第96話 嘘つき

「は……? え、ちょっと、アルガン何を」

 面白くもないのに、チャッタの口元に薄っすらと笑みが浮かぶ。こんな時に、何の冗談だ。彼はゆっくりと首を横に振る。

 アルガンを問い詰めたいのに、喉が張り付いてしまったように声が出せない。呼吸も上手くできなくなり、チャッタは胸元の服をきつく握りしめる。


「彼は――」

 聞こえてきた足音に振り返ると、女王蜂が悲痛な眼差しでムルを見下ろしていた。彼女の針は玉座の前に突き刺さり、光は宙で静止し風も止んでいる。

「元々ヒトの身です。水の蜂の力を引き継いだと言っても――いえ、引き継いでいたとしても、本来これほどまでに永い時を生きられるはずがありません」

「え……? 嘘でしょう。だって」


 ムルは言っていた。水の蜂として目覚めた時には記憶を失っていて、それでも何百年も前からを探してこの国を彷徨い続けていたのだと。長すぎて、記憶を取り戻した後でもぼんやりとしか思い出せないことがあると、彼は淡々と告げていた。

 彼の寿命が人と同じなら、とっくに彼の命は尽きていたはず。

 女王蜂の吐き出した息が、張り詰めた空気を震わせる。涙をこらえるように、彼女はそっと目を伏せた。


「そう。そう言うこと、なのですね。彼の中にあった水の蜂の力が、ここまで彼の命を持たせてくれていた」

 その力をわたくしに渡してしまったから、彼は。

 女王蜂が悔しそうに言葉を詰まらせた。


「そん、な……」

 チャッタはぎこちなく首を横に振った。這うようにしてムルに近づき、彼の顔を覗き込む。

 息をしていないだなんて、もうムルが目を開けないなんて、そんなはずがない。

 だって、彼は言ったのだ。俺は負けないし絶対に死なないと。

 けれど彼の目蓋は固く閉じられたままで、何度その名前を呼んでも応えてくれることはなかった。


「そんなの」

「嫌だ!!」

 ムルの体を挟んだ向かい側で、アルガンが泣きじゃくりながら激しく首を振っている。大粒の涙が零れ落ちて、床に溜まった水に波紋を作っていく。

「嫌だ! そんな……なんで、ここまで頑張ってきたムルが死ななきゃならないんだよ⁉ ずっとずっと一人で頑張って、誰かを救い続けて――それでアンタ自身は報われないままだっていうのかよ⁉ そんなことが、あっていいはずがないだろ……っ」


 爪が食い込むほど右手の拳を握りしめ、アルガンは声を裏返して叫ぶ。

 左手は、ムルの手を握っていた。本当は強く握りしめたいところを、懸命に堪えているのだろう。左の指先が跳ねるように震えている。

「俺、アンタにもらったもの、まだ何も返せてないよ? 何もかも諦めてた俺を拾ってくれて、俺のことを優しいって言ってくれて、俺の力のことを信じてくれて。そのおかげで俺は俺のことを、俺の力のことを少しだけ好きになれたのに……! これからは誰かのために力が使いたいって思ったのに、なんで俺が一番助けたかったアンタが、俺の前からいなくなろうとするんだよ⁉」


「アルガン……」

 駄々をこねるように、アルガンは嫌だ嫌だと繰り返す。彼の涙がムルの頬や額の上に落ちていく。

 ムル、アルガンが泣いているよ。早く起きないと、アルガンが干からびちゃうよ。

 チャッタは心の中で呼びかける。けれど次第に、彼の頭は理解してきてしまっていた。

 どんなに現実を否定したところで、本当にムルが目覚めることはないのだと。


「ムルがいなくなるなら」

 震える声で、アルガンが弱々しく吐き捨てた。

「雨なんて、降らなくても良かったのに」

 今まで頑張ってきたムルや女王蜂を前にして、決して言ってはならない言葉だった。彼らの行動を否定することになってしまうから。

 けれど。


「僕だって、そうだよ。ムルが死んでしまうくらいなら、雨なんて降らなくても良かった……!!」

 チャッタも同じ気持ちだった。膝の上で爪が食い込むほど強く拳を握る。


 水の蜂はもう滅びてしまったのだと、挫けそうになっていた自分に、ムルは希望をくれた。自分の無力を嘆いた時に、優しく背中を押してくれた。自分自身が気づかなかった強さに、気づかせてくれた。

 何よりも彼の優しさが、自分の探し求めていた理想そのもので、憧れだった。

 それなのに、彼がいなくなるだなんて。


「ムルがいなくなるなんて、絶対に嫌だよ……!」

 力なく垂れ下がったムルの手を取る。冷たくもちゃんと血が通っていた手のひらから、僅かなぬくもりすら消えていくようで。

 止めてくれ。消えていかないでくれと、両手で彼の手を包み込む。チャッタは大きく頭を振って、ムルに向かって叫んだ。


「死なないなんて言っておいて、やっぱりいなくなってしまうんじゃないか⁉ 他人の為に戦って足掻いて自分を犠牲にして。君のことを大切に思っている全ての人の気持ちを置いて、満足して行ってしまうなんて……。こんな結末を見届けるために、僕はここにいたんじゃない! そんなの、絶対に許さないからな‼」

 叫び声が空間に反響して、やがて虚しく消えていった。





 意識を取り戻した時、ムルは真っ白な空間に立ち尽くしていた。

 右も左も分からない。立っているということは分かるものの、靴底が地面に触れている感覚もない。

 視線を周囲に巡らせ、腑に落ちた様子で、ああと嘆息する。やはり自分の命は、あそこで終わってしまったのだと。


 なんとなく予感はしていたのだ。数百年前に水の蜂として目覚めてからずっと、何かを探して彷徨って。

 自分の心臓をここまで動かしてくれていたのは、水の蜂の力によるものなのだろうということを。

 だからそれを女王蜂さまへ届けたら、きっと自分の命はそこで尽きてしまうのだろうということを。

 最後まで、皆には言えなかったことだった。


 ムルはゆっくりと周囲を見回す。しかし、薄ぼんやりと光るこの空間は、何なのだろう。死んだら水が風にかえるのだろうと思っていたが、今自分は意志を持ってここに立っている。

 一体、どういうことなのか。


「あ……」

 突如空間に響いた足音に、ムルは思わず声を発した。まだ存在しているのか分からない心臓が、激しく音を立てている気がする。

 この足音と気配を覚えていた。ずっと忘れてしまっていたけれど、間違いないと確信する。ムルは弾かれたように背後を振り返った。

 その顔を見上げた瞬間、ほんの僅かにムルは両目を見開く。


「こうして、話すのは久しぶりだな。ムル」

「父さん……どうして?」

 生前と何ら変わらぬ姿で、マジャが目の前に立っていた。少し潤んだ目を細め、眩しそうにムルを見下ろしている。

 唇を薄く開けたまま、ムルは懐かしい父の姿を見つめた。

「なんて言やぁ良いかな。お前が引き継いだのは元々俺の力で、俺の命だろ? だったらその残滓みたいなもんで、こうして少し話ができても良いんじゃねぇか?」


 顎に生えた無精ひげを撫でながら、父が相変わらず雑なことを言う。

 おかしいけれど泣きたくなる、そんなチグハグな気持ちになったが、ムルの表情は動かない。

 父が目を伏せて、大きく一歩ずつムルへと近づいてきた。

「本当にありがとな、ムル。無事に俺たちの命と想いを届けてくれたんだな。さすがは俺の息子だ」


 胸がいっぱいになって、ムルは涙を流す代わりに下を向く。首を横に振ると、自分の足元を見つめたまま呟いた。

「でも、記憶を失くしたせいで、随分と時間がかかった。もっと早く女王蜂さまの下にたどり着けていたら、あの人が苦しむ時間を少しでも減らせたのに」

「ああーお前が記憶を失くしたのは……多分、俺の毒のせいだろうな」

 思わぬ一言に驚き、ムルは顔を上げる。眉を顰めて、父が苦笑を浮かべていた。


「父さんの?」

「ああ。俺の『力』と共にお前の中に入った毒が、お前が使命を思い出そうとする度、お前の記憶を消していったんだ。ひょっとすると、俺の願いに反応したのかもしれねぇな」

 ムルは僅かに首を傾げる。父は口元から笑みを消すと、真っすぐこちらを見つめてきた。


「仲間たちが俺に託してくれた『想い』は、もちろんかけがえのないもの。何があっても、あの御方に届けなければならなかった。けど、お前に俺の力が引き継がれたとしても……いっそ約束など忘れて自由に生きてくれれば良い、なんて。心のどこかで、そんなことを願ってた。仲間たちやあの御方には、こんなこと言えないけどな」

 不意に父が歯を食いしばり、額に手を押し当てた。何度か頭を振ると、彼は吐き捨てるように呟く。


「――ああ、やっぱり駄目だ。こんなこと言ったって、お前が困るだけって分かってる。けど、お前に全てを放り投げて、散々辛い想いをさせて、笑顔も涙も奪って……。お前には、こんな風に生きてもらいたかったわけじゃねぇのに。本当に、悪かった。ごめんな、ムル」

 苦しげな父の声が、反対にムルの心を温かい気持ちで満たす。こんなにも自分のことを思ってくれる人がいる。それで十分だ。

 ムルは両手の拳を強く握り、目元に力を込める。


「俺、後悔なんてしてない」

 そうだ、後悔なんてするはずがない。ムルは父の藍色の瞳を真っ直ぐ見上げた。

「力を引き継ぐ時はとても痛かったけど、こうしてちゃんと水の蜂になれた」

 左手を自分の左胸に当てる。

 この旅の中で、楽しさや喜び、怒りや悲しみを感じるたびに、この胸は異なる律動を刻んでいた。


「笑顔も涙も、失くしてしまった。けど、俺の心そのものが消えたわけじゃない」

 ただ表に出てこなくなっただけ。

 分かりにくくなってしまった自分の感情を、ちゃんと分かってくれる人たちもいた。

「ちゃんと女王蜂さまにみんなの想いを伝えて、あの人の力も戻った。これでこの国に雨が降る。これからはみんな、渇きに苦しむことなく生きていける」


 だから大丈夫、悲しむことなんてない。

 そう自分に言い聞かせていたムルの胸が、強く締めつけられた。

 大きく息を吸って、父に告げる。

「だから、納得してる。本当に良かったなって思うよ」

「本当か?」


 低く鼓膜を震わせた父の声に、ムルは言葉を詰まらせた。眉間に皺をよせ、怒っているともとれるような顔で、父が再び口を開く。

「本当に、心残りはないか?」

 声を出そうとしても出せなかった。ムルは歯を食いしばり、その隙間から息を漏らす。


 思い浮かぶのは、共に旅をした仲間たちのこと。

 彼らの顔が次々に浮かんで、ムルの目頭に熱が集まっていく。

 ごめん。

 謝罪の言葉が口から滑り出た。


「少しだけ、嘘を吐いた」

 やはり自分は嘘がつけないのだろうか。出会った頃にチャッタに指摘されたことを思い出す。

 チャッタは初めから何の根拠もないのに、ムルのことを水の蜂だと信じてくれた。全てを話してムルが元々ただの人間だったと知った後も、柔らかく微笑んでくれた。

『ムルは今までもこれからも、僕が憧れた水の蜂そのものだよ』

 その言葉にどれだけ救われたか。


「本当は」

 口に出してみると止まらなかった。深紅の髪を持つ少年の姿が脳裏に浮かぶ。

 アルガンの自由に変化する表情が楽しくて、よく目で追っていた。彼と交わす他愛のない会話が新鮮で、自分が上手く反応を返せなくても、気にすることなく楽しそうに笑ってくれた。

 そしていつも傍で一緒に戦ってくれた。

『俺も戦う! ムルの約束が果たせるように、俺も精一杯力になるからな!』

 その言葉が、どれだけ頼もしかったか。


「もっと」

 左胸に当てていた手を離して、両手で何かを包むような形を作る。

 言葉を交わせるわけではなかったけど、あの子と出会ったことで一人じゃなくなった。それからずっと、傍にいてくれた。

 その存在に、どれだけ孤独を癒されたか。


「あと、ほんの少しの間だけでも良いから」

 両腕をダラリと体の横に投げ出して、両目を閉じる。自分は恵まれた。本当にたくさんの感情や思い出をもらった。だからもう十分だ。

 そう思い込もうとしたけれど、駄目だった。


「みんなと旅を、続けていたかったな」

 瞼の裏は乾ききっていて、やっぱり涙は出なかったけれど。弱弱しく震えて掠れたムルの声は、確かに泣いていた。

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