第97話 君ともう一度約束を

 絶対に許さない。

 チャッタの叫び声が空間に反響し、砂のようにサラサラと消えていく。青白く光る寒々しい空間に、押し殺したような嗚咽が漏れ始めた。

 涙の膜が張った視界は歪んで、ムルの顔も良く見えない。そのひんやりとした手のひらだけが、唯一彼の存在を確かめることができるものだった。


 不意に瑞々しい花のような香りが、鼻孔をくすぐる。その場違いとも言える香りにチャッタが首をもたげると、視界の端に淡い青色が映り込む。焦点を合わせるように何度か瞬きをすると、彼の隣には女王蜂が座り込んでいた。

 チャッタは服の袖で涙を乱暴に拭うと、掠れた声で彼女へと声をかける。

「じょおうばち、さま。ムルは、その――」


 チャッタに、彼女を責める気持ちはなかった。例えムルの命を終わらせた原因が、水の蜂の力を彼女に渡してしまったことだったとしても。

 しかし、それでも、なんと声をかけて良いのか分からなかった。

 彼の気持ちを知ってか知らずか、女王蜂は小さく嘆息する。子を見守る親のような、どこか柔らかい響きを持っていた。


「彼に時間を与えていたのが、水の蜂の力なのであれば」

 チャッタの視界は相変わらず役立たずで、隣にいる彼女の表情までは判別できない。しかし、彼女の瞳は、横たわるムルを真っ直ぐ見つめていた。

「彼の命を救う方法はあります」


 チャッタの心臓が大きく揺れた。冷えてしまった指先に熱が戻ってきて、彼は縋るような眼差しを女王蜂へ向ける。

「ほ、本当ですか……⁉ い、一体どうやって」

「お――俺にできることなら何だってするから! 教えてくれ、どうすればムルは助かる⁉」


 アルガンも涙でぐちゃぐちゃになった表情で、大きく身を乗り出す。二人は固唾をのんで女王蜂の発言を待った。

「簡単なことです。水の蜂の力が彼に時間を与えていたのなら」

 眉を吊り上げ、彼女は凛として微笑む。

「今度は、わたくしいのちを彼に与えれば良いだけです」

 どれだけの時間を、授けてあげられるかは分からないけれど。そう言って、彼女は自らの胸に手を当てた。


 チャッタとアルガンは絶句し、彼女の顔を見つめる。ムルの体に寄り添っていたニョンだけが、不思議そうに周囲を見回していた。

 チャッタは顔を青ざめ、狼狽して口を開く。

「い、いけません! 貴女はやっと救われたばかりなのに、ムルは誰よりもそれを望んでいたのに……! 貴女はまた自分が、犠牲になると言うのですか⁉」


 これでは犠牲になる者が変わっただけだ。水の蜂たちの想いも、ムルの頑張りも報われない。

 チャッタは悔しげに唇を噛む。結局誰かが犠牲になるより他はないのか。彼は悔しさで小刻みに体を震わせる。

 強く噛み締め鋭い痛みが走る唇に、そっと柔らかな何かが触れた。

「私はもう十分、救ってもらいました。それにこれは、犠牲ではありませんよ」

 女王蜂は人差し指で、チャッタの唇を優しく撫でる。彼女は指を離すと、天に浮かんだ光の環を愛おしげに見上げた。


「私も彼も、それぞれ愛する者の下へ帰る。ただそれだけのことです。――何かおかしなことがありますか?」

「そ、そうだとしても」

「貴方たちも優しい人ですね。彼と同じ」

 手を口元に当てて、女王蜂が可笑しそうに笑う。

 全く似ていないのに、彼女の表情にチャッタは自分の師匠を重ねた。慈しみをもった表情がそっくりだった。


 宙に浮かんだ光の環から、いくつかの光が分裂し近づいてくる。アルガンの顔の周囲を回り、次いでチャッタの下へやってきた。何かを語りかけるように光を点滅させて、力強い脈動で周りを照らした。

 女王蜂は眩しそうに目を細める。彼女の笑みが、光に照らされて月のように輝いた。

「ほら、やっぱり。皆も賛成してくれているようですよ。私の罪も、少しは清められるかもしれません」


 光はアルガンとチャッタの前で舞い踊る。ふわりと柔らかい丸い軌跡を描いて。

 チャッタはムルの顔へ視線を落とす。本当に、彼は目覚めるのか。目覚めさせてくれと望んでも良いのか。

「――ありがとう」

 弾かれたように顔を上げると、アルガンが女王蜂を見つめていた。目元と鼻を赤くして、決意を込めた頼もしい表情で笑っている。彼の表情で、チャッタの迷っていた心も行き場所を見つけられたような気がした。

 チャッタは服の袖で残った涙を拭い、勢いよく顔を上げる。


「ありがとうございます。僕たちはムルを失いたくない。一緒にいたいんです。だから――お願いします」

 残酷なお願いをしていることは分かっていた。深々と下げたチャッタの頭へ、軽い感触が乗る。女王蜂が指を滑らせるようにして、彼の髪を撫でていた。

「はい。任せてくださいね」


 女王蜂は衣服の裾を優雅に揺らすと、立ち上がって踵を返す。彼女の視線は玉座の前のに向けられていた。

「それでは。彼によろしくお伝えください。決して気に病まぬようにと」

 振り返って胸に両手を当て、女王蜂は頭を下げる。顔を上げた彼女の体が、徐々に光を纏っていくのを見て、チャッタは焦って声を上げる。

「待ってください!」


 驚いたように、光が女王蜂の手の中へ収まっていく。

 彼女と話ができる機会は、もう二度と訪れない。チャッタは思わず、女王蜂を呼び止めていた。

 最後にどうしても何か伝えたい。ずっと憧れて追いかけてきた、優しくて美しい彼女へ。

 チャッタはぎこちなくも、自分の中にある想いを紡いでいく。


「僕は、幼い頃に貴女たちのことを知って、それからずっと、貴女たち水の蜂に憧れてきました。水の蜂の文化や生き方、その優しさと美しさに。それでずっと、貴女たちのことを追いかけて――」

 突然こんなことを言われても驚くだろう。そう思ったが、今更言葉を止めることはできなかった。


「こうして実際に会ってみても、変わらず水の蜂は僕の憧れです。だから僕は、決して貴女たちのことを忘れません。絶対に、誰にも忘れさせません」

 揺るぎない意志を込めて告げた言葉に、女王蜂は驚きながらもゆるりと頷いてくれる。彼女の目じりは、紅く染まっていた。

「それでその……最後に一つだけ、聞きたいことがあります」

「何ですか?」


 本当は、まだまだ聞きたいことも言いたいこともある。許されることなら、もっともっと彼女たちのことを教えて欲しかった。けれど、時間がないのなら。彼女たちの痕跡をずっと追ってきた者として、この国に水の蜂がいたことを、彼女の証を心に刻みたいと思ったから。

 チャッタは涙を堪えながら、女王蜂に問う。


「女王蜂さまの、貴女の名前を聞いても良いですか?」

 女王という役割ではなく、一人のヒトとしての彼女の名を知りたいと思った。

 目を丸くしていた彼女は、やがて瞳を潤ませて笑う。そして薄紅色の唇が、とても美しい言葉を紡いだ。





「みんなと旅を、続けていたかったな」

 突然視界を塞がれたかと思えば、ムルは父によって強く抱きしめられていた。自分の小柄な体は、父の腕の中にすっぽりと収まってしまう。懐かしい、こんな感覚しばらく忘れていた。

 背中に回された父の両腕で、両肩の骨が軋むような痛みを覚える。


「父さん。痛い」

「うるせぇ、黙ってろ」

 俄かに、抱きしめられる腕の力が強くなった。

「そうだ、それで良い。それで良いんだ。お前はもっと――自分の為に生きて良いんだ」

 心地よく鼓膜を震わせる父の声。ムルの渇いた瞼の裏に、水が満ちていくようだ。


 腕が解かれ、ムルの両肩に大きな手のひらが乗る。視線を上げると、瞳を潤ませながら、嬉しそうに笑う父がいた。

「お前にもちゃんと、『生きたい』と思わせてくれる仲間ができたんだな」

 父は破顔し、柔らかな眼差しでムルを見下ろしている。

 幸せそうな父の顔を見ていられなくなって、ムルは逃げ出すように下を向く。

「でも、もうみんなには会えない。だって俺は」

 続きを口にすることができなくて、ムルは言葉を詰まらせた。


 せめて、これからこの国に降る雨となって、みんなの下へ行けたら良い。少しでも近くで見守ることができれば良い。

 いずれ消えていく音を惜しむように、ムルは左胸に手を当てた。まだ律動を刻んでいる心臓は、あとどのくらいもつのだろうか。


 不意にムルの両肩を掴む力が強くなり、体が反転する。父がムルの体を強引に動かし、後ろを振り向かせたのだ。驚いて顔を上げると、父の悪戯っぽい声が届く。

「必死で頑張ったお前に、があるみたいだぞ」

 ムルは息を呑む。真っ白でもやがかかっていた空間を割いて、目の前に眩い光が現れたのだ。

 水の蜂の力を引き継いだ時と、同じ光だ。もしかして。

 ムルは首を横に振る。


「駄目だ。そんなことをしたら、また女王蜂さまが」

「――ムル」

 父が咎めるような口調で、後ろからムルの顔を覗き込んでくる。ゆっくりと首を横に振り、父は憂いを吹き飛ばすようにからりと笑った。

 全てを許してくれるような笑みに、ムルの心が震える。何度か唇を薄く開いては閉じて、彼は目を伏せた。


 こんな、とんでもない我儘を口にしても良いのだろうか。この願いを叶えさせてもらっても良いのだろうか。

 父の眼差しに甘えるように、ムルは両拳を握って喉の奥から声を絞り出す。

「俺、もう一度みんなと生きても良いの?」

 父の手のひらが、ムルの髪の毛を乱暴に撫でた。

「当たり前だろ」


 胸がいっぱいで息ができない。感謝と喜びが体の中から湧き上がって、ムルの体を巡る。涙が流せたら、この気持ちを解放してあげられるのに。

 力加減を知らず、ぐちゃぐちゃに髪をかき回す父の手のひらが懐かしい。

 遠い昔を懐かしみ、ムルは目を閉じる。


「なぁ、ムル。俺ともう一度、『約束』しろ」

 ムルが顔を上げると、頬に冷たい雫が落ちた。父が、涙を流しながら笑っている。ムルの代わりに、泣いてくれているみたいだった。

「もっと我儘に、自由に生きろ。そして、誰よりも幸せになれ」

「俺は――今も幸せだ」

 ばぁか。父はそう零すと、震えた声で可笑しそうに笑う。

「そんなお前だから、わざわざ約束するんだろうが」


 やや乱暴に背中を押され、ムルは前のめりになって前へ飛び出した。足を止め一瞬躊躇した後、顔を上げ、光の方へと歩いていく。

 背中に父の温かい眼差しを感じながらも、振り返ることはなかった。

 ムルの居場所は、光の先にある。寂しいけれど、これで父とはお別れだ。


「約束、するよ」

 ムルは、精一杯のありがとうを込めた、決意の言葉を口にした。指先を伸ばすと、触れた個所から混ざり合うように、体が光に溶けていく。

「ああ、約束だ」

 最後の父の声が、ムルの心に深く刻まれた。




 透けるような両腕が、剣の形状をしたを握る。針が水の薄布をまとっていき、宙で停止していた光の環も再び回転を始めた。止まっていた光の軌跡が、空に紋章を描いていく。

 太陽の輝き、砂漠に吹く風と砂、岩の裂け目に咲く草花。幾千もの星の瞬き、満ち欠けを繰り返す月。そして、空から落ちる一滴ひとしずく。環の中に、この国の全てが線と円で描かれていく。

 彼女は鋭く短く息を吐くと、ゆっくりと腕を上げた。針の先端を光の環の中心へ向け、祈るように目を閉じる。


「――――」

 告げたのは祈りの言葉か、詠唱か。

 彼女の声に共鳴し、針が強い光を矢のように放つ。縦に連なる紋章の中心を次々に貫き、光は天高く昇っていく。

 やがて上空で弾けるような音を立てたかと思うと、紋章が一斉に砕け散った。

 星屑のような光を輝かせ、空から紋章の欠片が舞い降りる。夜明けの、まだ柔らかい太陽の光を受けて七色に輝きながら。


 彼女が空へ両手を差し出す。その手のひらに一滴の雫がポタリと落ちた。

 彼女は徐にこちらを向く。そして、母のような眼差しで微笑んだ。




 冷たい。瞼の上に、何かがポツリポツリと落ちてきている。不思議に思って、ムルはゆっくりと目を見開く。

 先ほど見た光景は、何だったのだろう。何度か瞬きを繰り返していると、次第に視界がはっきりとしてくる。自分の顔を覗き込んでいるのは、翡翠色と深紅の瞳、そして頬には柔らかいものがくっついていることが分かった。

 ちょっと離れていただけなのに、どこか懐かしく感じる。ムルは眩しそうに目を細めた。


「――ムル」

 震え掠れた声で名を呼ばれ、アルガンが自分の胸元に顔を埋めてくる。ニョンが歓喜の声を上げ、更に頬へとすり寄ってきた。温かく柔らかい感触が、ここに戻ってこられたのだと実感させてくれる。

 チャッタが涙を拭いながら、ムルの頬に張りつく髪をそっと横に避けた。


 ムルはアルガンとニョンに軽く触れて二人を促すと、上半身を起こす。ぼんやりとする頭で、ムルは軽く首を傾げた。

 そう言えば、女王蜂さまは。

「女王蜂さまがね、君に伝えてほしいって」

 チャッタは目を閉じて息を吸うと、明瞭な声で告げた。


「どうか幸せに生きてくださいって」

 ムルは反射的に左胸に手を当てる。そうだ、あれは夢なんかじゃなかった。

 今、ムルの心臓は穏やかな律動を刻んでいる。この鼓動は、彼女にもらったものだ。

 ムルは両目を閉じて、胸に当てた手のひらへ意識を向ける。嘆き悲しむのではなく、胸を張って心で笑っていよう。

 だってそれが。


「幸せに……。父さんにも、同じことを言われた」

 皆との約束だ。

 つむじの辺りに冷たい感触が当たる。一度だけではない。何度も何度も、競い合うように空から澄んだ雫が降ってくる。

 ムルが顔を上げると、鼻の辺りに雫が跳ねて思わず両目をつむった。


 大丈夫かと、笑うアルガンの声が震えている。チャッタがマントを広げて、ムルの頭に屋根を作ってくれた。

 恐る恐る顔を上げ、ムルは空から落ちてくるものを食い入るように見つめる。

「雨、か」


 朝焼けの空から、水が直線を描き真っ直ぐに落ちてくる。日の光を受けて純白に輝き、瓦礫にぶつかって雫が跳ねると、弾けた丸い玉が光沢を帯びて七色に輝く。そして床に溜まった水へ落ち、次々に丸い波紋を広げた。水の蜂たちの光や、女王蜂の描いた紋章そっくりだ。


「不思議だよな。どこからどうやって、こんなにたくさんの水が降ってくるんだろうな」

 アルガンが弾んだ声で、空を見上げている。ニョンは落ちてくる雫を捕まえようと、そこら中で跳ねまわっていた。

 チャッタが感嘆の声を上げ、空気を微かに震わせる。

「綺麗だねぇ」

 ムルは、星空のような瞳を輝かせて頷いた。

「ああ。本当に——綺麗だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る