第92話 彼の昔の話

 自分の本当の親が誰なのか、その時には生きていたのか死んでいたのか。幼かったムルは何も覚えておらず、気づいた時にはたった一人で砂漠を彷徨っていた。

 太陽が隠れてしまった夜の空気は、吸い込むとその冷たさに喉と肺が悲鳴を上げる。音までも凍てついてしまった砂漠を、ムルは一歩ずつ必死で踏みしめて歩いていく。

 どこを目指しているのかも分からない。ただ、何かに突き動かされるかのように前へ進んだ。小さな足が点々と砂に跡を残していく。やがて思いの外柔らかい砂地に足を取られ、ムルは真横に倒れ込んだ。


 おなかすいた、のどがかわいた、あしが痛い。彼は自分の肩を抱き、胎児のように背中を丸めた。指先はかじかんで震え、裸足だった足の指には血が滲んでいる。夜風が砂を巻き上げムルの頬をぶった。穴だらけの服とも呼べないボロ切れを必死で体にまとわせる。

 もう涙も出なかった。つらくてさむくて、何よりもさびしくて。

 そんな時、不意に自分の体が浮いて、とても温かいものに全身を包まれた。


「お前……生きてるな!? 良かった……」

 思わずムルは、その人の服の端をぎゅっと縋るように握る。少し驚いたような声が漏れた後、ふっと空気が緩み、頭に大きな手のひらが乗った。

「もう、大丈夫だからな」

 その声が本当に力強くて、頭を撫でる手の感触が心地よくて。乾ききっていたはずのムルの瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。




 楽器のように澄んだ音を響かせ、互いに大きく後ろへ跳ぶ。ムルは先が湾曲した長剣を手に、地を蹴った。その拍子に小石が転がり近くの岩にぶつかる。耳障りな音を立て、ムルの刃は身の丈ほどもある長剣によって高らかに吹き飛ばされていった。

 あ、と思わず声を上げ、それが水に返っていくのを見つめる。視界の端に父のしたり顔が映った。

「まだまだ甘いな、ムル」

 剣だった水が球体となり、彼の手元に収まっていく。


「あーあ……まだ勝てないのか。今度は勝てると思ったんだけどな」

 大地に腰を下ろし、ムルは嘆きながら天を仰いだ。頭上には、突き抜けるような蒼天がどこまでも広がっている。鷹か鷲だろうか、一羽の鳥が空の色をかき回すようにぐるぐると回っていた。

 風を切って自由に空を羽ばたくのは、さぞ気持ちが良いのだろう。いや、太陽に近づく分、あそこは焼けるように熱いのだろうか。

 ぼんやりとその鳥を目で追っていると、無精ひげを生やした大柄の男がムルの顔を覗き込んできた。


「おい、こんな日の真下でぼんやりしてたら倒れるぞ」

「あ、父さんごめん」

 謝罪の言葉を口にしながら、ムルは父の手から水の入った皮袋を受け取る。その時に、父の太い柱のような腕が目に入った。ムルの腕は彼の半分ほどの厚さしかない。

 いつまで経っても縮まらないその背を見上げながら、ムルは水を口に含んで飲み込む。

「俺も鍛えてるんだけど。なかなか父さんみたいにならないね」

「まぁ、持って生まれた体格の差はどうにもならねぇよ。ムルにはムルに合った戦い方を見つければいい」

 ムルの頭を乱暴に撫でた後、父はラクダの尻尾のように結んだ髪をいじりながら思案する。


「そうだな。ムルは身軽で身体能力も高い。気配を殺すのも上手いし、不意打ちからの奇襲はありだな」

「前に俺が後ろから忍び寄った時、父さんすごくびっくりしてたよね」

 その時のことを思い出したのか、父は苦笑いをして頭をかいた。

「あれはその、酒も入って油断してたんだよ。とにかく、その特技を活かした戦い方と武器を選べばいいんだ。小回りの利く短剣、いや、もっと細くて軽い武器の方が活かせそうだな。例えば」

 針、みたいな。

 その単語を告げた時、一瞬父が苦し気に眉を顰めた。すぐに歯を見せておどけたように笑う父を見て、ムルは無邪気に問いかける。


「針、か。それってどんな風に戦うの? 短剣とも違うんだろうね。父さんさえ良ければ習ってみたいな」

「――そうだな。うし! 今日はそれでやってみるか!」

 うん、と頷きながら、ムルは胸に手を当てた。

 こうして、父に色々なことを教わるのは楽しい。父は粗野な見た目に似合わずとても博識で、特に武術に関してはどこで習ったのかと思うほど、豊富な知識を持っていた。その知識に触れて学ぶたびに、憧れている父に近づけているような気がする。


 ムルは心臓を高鳴らせ、上目遣いで問いかけた。

「俺も父さんみたいに強くなれるかな?」

 自分の身を、そして父のことを守れるくらいには、強くなれるだろうか。

「俺みたいに、じゃなくても良い。お前は強くなるさ、絶対に」

 父に頭を撫でられ、ムルはくすぐったそうに笑う。暗闇で燭台の明かりを灯したような、柔らかくて明るい笑みだった。




 ある日、ムルがいつものように目を覚まし、簡易の天幕の中から這い出ると、父の二の腕に一羽の鷹が止まっていた。鷹の足には金属製の小さな筒がくくりつけられている。

 父は少しおぼつかない手つきでその筒の蓋を開け、小さな紙を取り出した。

「父さん?」

 こちらに背を向けているため、彼の表情を伺うことはできない。しかし、普段と明らかに違う雰囲気に、ムルは思わず声をかけていた。いつも自信満々で飄々としている父が、とても頼りなく見える。

 振り返った父は、深い藍色の瞳を僅かに揺らがせた後、何かを決意したような表情で告げた。


「――俺の、仲間に会いに行く」

 え、とムルは疑問の声を上げる。

 父はムルと出会う前から、一人で旅をしていたようだった。これと言った目的もなく気ままに彷徨っているようにしか見えなかったのに、突然仲間に会うだなんて。

 父の仲間とはどんな人なのか、その知らせは何なのか、どうしてそんなに苦しそうなのか。

 聞きたいことは山のようにあったが、ムルは拳を握ると同時にそれを飲み込んだ。

「分かった」

 ムルが頷くと、父はどこか安心したように笑う。そのらしくない弱弱しい笑みも何かの不穏な予兆に思えて、ムルは表情を曇らせ俯いた。




 父の仲間がいるという集落は、二日ほどでたどり着くことができた。到着したのはちょうど日が暮れたばかりで、日干し煉瓦で作られた砂色の建物を松明の明かりが赤く照らしていた。数軒の建物と、片手で数えられるほどの天幕が立ち並んだ小さな集落である。数人の村人たちが水甕みずがめを抱えてせわしなく動いているのが見えた。きっと、夕餉ゆうげの支度だろう。

 村人たちの姿を眺めていると、天幕の一つから黒々とした髪を持つ女性が顔を覗かせた。彼女の灰色の瞳が父を見てどこか眩しそうに細められ、次いで隣に立つムルに気づいて目を見開く。


「久しぶりね、マジャ。その子は――」

「俺の息子だ」

 ムルが口を開く前に、父マジャが言葉を強めて告げた。はっきり息子と紹介されたのはとても嬉しかったが、父と女性の間には緊張感が漂っている。ムルは戸惑いつつ、彼女に向かって頭を下げた。

「君、私たちの事情は知っているの?」

「事情?」

「その話は、また後で。お前の話もあるんだろ? ムル、コイツは俺と同じ……水の蜂だ」

 ムルは目を大きく見開いて、父と女性を交互に見つめた。


 父が人間ではなく『水の蜂』という種族であることは聞いている。仲間とはやはりそう意味だったのか。初めて会った父以外の水の蜂を、失礼だとは思いつつも、ムルは凝視する。

 歳の頃は父より少し上くらい。体格は同年代の女性よりも多少小柄なくらいだろうか。炭のように黒い髪を肩まで伸ばし、口元には柔和な笑みを浮かべている。長身で体格もよく、豪快な父とは真逆の印象だ。同じ種族と言われても、釈然としない。

「ムルって言うのね。私はハーディよ。よろしくね」

 ハーディと名乗った女性は、ムルに片手を差し出しながら目尻の皺を深くする。握った彼女の手はたおやかでひんやりとしていて、やはり父とは全く違った感触がした。

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