第95話 大切な貴女と
泣き崩れた女王蜂へ、ムルが片膝を折って声をかけている。
もう大丈夫だ。チャッタはアルガンと頷き合い、ゆっくりと彼女たちの下へと近づいていく。邪魔をしないように、二人の会話が問題なく聞こえる距離で足を止めた。
女王蜂の形の良い唇が、薄く開いているのが見える。ムルの「蜂になった」という発言に、彼女は酷く驚いているようだ。
「そんな、ヒトが私たちの力を引き継ぐだなんて……。できたとしても、例えようのない苦痛を味わったはず」
ムルは女王蜂に視線を向けたまま、黙って彼女の言葉を聞いている。チャッタたちの位置から彼の表情は見えないが、いつも通りのなんでもないような顔をしているのだろう。
彼を見つめていた女王蜂が、顔色を変えて息を呑んだ。
「まさか、貴方のその
チャッタの胸に、ちくりと針で刺されたような痛みが走る。女王蜂も気づいてしまったのだ。
ムルの表情が人形のように変化がないのは、恐らく、水の蜂の力を得た代償なのだと言うことに。ムルは、怒ったり笑ったり泣いたりしたくてもできないのだ。
彼女は両手を口元に当て、首を大きく横に振る。蒼天を透かしたような髪が、はらはらと揺れて彼女の頬に当たった。眉を顰め、女王蜂は今にも泣きそうな顔をしている。
「どうして……なのですか? 私たちの使命も女王蜂である私のことも、貴方には何の関係もないはずです。感情を失くしてまで、私たちの想いを引き継ぐ必要なんてない。なのに、貴方はどうして……?」
ムルは一呼吸分だけ間を置いて、平然とした声で告げた。きっと彼が声に感情を乗せられたとしても、同じような声になっただろう。彼にとっては、それだけのことなのだ。
「関係ないって言えば、そうだったのかもしれない。けど俺は、父さん――あなたの仲間の想いを無駄にしたくなくて、あなたが昔の俺のように、一人で寂しくて泣いているなら助けたいと思った。それだけなんだ」
女王蜂は唖然として、ムルの顔を見つめている。微笑ましいような呆れたような気持ちになって、チャッタはつい口を挟んだ。
「ムルは、貴女が女王蜂さまでなくたって、迷わず貴女を救いに行ったと思います」
女王蜂の視線がこちらへ移動する。驚きからか、どこかあどけなく見える表情の彼女に、チャッタは苦笑を浮かべて言った。
「驚いたでしょう? そういう子なんです」
女王蜂の視線が再びゆっくりと、ムルの下へ戻っていく。彼は軽く頷き、片手を胸に当てた。
ムルの胸の辺りから、太陽のように眩しい光が発せられる。女王蜂は吸い寄せられるように、光に視線を注いでいた。
やがて光は、ムルの手の中へ収束していく。彼はそっと両手を女王蜂へ差し出した。
「ここまで来るのに、随分と時間がかかってしまった。遅くなって、ごめんなさい」
謝罪と共に差し出された彼の手のひらに、赤ん坊の握り拳ほどの澄んだ宝玉が乗っていた。漆黒の球体の中で、無数の純白の光が瞬く。まるで、星空をぎゅっと丸めて形作ったような宝玉だった。
これが彼の引き継いだ魔術器官、水の蜂の力の源なのだろう。
「なんて……こと……」
彼女の瞳が潤んで水面のように揺らいだ。何度かムルと宝玉を交互に見つめ、やがて恐る恐る指先を伸ばす。彼女の透けるような指先が宝玉に触れた途端、それはふわりと無数の光にほどけて宙を舞った。
その光一つ一つが異なる輝きを放って、どこか嬉しそうに二人の頭上を踊る。柔らかな光が彼らの頬を紅色に染め上げた。血の通った温かな光が、空間全体を柔らかく照らし出す。
「すげぇ……」
アルガンが感嘆の声を上げる。チャッタの右肩にはいつの間にかニョンが乗っており、体を揺らしながら同じく天井を見上げていた。チャッタも釣られて視線を上げる。
ムルから聞いたのだが、女王蜂は自分の後を追わせないため、自らの毒で皆の記憶を消したらしい。しかし目覚めた蜂たちは、すぐに思い出した。大切な女王蜂の存在と、彼女が託した想いと背負った使命のことを。
それから蜂たちはずっと、愛する彼女を探し続けていたのである。
『女王蜂さま』
不意にどこからか鈴を転がすような声が響いて、女王蜂は慌てて周囲を見回す。
『本当にありがとうございます』
次に聞こえたのは、少し枯れた男性の声だった。ムルと彼女の間を、一つの光が横切っていく。星の瞬きよりもゆっくりと、鼓動を刻むように点滅を繰り返しながら。
女王蜂は視線を頭上の光へ向けた。
数多の声が、彼女めがけて降り注ぐ。
『おかげで世界の広さを知れた』
『別の種族の心と生き方を知った』
『その美しさを知ることができた』
『愛する人と共に時間を過ごすことができた。本当に幸せでした』
幻のように儚い声は、光の中から聞こえてくる。女王蜂は光を目で追った。それぞれの存在を確かめるように。
チャッタも彼女のように光を見つめた。その輝きの一つ一つが、水の蜂の命と力。ずっと引き継がれてきた想いの結晶だ。
「すごいなぁ……」
女王蜂を探す中で、寿命が近いことを悟った蜂たちは、別の蜂に残りの命を託していったのだという。
いつか女王様に会えたら、私の命を渡してくれと。人と心を交わし愛し合った者たちも、愛した人と同時にその生を終わらせ、仲間に残りの『力』を託したのだ。
そうやって、水の蜂は少しずつ表舞台から姿を消していったのである。
「『優しい』から滅びてしまった。正解でもあって、とんだ不正解でもあったんだね」
少し悲しいけれど、温かな感情で胸がいっぱいになる。なんて綺麗な光だろう。
光は女王蜂に語り続ける。ようやく伝えることができた、自分たちの本当の気持ちを。
『でも、でもね。女王様』
『私たちは確かに生きたいと願った。だから女王様に自由をもらって、時間をもらって、本当に幸せだったけれど。もしも叶うなら』
光を見つめるムルの唇が、薄く開いた。
「『大切な貴女と、一緒に生きたかった』んだって」
幾人もの水の蜂たちの想いと命が、空間を埋め尽くしていく。様々な色と大きさの光が浮かび、七色に光りながら女王蜂の周囲を舞い踊った。大切な人とようやく巡り会えたことを喜ぶように。床に落ちた水へ反射し、その輝きは一層強さを増した。
全方向、どこもかしこも光で覆われていて眩しいくらいだ。空を飛べて、星空の中に入ったらこんな風に見えるのかもしれない。
「滅びたって言っちゃいけないね」
チャッタは思わずそう口に出す。長い時が経って、確かに彼女たちの肉体はなくなってしまったのかもしれない。けれど、彼女たちの『想い』が強く輝いて、今ここに存在しているなら。
「ずっと生きていたんですよね。貴女たちは」
思わずチャッタは笑みを零す。
女王蜂は視線を忙しなく彷徨わせ、縋るような眼差しをムルに向けた。眉を寄せて唇を引き結び、くしゃくしゃの顔で彼に問いかける。
「
「許可なんていらない。この想いは疑いようもなく全部、あなたに贈られたものだから」
どうか怖がらずに受け取って。そう、彼が片手を差し伸べる。反射的に女王蜂さまがその手を取ると、光たちが強い輝きを放った。
チャッタたちは、腕を顔の前に上げて目をつむる。再び目を開けた時には、無数の光は消え去り、代わりに女王蜂さまの体が淡い金色の光で包まれていた。
全ての水の蜂の命が、彼女の下へ帰ったのだ。
女王蜂は自分の体へ視線を巡らせ、愛おしげに強く自分の肩を抱く。目じりから零れた涙が彼女の頬を伝って、雨のように床へと落ちていった。
「もう、寂しくないですか?」
それを見守っていたムルが、静かな声で呼びかけた。
「ええ、もう平気です。だって、みんなここに居るんですもの」
女王蜂さまは、涙の跡も美しく微笑む。見ているこちらが幸せになってしまいそうな、輝くばかりの笑顔だ。
「良かった……」
その声に、ふとチャッタが視線をアルガンへ向けると、彼の深紅の瞳が不自然に潤んでいるのが見えた。釣られてチャッタも目頭が熱くなってくる。
「チャッタ。情けない顔してる」
「そう言うアルガンも、声震えてるよ?」
からかうように見上げてくるアルガンを、反対に揶揄する。頬を少し染めて、アルガンはそっぽを向く。彼の仕草がとても可愛らしく思えて、チャッタは声を出して笑った。
「本当に、ありがとうございます」
布ずれの音が聞こえて、チャッタたちは視線を上げる。指先で線を引くように涙を拭って、女王蜂が立ち上がった。その瞳は虚ろな黒色ではなく、優しげな藍色に戻っている。
彼女の視線が、アルガン、チャッタと順に向けられ、最後にムルへと戻っていった。
「――貴方たちには、なんとお詫びとお礼を申し上げて良いか分かりません。おかげで同胞たちが、昔の私と今の私が愛したこの国を滅ぼさずにすみました」
深々と頭を下げた女王蜂は顔を曇らせ、僅かに唇を噛む。
「けれど、私はあろうことかヒトの命を奪ってしまいました。本来ならば命を救うものである水を使って。その償いになる、とはとても言えませんが、まずは私の使命を果たさなければなりませんね」
アルガンとチャッタは思わず顔を見合わせる。
「それって……」
「彼が届けてくれた同胞たちの力。確かに受け取りました」
女王蜂は目を閉じて微笑を浮かべると、踵を返して歩き出す。
瓦礫を避けてひび割れた床を踏みしめ、崩れかけた玉座の前までゆっくりと歩みを進める。足を止めて振り返った彼女は、天を見上げた。
大きく穴が空いた天井によって、薄っすらと白み始めた夜空が切り抜かれている。
もう一度、前を見据えた彼女は、憂いを感じさせない表情で立っていた。女王たるに相応しい、一輪の花のように
彼女が右腕を持ち上げ勢いをつけて振り下ろす。彼女の手の中に、女王蜂の象徴である針が現れた。
「水の蜂の女王として、集った全ての『力』を行使し、この国に雨を降らせます!」
声高らかに女王蜂が告げる。
滴が一滴零れ落ちたような音が響き、彼女の針を中心に光が波紋のように広がっていく。その波紋は消えていくことなく光の輪となり、女王蜂の頭上をゆっくりと回転し始めた。
ふわりと風が巻き起こり、チャッタたちの髪や衣服の裾をはためかせていく。
回る光は時に重なり合い残像は別の軌道を描き、天に黄金色の紋章を描いていった。
ムルは短い黒髪をなびかせながら、その様子をじっと見つめている。ふっと力を抜くように笑って、チャッタは彼の下へ近づいた。
「ムル。本当に良かったね。約束を果たせて、女王蜂さまも救われて、この国にも雨が降るって」
君が頑張ったおかげだね。
チャッタは、ムルの肩にそっと手を置いた。女王蜂を見つめるムルの瞳が、彼女の魔術が放つ光を受けて一層輝きを増している。
ため息を吐いて、ムルは微かに呟いた。
「そうだな。これでやっと――」
糸が切れたように、ムルの体がうつ伏せに倒れ込む。慌ててチャッタは彼の体を受け止めた。
「ムル。疲れたかい?」
無理もない。やっと父親との約束を果たしたのだ。気が抜けてもおかしくはないだろう。
しかし何故だろうか。胸騒ぎがする。腕に乗ったムルの体はやけに冷たく、必要以上に重みを感じた。肩に乗っていたニョンが、チャッタの腕を伝ってムルへ近づいていく。
「ニョン? 一体、どうしたの」
ニョンが覇気のない声を発して、ムルの頬にすり寄っている。かなり強めに身を摺り寄せているにも関わらず、ムルからの反応はない。彼はがっくりと項垂れたまま、チャッタの腕にもたれかかっている。
ムルの様子を確認したくても、チャッタの全身は強張って、指先一つ動かすことはできなかった。
「ムル、どうしたんだよ……?」
近づいてきたアルガンが、代わりにムルの顔を覗き込む。
その瞬間、アルガンは大きく息を呑んで、チャッタの腕からムルを奪い、彼の体を床へ横たえる。焦った様子でムルの手首をとり胸元に耳を寄せるアルガンを、チャッタは茫然と見つめていた。
「チャッタ」
アルガンが真っ白な顔をして、唇を震わせる。小さな声なのに、はっきりとチャッタの耳に届いてしまった。
「ムルの心臓が、止まってる」
凍りついたように、周囲の全ての音が止む。チャッタの耳の奥では、甲高い音がずっと鳴り響いていた。
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