第93話 命の期限

 天幕の天井の模様を見つめながら、ムルは大きく目を瞬かせた。今日は疲れただろうから早めに休むようにと言われたが、目が冴えてしまって眠れたものではない。父が使うはずだった隣の寝所は、空のままで使われた形跡はなかった。父はきっとハーディと話をしているのだろう。


 水の蜂とは、遥か昔からこの国にいた種族。水を司り水を操り、そして水を生み出す、人と似て異なる存在。

 簡単な話は聞いていたけれど、水の蜂の目的やその力の秘密などは、いつも曖昧にはぐらかされてきた。父と同じ水の蜂であるハーディとは、どんな人なのだろうか。二人はどんな話をするのだろうか。


 ムルは一旦眠るのを諦めて上半身を起こし、寝所から抜け出した。少し夜風に当たって、高ぶった感情を落ち着かせてこよう。そう思いながら、そっと天幕のざらついた分厚い布を持ち上げた。


 途端に冷たい夜風が鼻と頬を撫でていく。マントを体にぎゅっと巻き付け、ムルは白い息を吐いた。

 空には純白に輝く無数の星屑が見えて、自分の瞳に似ていると父に褒められたことを思い出す。ムルはくすぐったい気持ちで、声を出して笑った。

「それにしても驚いたわよ、『息子』だなんて」

「そっちこそ。突然、手紙なんて寄こすから何かと思ったよ」

 突然、父とハーディの声が間近で聞こえて、ムルは驚いて両肩を震わせる。悪いことをしているような気持ちになって視線を彷徨わせるが、二人の姿はどこにもない。


「悪かったわね、突然呼び出して」

「それは良い。重要な話ってのは、なんだ」

 どうやら、二人がいるのは集落の端のようである。集落をぐるりと囲う柵の傍、その辺りが橙色の光でぼんやりと光っているのが見えた。焚火でも囲っているのだろう。二人とも声は十分潜めているようだが、どうやら悪戯な夜風に乗って会話が流れてきてしまったらしい。

 立ち聞きのような真似をするのも悪い気がして、ムルは天幕の中へ戻ろうと踵を返した。


「私ももう、終わりが近い。だから、へ行こうと思うの」

「な――」

 ただならぬ、雰囲気にムルの足が止まる。父の酷く動揺した様子が、声色から伝わってきた。

 終わり、それはまさか。心臓が耳元で激しく鼓動を刻む。

 駄目だと自分を制止する声を振り切って、ムルは足音と気配を忍ばせ、父とハーディの近くへ足を進めていく。


「もう、諦めるって言うのか⁉ お前、水の蜂の力を蘇らせるって言ってたろ?」

 父は責めるような鋭い言葉をハーディにぶつけている。珍しい父の怒号に、ムルの背筋に冷たいものが走った。

「完成はしてない。けど、諦めたわけじゃない」

 ムルは建物の影に体を隠し、視線だけをこっそり出して様子を探る。二人はこちらに背を向け、焚火の前に並んで腰下ろして話をしているようだった。


 不意に、ハーディの胸元が金色の光を放つ。そこだけ小さな太陽が現れたような、強烈な光にムルは思わず目を閉じる。光が収まり目を開けた時には、ハーディの手のひらに赤ん坊の握りこぶしほどの玉が乗っていた。


「私たちとヒトの違いは、『これ』があるかないかくらい。魔術器官と呼んではいるけど、宝玉のように美しいこれに、一体どれだけの力が込められているのかしらね」

 ハーディの手に乗った宝玉は水のように無色透明で、焚火の色を反射して赤橙色に輝いている。まるで血の通った生き物のように、ゆるく脈打っているようにも見えた。見ていると緊張で指先がしびれてくる。


「これを直接ヒトに与えるとどうなるかも試してみたの。すぐに分かった、これは神に背く行為だって。大抵のヒトは触れただけで火傷をしたように指が爛れてしまう。運良くつかめたとしても、大きすぎる力に正気を失ってしまう。慌てて止めたおかげでそのヒトは助かったけど……あんなこと、やるもんじゃないわ」

 ハーディは悲痛な面持ちで首を横に振ると、宝玉を手で包み込んで胸に当てる。再び彼女が腕を開いた時には、宝玉は無くなっていた。まるで体内に吸い込まれてしまったかのように。


「だからお前は、ヒトの身体でも耐えられる疑似的な器官を作ろうとしたんだろ? 子には引き継ぐことができず、新たな蜂が生まれることもない。消えゆくだけの俺たちの力が蘇れば、いつかに会えた時、助けになるかもしれないからって。そう、言ってただろうが……⁉」

 酷く悔しそうに、父は絞り出すように言葉を発している。

 何の話をしているかは分からないけれど、ムルの体は強張って指先一つ動かすことはできなかった。


「うん、そうね。けれど分かるの。私に残された時間は少ない。だから、次代に希望を託す決意をしても良い頃だと思ったのよ。嬉しいことに、こんな私にも弟子ができたの。私の研究をもう随分前から手伝ってくれている。だから、もう私の出番は終わりよ」

 ハーディの声はとても穏やかで、嬉しげにも聞こえる。その声に絆されたように、ふっと父の身体からも力が抜けていったのが分かった。


「――そのために、俺を呼んだんだな?」

「そうよ、それが君の決めた、君の使命でしょう。この私の身にどれだけの命と『力』が残っているかは分からないけれど、少しは足しになるんじゃない? 私は君のように旅をして、あの御方を探すだけの力はもう持っていないしね」

 だから、頼むわ。ハーディの言葉に、父は力強く頷いた。

 その答えに満足そうに微笑んだハーディが、不意に表情を曇らせて問う。


「けど、マジャも大丈夫? 正直その……間に合うのかしら。あのムルって子を、私たちの代わりになんて考えてないわよね?」

「アイツはそんなんじゃねぇ!!」

 自分の名前が出てきて、ムルの肩が大きく跳ねる。口元に両手を強く当てて、漏れ出しそうになる声を必死で抑えた。

「なら、良いわ。ごめんなさい」

「いや、そのことを心配して、わざわざ実験結果のことを俺に話したんだろ? 分かってる」

 父は普段のような穏やかな口調に戻って、ふっと全身の力を抜いた。


「自分の命の期限は、俺が一番よく分かってる。それまでになんとか、俺自身の手で見つけ出してみせるさ」

 言葉が、ざっくりとムルの胸を突き刺す。

 生物である以上、いつか死は訪れる。けれど、ひょっとして、父の死期は思っていたよりも近くに迫っているのではないだろうか。

 そんな予感がして、ムルの全身はガタガタと大きく震えた。


 その後、ムルはどうやって天幕に帰ったのか覚えていない。翌朝目覚めた時、あれは夢だったのではと錯覚するほどだった。

 しかし、それから集落を経つ時間になっても、最後までハーディがムルたちの前に姿を現すことはなかったのである。





「父さん、頼まれてた水を――」

 天幕の中へ入ろうとして、ムルは咄嗟に足を止めた。休憩用に張った簡易の天幕の中で、父が体を折り曲げ激しく咳き込んでいる。気が付かなかったフリをして、天幕の入り口から距離を取った。

 最近、父はこうして咳き込んだり、どこか疲れた様子でぼんやりとしていることが増えた。戦闘時の動きに変化はないが、髪や肌の色もどこかくすんで見える。

 水の入った皮袋を胸に抱いて、ムルは不安な気持ちを必死で押し殺す。


 ハーディの下を訪ねてからおよそ一年が経った。特に変わりなく旅を続けているように見えるが、その裏では暗く恐ろしい影が父に迫っているような気がする。

 咳が収まってきたのを確認し、ムルは極力明るい表情で天幕の中へ入った。

「父さん、また咳き込んでたけど大丈夫? ほらお水」

「あ、ああ。悪いな。最近、乾燥が酷いからかねぇ。どうも喉の調子がな」

 父は誤魔化すように歯を見せて笑った。


 父の言うように、国全体の水が減ってきているようで、空気は酷く乾いている。以前はもう少しよく見られたオアシスも、今ではほとんど見られなくなっていた。

 旅先では水を巡っての小競り合いに遭遇することもあり、国中で不穏な空気が漂っているようにも思う。そう言えば、父は最近水を自ら作り出すことをしない。もしかしたら、その力も無くなってきているのではないだろうか。

 ムルは喉を鳴らして不安を飲み込むと、笑顔で父に告げた。


「もう少し歩いたら、町があるんでしょ? そこで水を分けてもらえないか頼んでみよう。その代わりに俺が、力仕事とかで役に立てると思うし」

「俺より細い腕で、何言ってんだか」

 ムルが腕を曲げて二の腕の筋肉を見せると、父はおかしそうに笑った。合わせてムルも笑顔を見せる。


 本当は何度も、あの夜のことを父に問いただそうとした。しかしそれを聞いてしまったら、父の体調の変化の理由にも気づいてしまいそうで、恐ろしくて。

 ムルは日々を噛みしめるように、父に寄り添って微笑みかけることで不安から逃れようとしていた。



 目指していた町が近づいてきた時、ムルは異変を感じて眉を顰めた。隣を見上げると、父も厳しい顔つきをして前方を見据えている。

「おかしい。人の気配が全く感じられない」

 そう呟くなり、父は駆け出した。調子が悪いとはいえ、大きな体躯から踏み出される一歩は大きい。ムルも慌ててその背を追いかけた。

 

 町が近づくにつれて、その異常さが浮き彫りになっていく。それなりに大きな町だと聞いていたが、町の入り口になっている金属製の門には門番一人見当たらない。門は薄っすらと開かれたままで、門としての役目を果たせていないようだ。

 背の高い塀と日干し煉瓦造りの建物に囲まれ、中の様子を伺うことはできない。しかし、門の前に立っても、活気というか住民の生気も感じられなかった。


 ムルは父と顔を見合わせ頷き合うと、僅かに開いた門に指をかける。軋んだ音を立てて門を開くと、目を疑う光景が飛び込んできた。

 道端に倒れ伏した無数の人々、ある者は横向きに体を横たえ、ある者は建物の壁に上半身を預けて項垂れている。

 僅かに息遣いを感じて、慌ててムルは近くにいた男性の傍へ駆け寄った。男性の目は虚ろで、唇はひび割れ乾ききっている。彼はムルの姿を見ると、僅かに目を見開いて唇を震わせた。


「きみ、は、どうして」

「何が、あったの? これは」

「ムル! とりあえず、水を飲ませてやれ! 俺は生きているヤツを探してくる」

「――分かった」

 父の言葉に頷いて、ムルは水袋を取り出して男性の口に水を含ませた。むせないように、少しずつ。どうかこの人が助かりますように。一人でも多く生きている人がいますようにと心を込めて。



 結局、生きていたのは二十数名ほどだった。他の数百人という人々は残念ながら息絶えていたらしい。

 僅かに生き残った人を町の広場に集め、ムルたちは町の人々を介抱し続けた。その甲斐あって日が沈んでしまう頃には、ムルが最初に水を飲ませた男性は喋ることができる程度には回復することができた。


 彼が語った話によると、悲劇の始まりは一月ひとつき前、この町の水源であるオアシスが枯れてしまった事なのだと言う。すぐに近隣の町へ助けを求めたが、どこも自分の町ことだけで手一杯。悉く門前払いをくらってしまった。やがて蓄えも底をつき、町の人々は一人また一人と力尽きていったのである。


「疫病の類でなかったことは、俺たちにとっては幸いってところか」

 松明の明かりにその厳しい横顔を照らされながら、父が弱弱しく舌打ちをする。ムルは父と向かい合いながら、少し離れたところにいる人々へ視線を送った。

 彼らはムルたちの持ってきた水や食料を分け合いながら、亡くなってしまった人々を忍んでいる。しかし、その水や食料にも限りがあるのだ。


「父さん。俺たちが持ってる水と食料は、そんなに多くない。どうにかしないと、残りの人たちも――」

 ムルは悔しくて唇を噛みしめる。

 最後に雨が降ったのはいつのことだろう。少なくともムルの頭に雨の記憶はない。水さえあれば、他の町の人々も命を失わずに済んだのに。


 ムルは思わず空を見上げる。星々が競い合うようにして輝く夜空には、雲なんてものは一つも浮かんでいない。この国はどうして、これほどまでに雨が降らないのだろう。

 ふと、父がため気を漏らす。何かを諦めたような、しかしそれによって肩の荷が下りたような。安堵のため息にも思えた。


「ムル。町の人々の介抱を頼む」

「父さん……?」

 父はムルに背を向けると、町の奥の方へ歩き出す。

 何故かムルは咄嗟に、その背中に縋りつきたい衝動に駆られた。片手を持ち上げ、父へ向かって腕を伸ばす。

 しかし父の背は、どこか拒絶するような空気を放っていて、ムルの腕は次第に力なく下りていった。

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