第94話 ありがとう

「あの……っ」

 背後から声を掛けられ、ムルは我に返って振り返る。助けた町の住人が、口元に控えめな笑みを浮かべて立っていた。

「本当にありがとうございました。貴方たちには感謝してもしきれません」

「いいえ。俺たちは大丈夫、ですから」

 その、と言いよどみながら、町の住人は無理やり口角を上げてみせた。


「もう、この町のことは気になさらず。これ以上、貴方たちから何もかもをいただく訳にはいきません。僕たちは、大丈夫です。生き残った人たちで力を合わせて、なんとかやってみせますから!」

 それが虚勢であることは明白だった。力を合わせると言っても、水も食料もなしにどうやって生きていくというのか。

 しかし、これ以上自分にできることも思いつかない。ムルは歯を食いしばり、下を向いた。


「なんだ、あの光……⁉」

 その時、生き残った人々の間から、どよめきが起こった。明るい光に照らされ、ムルの影が背後へと長く伸びている。

 顔を上げると、町の奥から夜空を突き刺すような光が発せられていた。日の出にはまだ早すぎるし、太陽よりもずっと強い光である。光っているのは、父が向かった方角ではないか。

「あれは、枯れたオアシスの」

「え」

 町の人が上げた声に、ムルは思わず声を上げる。まさか、という予感と共に、誰よりも早くムルは光の方へと駆け出した。


 かつて商店が立ち並んでいたであろう大通りを抜けていく。その先の道が狭い住居街を横切ると、やがて大きく開けた場所へ出た。

「父さん⁉」

 目当ての人物を見つけ、ムルは声を張り上げる。

 光の源はやはり父だった。両手を前方へ掲げ、眩い光に向かって立っている。父がゆっくりとこちらを振り返り、酷く優し気に微笑んだ。やがて光は地面に吸い込まれるようにして消えていく。


「これは――」

 背後からバタバタと足音が響く。動ける人々がムルの後を追ってきたらしい。

 ムルは肩で大きく息をしながら、視線を父から先ほどまで光っていたその場所へと移す。そして、大きく息を呑んだ。


 住居が二軒、やっと入るほどの、規模としては小さなオアシスである。枯れてしまったと聞いていたはずのそこが、溢れんばかりの澄んだ水で満たされていた。夜空の月と星々の光を映して、どんな宝玉にも負けない輝きを放っている。

「嘘、だろう……オアシスが……⁉」

「奇跡……、奇跡が、起きたんだ……!」

 声を震わせ、歓喜の声を上げる人々とは裏腹に、ムルの心は冷え切っていく。

 もしかしなくても父は、力を使ってしまったのだろうか。そんな、今の父にそんな余力は。


「行くぞ」

 父は踵を返し、短く声を発した。感情を押し殺した静かな声である。

 すれ違いざま、ムルの頭の上に置かれた手のひらは重さを感じないほど軽い。父は俯きがちにゆっくりと歩みを進めていく。

 ムルは人々とその背を交互に眺め、戸惑いつつも人々に一礼して父の後を追った。




 町の道を突っ切り門をくぐり、夜の砂漠に足を踏み入れても、それでも父は歩みを止めなかった。どこか町の人々から逃げているようにも思える。

 その間、ムルは何度も父を呼んだ。歩幅が大きく予想以上に早くて追いつけない。思い切って小走りで駆け寄り、父の服の袖を引いた。

「父さ」

 その瞬間、ぐらりと父が仰向けに倒れ込んでくる。ムルが袖を引いた方向そのままに。


「父さん⁉」

 倒れ込んできた父を必死で支えようとするも、そのまま一緒に倒れて尻もちをついてしまう。

 力の入っていないぐったりとした体をずらして、砂地の上へと横たえた。

 ムルの喉からひゅうと嫌な音が鳴る。覗き込んだ父の顔は真っ白で、死人のように生気を失っていた。


「父さん……ねぇ、しっかりしてよ。俺は、嫌だよ。駄目だよ、ねぇ、父さん」

 薄目を開いた父が、視線をこちらへ動かした。痛みに堪えるような顔をして、か細い声で告げる。

「ごめんな、ムル。勝手なことしちまって……。くそ、ここで、終わりか。まだ何一つ目的を果たしていねぇのによ……」

 目的。ムルは息を呑み、あの夜のことを思い出す。


 父には何か使命があるのだと、ハーディが言っていた。苦しそうで悔しそうな父。体が痛いのではなくて、きっと果たせなかった使命が心残りとなって父を苦しめているのだ。

 父を死なせたくない、別れたくない。けれど、もしこれが本当に最期で、もうどうしようもないなら、そんな苦しい顔をしないで欲しかった。


「目的って……『あの御方』って言ってたヒトを探すこと?」

 気づくとムルは、父に問いかけていた。父の瞳が僅かばかり大きく見開かれる。

「お前、どこでそれを……いや、まさかハーディと会ったあの夜か? お前、聞いていたのか」

「うん。ごめんね。俺、気配を隠すの、上手いでしょ? 昔からこれだけは得意だったもんね」

 微笑んだつもりが、唇は引きつって歪んでいた。父の背に添えた指先がぶるぶると震えている。止まれと念じて、ぐっと唇を噛みしめた。

 もう今しか聞けない。それに、今聞かなきゃいけない。そんな予感がして、ムルはずっと疑問に思っていたことを口に出す。


「ねぇ、教えてよ父さん。あの御方って誰の事? 父さんの使命って何なの? 水の蜂って何者なの?」

 父の視線を縫い留めるように、ムルは目に力を込めた。ここで教えてもらわなければ、きっと自分は後悔する。

 やがてムルの視線に負けたのか、父はゆっくりと語り始めた。


「俺たち『水の蜂』は元々、水の神より遣わされた使者。その使命は、この国に住む全ての生命を渇きから救うこと。水を生み出して他の生命に分け与え、やがて俺たちはその命を『力』に変えて、この国に雨を降らせるための存在だった。けれど、ある日俺たちは自由に生きることを許された、よりにもよって俺たちの敬愛する、女王蜂さまの犠牲によってな」


 父は途切れがちに語り始めた。

 心のない水の蜂に心が生まれ、生きたいと願ってしまったこと。その願いを受けて、心優しい女王蜂さまが、自分一人を犠牲にすることで皆の心を救ってくれたこと。

「だが俺たちは、ずっとあの御方を探し続けていたんだ。あの方一人が犠牲になるなんて、そんなの間違ってる。どうしてもあの御方にそれを、伝えなければならないと」

「それで父さんが、他の仲間の『想い』を背負って、ここまで?」

 これでも俺が、当時は一番若くて丈夫な蜂だったんだよ。そう言って父は口角を上げ、笑みのようなものを作った。


「女王蜂さまの、手がかりはなかったの?」

「きっとあの御方の針の、毒の影響だろうな。あの方のお姿も気配も全て忘れてしまった。いや、それでもあの方の存在を思い出せたことが、奇跡なのかもしれないが」

 父は片腕を動かして、自らの顔を覆う。腕の下で血が滲むほど唇を噛みしめていた。


「俺が最後だったのに。くそっ……どうして……、なんで……俺の命はここまでなんだよ……⁉︎  何故、果たさせてくれないんだ。この瞬間にもあの御方は、きっと一人で」

 言葉にならない悔しさや悲しさを、父はひたすら言葉にし続けた。父の顎から、紅い筋が伝う。ムルは咄嗟に、その赤い液体を拭った。指先が掠れた赤色で染まる。


「ねぇ、どうして、町の人たちを助けたの? ほんの少しでも長く生きられたら、女王蜂さまを見つけられたかもしれないのに」

 その問いに、父は無言を貫いた。愚問だったかもしれない。何故ならムルが父の立場だったなら、見捨てることなどできなかっただろうから。


 ムルは空いた片手で左胸の辺りを強く握る。そんな優しい父の使命を、ここで終わりになんてさせたくない。どうにか、できないのか。本当にここで終わりなのか。

 不意にあの夜、ハーディが口にしていた言葉が思い浮かんだ。

『私たちとヒトの違いは、これがあるかないかくらい』

 もしかして、とそれを思いつくのと同時に、ムルは父に告げていた。


「俺が水の蜂になって、代わりに女王蜂さまを探すよ」

 父は顔から腕を外して、呆然とムルの瞳を見つめた。僅かに身じろぎをしたのは、体を起こそうとしたのかもしれない。

「何……何を言ってんだ、お前は……⁉ そんなこと、できる訳が」

「できないって、決まったわけじゃないんでしょ? ハーディさんが持ってたあの宝玉、器官だっけ。それを上手く取り込められれば、人間の俺でも水の蜂の力が使えるんじゃないの?」

 それは、と父があからさまに視線を泳がせた。

 思った通り、可能性はある。だったら。


「なら大丈夫だ。俺にやらせてよ」

 ムルは父の背中をそっと砂地に横たえると、彼の両手を自分の手で包み込む。

 その行為は父のためでもあり、自分のためでもあった。何かを掴んで支えにしていないと、みっともなく泣き叫んで、まともに喋ることなどできないから。

 自分は今父が死ぬ前提で話を進めている。なんて酷い息子だろう。しかも、優しい父に自分を殺させるかもしれない決断を迫っている。だけど。

「あのね、父さん」

 冷えた父の両手に、ぬくもりを分け与えるように。ムルは穏やかに微笑んだ。


「父さんと初めて出会った時の俺ね、疲れて寒くて、空腹で喉が渇いて、今にも死にそうだったけど、何よりすごく寂しかった。この世界には俺だけしかいなくて、もう誰にも手を握ってもらえないんだって思って、とても悲しかったんだ。だから父さんに拾ってもらえて、俺、すごく嬉しかった。力強くて温かくて、あれほど寂しかったことをあっという間に忘れちゃうくらい、本当に優しくて、救われた。だから、あの時の俺みたいに、一人で寂しい想いをしているヒトがいるなら、今度は俺が助けてあげたいんだ」

 自分が父に救ってもらったように、今度は自分が彼女を助ける番だ。

 願いを込めるように、ムルは強く強く父の手を握る。


「『約束』する。俺が絶対に女王蜂さまを見つけ出して、皆の『想い』を届けるから。だからお願い――あなたの息子を信じてよ」

 歪んでしまった下手くそな笑顔でも、想いは届いただろうか。

 父は見開いていた瞳を一度閉じて、いつものように優しくムルの名を呼んだ。


「一秒でも長く、お前と一緒に居られる選択ができなくて、ごめんな」

「うん」

「死ぬかもしれない、助かっても正気を失うかもしれない。とてつもない重荷をお前に背負わせちまって……。これじゃ、ハーディに言われた通りになっちまう。俺は本当に父親失格だ」

「そんなこと言わないでよ。優しくて強い自慢の父さんなんだから。笑って胸を張っててよ」

 父の歪んだ顔を眺めながら、ムルは両手に一層力を込める。

 一瞬だけ、痛いくらい力強く握り返された。

「ムル。ごめんな、いや……ありがとう」

 笑顔で言った父の言葉に、ムルは満足げに頷いた。


 父が胸に手を当て目を閉じる。そこから、いつかのように鋭い金色の光が発せられた。やがて父の手に澄み切った光を放つ宝玉が現れる。

 これが、父の力の源、水の蜂たちの命と想いのこもった、宝玉。

 ハーディの時は無色透明だったけれど、これは濃い藍色で、父の瞳と同じ色をしていた。ムルは迷わずその宝玉に指先を伸ばす。


 触れた箇所から、鋭い激痛が走る。火に直接手を突っ込んだみたいだった。指先から刃で貫かれたような痛みが上がってきて、全身を駆け抜け、ムルは悲痛の声を漏らし大きく喘ぐ。

「ムル……っ」

「大丈夫! 大丈夫、だから」

 父を制止して痛みに耐えながら、ムルはその宝玉を両手で包み込む。痛くて堪らなかったけれど、必死で祈った。


 お願いだから俺を拒まないで。ここで終わらせるなんて駄目だ。遥か昔から繋いできた、水の蜂たちの願いと命を、ここで途絶えさせるわけにはいかない。

 だから、お願いだ。俺に引き継がせて、守らせて。


 ムルの視界が滲んで自然に涙が溢れてきた。痛みによるものではなく、その宝玉に託された想いが大きくて、温かくて。

 ああ。やっぱり絶対に伝えないと。

 伝えたいよ、女王蜂さまに。

 ムルが口元に笑みを浮かべた途端、ふっと、痛みが和らいだ。


 その瞬間を逃さずムルは、宝玉を自分の胸に押し当てる。宝玉が体の中に吸い込まれていって、彼の存在とそれが混ざって一つになっていく。痛みはまだあったけれど、どこか心地よい感覚だった。


 閉じていく視界に、父の藍色の瞳が見える。父はよくムルの瞳を褒めてくれたけれど、星々を優しく包み込む夜空そのもののような瞳が、ムルは何よりも大好きだった。

「こちらこそありがとう、父さん」

 目を閉じた拍子に涙が一粒、砂の上にこぼれ落ちた。

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