最終話 旅立ち

 初めに気がついたのは、誰だったのだろうか。

 シルハは王の命に従い王都の門を開け、住民を一旦町の外へと避難させた。兵士たちに指示を出しながら、怪我人の保護と王宮への警戒を強めていく。

 少し前から、地面の振動がなくなっていた。事態は収束したのか、それとも何かが起こる前触れか。


 王宮を見つめていた彼の耳が、突如不思議な音を捉えた。住民を避難させるため張った天幕に、何かがぶつかる音である。初めは小石か何かだと思ったが、パラパラと連続する音に目を剥く。

 視線を落とせば、自分の分厚いマントにも小さな水滴がついていた。


「し、シルハ様」

 部下が上空を見上げ、あんぐりと口を開けている。シルハも釣られて空を見上げると、瞳めがけて何かが落ちてきた。頬骨にぶつかり、こめかみに冷たい液体が流れていく。水だ。シルハは信じられないような気持ちで、周囲を見回した。

 うっすらと白み始め、淡い青色を溶かした空から、水が次から次へと降ってくる。慌ただしく動いていた部下たちも、不安げな顔をして身を寄せていた王都の住民たちも、皆一様に空を見上げていた。


「雨……?」

 誰かが、その言葉を呟いた。雨、など、物語の中で幻のように語られていた現象なのに。正に、奇跡だ。

 ざわめき始める群衆の中で、シルハは一人納得したような気持ちで全身を弛緩させる。緊張で火照った体に、落ちてくる雫が心地よい。彼はため息交じりに呟いた。

「そうか……。無事に女王蜂を救えたのだな」

 彼にしては珍しく、穏やかな笑みだった。



 同時刻。この国に生きる生命たちが、皆、空から降ってくる奇跡を目の当たりにしていた。


 日の出と共に、地下遺跡から這い出た老人は、目尻の皺に涙をためて頷く。

「長生きはするもんじゃのう」

 彼は約束のペンダントを、片手でしっかりと握りしめた。


 早朝から道端を掃除していた三人組は、目を剥いて腰を抜かす。

「ど、どういうことだ、これは⁉」

「こんな大量の水、一体どっから降ってきてんだ⁉ こんなの今まで見たことがないぜ」

「情けないねぇ! 空から水が落ちてくる。これが伝説の雨ってやつなんだろ?」

「そうか! まさかこりゃ、兄貴たちの仕業か⁉」

「くぅー、流石だぜ! 兄貴たち元気かなぁ」


 オアシスが有名な、とある町。高く結い上げた髪を揺らしながら、少女は祖母と馴染みの老人の手を引く。

「カジおじいさん、おばあちゃん! 外、空が大変なの⁉」

 扉の外へ二人を案内すると、どこか自分のことのように自慢げに空を指し示す。足下にすり寄ってきた小さな体を持ち上げて、頭を撫でながら目を細めた。

「きっと、ムルさんたちが何かしてくれたのね! これでオアシスも元通りになる。本当に良かったわ。ねぇ、イベーラ」


 ある小さな集落の朝。その時、少年はまだ夢の中だった。父親に体を揺さぶられ、寝ぼけ眼を擦りながら大あくびをかみ殺す。それどころではないと、妙に焦った様子の母に手を引かれて天幕から出てみれば、空から水が落ちてくると言う信じられない光景を目の当たりにした。

「え、え? これ、何?」

 母が泣きそうに唇を震わせながら、これは雨という現象なのだと教えてくれる。キラキラと輝きながら落ちてくる水は、宝石みたいだった。

「雨か。すごいねぇ……すごいや!」


 その日、彼女は日の出よりも少し前に目覚め、寝台の上で大きく腕を伸ばした。何の気なしに窓の外を眺め、慌てて窓辺に駆け寄る。

 夢じゃない。彼の言ったことは、本当だったのだ。

「――行かなきゃ」

 胸元にある母の形見を握りしめ、少女は慌てて駆け出す。

「おはよう! っと、どうしたんだ一体⁉」

「ちょ、ちょっと! こんな朝早くからどこに行くんだい⁉︎」

 廊下ですれ違った叔父と叔母が、慌てた様子で彼女に声をかける。立ち止まるのも時間が惜しくて、彼女は軽く首だけで振り返って叫ぶように告げた。

「ムルさんたちとの約束! 守らなきゃ!」



 彼女同様、蜂たちと約束を交わした者たちは、皆、水の蜂の遺跡の扉を開いた。

 空から降り注いだ雨はやがて大きな流れとなり、大地や遺跡の入り口から地下へと入り込む。

 水の奇跡は絶えることなく降り注いだ。今までの分を取り戻すかのように。

 そして何日も何週間も経って、ようやく雨が止んだ時には、国の地下に張り巡らされた地下通路は、広大な水路に変貌を遂げていたのである。






 透けるような青色が、どこまでも広がっている。鷲か鷹か大型の鳥が二羽、その空をかき混ぜるように旋回し、どこかへ飛んでいった。

 少し柔らかい風が彼の髪を撫でて、駆け抜けていく。耳心地の良い水音がさらさらと歌って、ムルはその声に聞き入るように両目を閉じた。

「にょにょ」

 友人の声に、彼は目を開く。腕の中の小さな存在が身じろぎをしたのを感じ、彼は静かにという意図で、人差し指を唇に当てる。察したらしいニョンが、無言で身を震わせた。

 噴水の囲いに腰をかけながら、ムルは周囲へ視線を向ける。


 あれから何月なんつきか経った。浮き足立っていた様子の国も、次第に新しい環境に慣れてきたように思う。それほど被害がなかった王都は、概ね初めて来た時と同じ状況に戻っていた。変わったものも多いけれど。

 ムルの目の前を、数人の子どもたちが勢いよく走り抜けていく。歪んでしまった道の平石を、それすら遊びにして飛び跳ねている。華美な服装の子に混じって、旅人と同じ分厚いマントを身に着けた子が笑っていた。

 固く閉ざされていた王都の門は、今や大きく開け放たれている。今後は誰もが気軽に立ち寄れる場所にしたいのだと、妙にすっきりとした表情の王が笑っていた。


「あ、炎のお兄ちゃんだ!」

 子どもたちの歓声交じりの声に、ムルは顔を上げる。子どもたちが、こちらに近づいてくる深紅色の髪の少年に手を振っているのが見えた。

 少年、アルガンは片手を上げて子どもたちに応えている。

「お兄ちゃーん! また釜戸に火をつけるのを手伝ってほしいって、お母さんが言ってたー!」

「だから、俺は便利道具じゃないっていっつも言ってるだろ⁉」

 アルガンが軽く拳を振り上げると、子どもたちは甲高い悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。何だかとても楽しそうだ。

 ムルの心も少し踊る。


 彼の兄弟たちは、擬似魔術器官を取り除かれることで少しずつ正気を取り戻していっているようだ。罪を犯した者も、きちんと償えるように王が取り計らってくれているようである。

 当のアルガンは、この力と生きていくことに決めたらしい。簡単に切り離せるものでもないし、もうこれは自分の一部だからと。


「ああ、いた! ムル、先に来てたの、か……」

 アルガンの言葉が、不自然に止まった。片手を上げた動作のままで、ぎょっと目を剥いている。彼の視線は、ムルの腕の中で眠る存在に釘付けだ。

 やがて口元と指先を戦慄かせ、アルガンが大きく口を開く。

「ムルの子」

「違う」

 ムルは間髪入れずに否定した。彼の腕の中では、紅色に頬を染めた赤子が、安らかな寝息を立てていたのである。

 幾分か柔らかく感じるとはいえ、日光が当たり過ぎるのはよくない。ムルは自分のマントを引っ張り、赤子に日陰を作ってやった。


「王宮を立て直している職人の子どもで、今日は王に謁見するからと言って預かったんだ」

「なんだ、そっか。いや、そうだよな。計算が合わねぇし」

 アルガンは胸に手を当て、ほっとしたような笑みを浮かべている。そして息をひそめて、ムルの腕の中をそっと覗き込んだ。

「うわぁ、ちっさい。はは、ほっぺとかプクプクじゃん」

「つるつるもちもち、極上だったぞ」

「既に堪能した後かよ」

 呆れてアルガンは鼻で嘆息し、ぐるりと周囲を見回す。


「そう言えば、俺たちを呼び出したチャッタはどこに——」

「二人とも、遅れてごめんね!」

 噂をすればとは言ったもので、王宮のある方向から、チャッタの声が聞こえてくる。遅いぞと振り返ったアルガンは、大きく肩を震わせた。

 駆け寄ってくるチャッタは太陽でも背負っているのかと思うほど、なんだかギラギラしているのである。彼はここ数カ月の間、崩壊を免れた王宮の設備を借りて何かの作業に没頭していたのだが。

 噴水の前までやってくると、チャッタは胸を押さえて息を整え、腕に抱えていたものを差し出す。


「ついにできたよ! 今までで最も新しい水の蜂の記録が!」

 彼が持っていたのは、いくつもの巻物であった。引きこもっていたと思えば、彼はこれを作っていたのか。

 興奮した様子のチャッタに、赤子が起きるとアルガンが注意をしている。チャッタはムルの腕に抱かれた存在に目を丸くしながらも、声を潜めて問いかけた。

「ムルの子?」

「そのくだり、さっきやって終わった」

「分かってるって、冗談だよ」

 アルガンの指摘に可笑しそうに笑い、チャッタは感慨深そうに巻物を見つめている。


「ようやく書き留めることができたよ。まだ完璧とは言えないけれど、あの旅で僕が見てきた彼女たちのことを、一度ちゃんとした形にしておきたかったんだ」

「大変な状況なのに、よく場所が借りられたよな」

 アルガンが王宮の屋根を見上げながら呟く。半壊してしまった王宮は補修が間に合わず、未だに職人たちがせっせと立て直しを行っているのだ。初めに見た時よりも、王宮の塔の数は少ない。


「うん。実はね、ジャザーム陛下から直々に頼まれたんだ。自分の国をずっと支えてくれていた存在のことを、もっとちゃんと知って、後世に伝えていきたいからって」

 頼まれなくても作るつもりだったけど。そう言って、チャッタはおどけた様に笑う。


「まぁ、あのシルハのおじさんがついてれば、安心じゃね? 怖そうだし」

「だよねぇ」

 傍で王を叱咤激励しているシルハの姿が目に浮かんだのか、チャッタたちは笑みを浮かべた。チャッタは眩しそうに目を細める。


「きっとここは、いい国になるよ。今回のことをきっかけに、国名も改めるっておっしゃってたしね」

「え、そうなのか? というかこの国に、名前とかあったんだな」

「あったんだよ。まぁ、これから変わる国名はちゃんと覚えていてね」

 アルガンの言葉に苦笑しながら、チャッタの唇がそっと名を紡ぐ。竪琴のような美しい音が、ふわり風に乗った。


「『ヴェス・レマイヤ』。これが新しいこの国の名前だよ」

「それって……」

 何かに気づいたように、アルガンが息を呑む。ムルは二人の顔を交互に見つめ、首を傾げた。

「そう。女王蜂さまの名前だよ。こうすれば、誰もあの御方のことを忘れない。この国が続いていく限りね」

 そうか、こんな形で遺してくれたのか。ムルは胸が温かくなって、下を向く。

 腕の中にいるこの子が大きくなって、更にそのずっとずっと先の世代まで、この名が受け継がれていけばいいと思う。


「ああ、いけない! この話をするためだけに、二人を呼んだんじゃないんだ」

 アルガンたちが顔を見合わせる中、チャッタは丸めた羊皮紙を取り出す。水の蜂の記録とは違って、擦れて穴が空いた古ぼけた紙だ。

 彼はそれを噴水の周りの石に広げ、二人を手招く。

「ほら、僕たち、この地図を見ながら旅をしてきただろう? 随分と色々な所を旅した気もするけど」

 彼の指先が、地図の端、「王都」と書かれた文字の左側を指さした。その先に紙はなく、彼の指は凹凸のある石の上を指している。


「この地図の先、つまり西側は未知の世界。僕の師匠も行ったことがないんだって」

 地図を覗くムルとニョン、アルガンの顔をぐるりと見まわし、チャッタは笑う。翡翠色の瞳が悪戯っぽく輝いた。

「行ってみたくない?」


「行く」

「にょ!」

「俺も行く。行きたい!」

「え、え⁉ まさか、即答してくれるとは思わなかったな」

 照れたように頬を染めて、それでもチャッタは嬉しそうに笑う。


 その声に驚いたのか、ムルの腕の中で赤子がむずがるような声を発した。しまったという顔をして口を押さえ、全身で固唾をのんで赤子の様子を見守る。

 小さな手のひらが猫のように顔を擦って、目蓋が持ち上がりその瞳が露になった。不思議そうに瞬きを繰り返す瞳の色には、確かな既視感があって。

「あ――」

 目を大きく見開き、アルガンが思わず声を上げる。案外機嫌の良さそうな赤子を見つめて、彼はふっと力を抜くように微笑んだ。

、良いなぁ……」

「そうだね」


 チャッタも目を細めて頷くと、地図を丸めて腰元に戻した。水の蜂の記録も全てまとめると、気を取り直したように顔を上げる。

「良し。そうと決まれば、早速旅立ちの準備をしないと! ムルは赤ちゃんを親御さんの元に帰してからだね。ふふ、楽しみだなぁ、また新たな水の蜂の痕跡が見つかるかもしれないし」

「え、本物に会ったのに、まだ探すのかよ」

「当たり前だよ! まだ全てを知れたわけじゃない。これからも僕は、彼女たちの痕跡を追っていくよ!」

 会話をしながら、チャッタとアルガンは歩き出す。赤子を抱え直して、ムルも噴水の前から腰を上げ、後を追った。


「ん――」

 ふと、歩き出したムルの鼻先に、水が一滴落ちてきた。また雨だろうかと顔を上げるが、空に変わったところは見られない。

 瑞々しい、その鮮やかな蒼色に思わず息を呑む。輝いているわけでもないのに、その吸い込まれそうな色はとても美しく、愛おしく思えた。

「おーい、ムル!」

「早く行こう! 先に腹ごしらえな」

 仲間たちの声に頷くと、ムルは再び空を見上げる。

 その向こうにいる誰かに届くように、大きく空に向かって手を振った。





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水の蜂 寺音 @j-s-0730

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