにそれをしないのは、私が臆病者だから。


私の心は、そうした時の彼女の恨みのこもった視線に堪えられない。よそ様の家庭に首を突っ込み、家庭を崩壊させた人間と、世間に後ろ指を指されることに堪えられない。


だから私はこうして口をつぐむ。その結果が大切な彼女の死であることを予期しながら。


結局のところ、私は臆病者で、偽善者で、そして限りなく自己中心的な人間なのだと思う。


たった一歩、足を踏み出すだけでそこに救える命があるのに、救おうとしないのだから。ただのわが身可愛さに。彼女を大切だと言いながら。どこまでも自己中心的。エゴイスト。


そこで、私はああと理解する。私の世界に対する憎しみも、大人に対する憎しみも、私の本質なんかじゃない。


結局のところ、それらはこうした自己嫌悪の裏返し。私が彼女を救えないから、世界に彼女を救ってもらおうと期待して、それが叶わなかったことに対する逆恨み。


救えないんじゃないな。救わないんだ。私はそう思いなおす。


私は私が可愛いから。だから私は可愛い後輩を見殺しにする。なんて欺瞞、なんてエゴイスト。これでは自分の快楽のために子供を痛めつける大人と何も変わらない。そう苦笑する。


でも、一言ぐらい謝ることぐらいは許されるだろう。


これもまた、所詮は私の自己満足に過ぎないのかもしれないけれど。


そう思いながら私は彼女の目を見て一言だけ謝る。


「ごめん。」


と。


何を謝られたのか理解できていないだろうに、彼女はにっこり笑うと答える。


「いいですよ!」


と。そんな無邪気な、あるいはどことなく安堵したような彼女の笑顔を見ていられなくて。私は逃げるように背を背ける。そんな背中に、彼女の声が追いかけてきた。


「先輩は、生まれ変われるとしたら何になりたいですか?」


私は溜息を吐きつつ天を仰ぐ。真っ赤な空を背景に、カラスの親子が飛んでいた。家に帰るのだろうか。


「鳥かな。」


私は小さく答える。きっと、鳥になれば、こんな罪悪感とも無縁でいられるだろうから。こんな煩わしい家族というものに縛られずに、どこまでも飛んでいけるだろうから。


「あんたは?」


私も聞き返す。きっとろくな返事は帰ってこないと、心のどこかで理解しながら。


果たして彼女は。


「私は生まれ変わりたくなんかありません。ただ、早く死にたいです。」


そんな彼女が、どんな顔をしてそう言っているのかは、分からなかった。


ギリ、と歯を食いしばる。私はまるで逃げ出すように駆け出していた。振り返りたい気持ちを押し殺して。


きっと、振り返れば、彼女をひっぱたくか、泣き出すかしてしまいそうだったから。


あるいは、無理にでも交番に連れて行ってしまうかもしれない。でもそれは出来ない。


だって、その後どうなるか分からないから。分からないというのが、私にはとても恐ろしい。


だから。私は溢れそうになる涙を堪えながら、ずんずんと彼女から遠ざかっていく。


「また明日も一緒に帰りましょうよ!」


そんな背中に投げかけられる、彼女の無邪気な声。


そんな無邪気な声が、耳にこびり付いて離れなかった。


2.

そして翌日。彼女は学校に来なかった。その翌日も、翌々日も。彼女の家からは、インフルエンザになって彼女は登校できないと連絡があったという。学校の先生はそれを疑う様子も見せない。


でも、私だけは思ってしまうのだ。彼女はもう、この世にはいないのではないかって。もう、殺されてしまっているのではないかって。


その証拠に、彼女の家の前を通った時に見た。庭の一角の土が明らかに最近掘り起こされ、また埋めなおした痕跡があることを。深夜、彼女の家の前を通っているときに見た。彼女の父親と思しき人物が、庭で「何か」を燃やしているところを。その何かは、彼女の着ている制服によく似ていた。


全ては勘違いかもしれない。でも、第六感とでも言うべき感覚が告げている。彼女はもうここにはいないと。


心のうちに、穴の開いたような感覚。そこにはひゅうひゅうと隙間風が吹き、私を責め立てる。底の無い穴からは、際限ない虚無があふれだしてきて、私という私を飲み込んでいく。私が見捨てたくせに。私が見殺しにしたくせに。あの、可哀そうな彼女を。


だから私は、自分自身で決着をつけることにした。


私は通学路のビルの屋上で、用を果たしたスマホを投げ捨てる。これで、警察が彼女の実家に向かうはずだ。彼女が虐待を受けていたこと、彼女の姿がここ数日見えないこと、彼女の実家に不審な様子が見られることなど全部話した。遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。


うん、これでいい。私は小さく頷くと、ビルの転落防止用フェンスを乗り越える。下を見れば、これから会社へ向かう会社員や、学校へと向かう学生たちの姿。私と同じく、彼女を見殺しにした人たち。


私は懐に入っている遺書の位置を直す。ビル風にあおられて、私の髪とスカートがバサバサとたなびく。


彼女のいない世界は、寂しかった。私が殺したのも同然のくせに。私は、救わないことを選んだ癖に。


だから、私は自分自身に罰を下すことにした。パトカーのサイレンが近づいてくる。罪人はここにいるぞと皆に知らしめるように。


これでいいのだ。私は内心呟く。罪人は死に、世界はちょっとぐらいはマシになる。


死にたがっていた彼女。生まれ変わりを否定した彼女。


きっと、来世というものがあっても、私たちはもう会えないんだろうな。何故だか、そんな予感があった。


それでもいい。これが、私の責任のとり方なのだから。私は彼女と一緒に買った御守りをギュッと握りしめる。


ごめんね。


私は小さく呟くと、ゆっくりと宙に体を投げ出した。

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Then,she was gone 間川 レイ @tsuyomasu0418

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