第91話 あなたの言葉

 ムルは一度だけ背後を振り返る。チャッタに支えられて立つアルガンと目が合った。歯を見せて得意気に笑う彼は思ったよりも元気そうで、ムルは安堵する。

 隣のチャッタへ視線を向けると、彼は自分を見て大きく頷いてくれた。それを確認したムルは息を深く吐き、女王蜂へ向き直る。


 彼女の瞳は光を失っていて、何の感情も伺うことはできない。細くて長い剣のようなを携え、彫刻のようにそこへ立っている。

 このままいくら声を張り上げたところで、今の彼女には届かないだろう。心を閉ざした彼女を救えるとしたら、やはりこの方法しかない。

 弓を使ったのは久しぶりだ。この体と指先が、ちゃんと覚えていてくれて良かった。

 ムルは心を決めて、固く拳を握る。

 女王蜂が自らのを彼に突きつけ、冷淡な声を発した。


「消えなさい」

 それだけでムルの背筋は凍り、足がすくむ。相手に思わず膝をつかせてしまうような、圧倒的な王者の声。動きを止めた彼の下へ、女王蜂が駆ける。足裏を無理やり引き剝がし、ムルも床を蹴った。


 甲高い音が空間を突き抜け、互いのがぶつかり合う。振り下ろされた彼女の攻撃を、ムルは辛うじて受け止めていた。逆手に持った彼の針は小刻みに震え、つま先が床を滑っていく。

 堪えろ。ムルはぐっと奥歯を噛み締める。

 水を司り、数多の蜂を統べてきた女王蜂に対して、自分の力はあまりにも小さい。それでも。

「約束は守るから」


 ムルは手首を返して女王蜂の針を跳ね上げ、その隙に大きく後ろへと飛び下がる。

 すかさず彼女はてのひらをこちらへ向け、水の刃をいくつも放ってきた。空間を上下に分かつように、刃は真っすぐムルへと向かってくる。

 彼は両足で着地すると、針を消して腕を前へ突き出した。自分が操ることができる水をかき集め、布を編むように目的のものを創り出していく。

 完成したものを両手で掴み、ムルは大きく腕を振り回した。


 彼の武器が水の刃を糸のように絡め取り、後ろへ受け流す。

 腰を深く落としたムルの手には、一本の槍が握られていた。

 弓と同じく久しぶりに扱う武器だけど、大丈夫覚えている。目にぐっと力を込めると、彼は槍を構えて駆け出した。


 女王蜂から放たれる攻撃を、槍の穂先や長い柄で防ぎ、叩き落しながら前進する。

 竜を生み出したりといった大きな攻撃がないのは、女王蜂がアルガンとの戦いで力を消耗してしまったからだろうか。それとも、ほんの僅かでも彼女の心が揺らいでいるからだろうか。どちらにせよ、今が畳み掛ける時。


 ムルに、この攻撃は通じないと思ったのだろう。女王蜂は刃を放つのを止め、強く片足で床を蹴った。純白の髪がさらりと優雅に舞ったかと思うと、あっという間にムルの間合いへ入り込んでくる。そしてをムルの心臓めがけて突き出した。針先にブレのない、一切の容赦のない一撃である。

 流石にこの距離では近すぎて、槍を振り回すことができない。そう悟ったムルは、パッと両手を離して槍を手放す。

 再び武器の形状を変化させ、新たな武器を右手で掴んだ。切っ先にかけてが僅かに湾曲した剣である。

 彼は刃の腹で、女王蜂の針を受け止めた。


「……っ」

 女王蜂は僅かに眉をひそめたものの、何度もムルの左胸を目掛け針を突き出す。怒涛の攻撃に加え、彼女の魔術で作られた水の矢がムルへと迫る。

 ならばこちらも、手数を増やすまで。

 ムルは空いた左手に、もう一振りの剣を生み出し、下から上へ振り上げる。水の矢が散らされ雫となって床に落ちていく。

 二人は互いの武器を合わせると、再び反発するように距離をとった。二対の剣を携え、ムルは再び女王蜂へと向き直る。


「何故、武器が……?」

 訝しげな声を上げ、女王蜂は剣状の針を天へ掲げる。針の先端に向かって、水が渦を巻きながら集まっていく。そして彼女が腕を振るうと、幾筋もの水がムルへ向かって行った。

 どことなく繊細さを欠いた、焦っているような攻撃にも見える。ムルは膝を曲げて跳躍した。


 右手の剣を上段から振り下ろして攻撃を断ち切り、次いで左の刃を横に払う。

 弾ける水飛沫の合間から、女王蜂が再び水でその身を包み込もうとしているのが見えた。

 また、閉じこもってしまうのか。そんなことはさせない。


 ムルは右足が床についたと同時に、前方へ向けて大きく跳んだ。ならば、きっと届く。

 二対の剣が水へと戻って、細く長く形を変えていく。かつて父が使っていた長剣が、ムルの手の中に現れた。

 息を吐き出すと同時に大きく踏み込み、刃を女王蜂の下へ突き出す。

 彼女を守らんとしていた水球が割れ、彼の刃は彼女の目の前で止まった。

 やけに長く感じる沈黙の後、女王蜂が声を震わせる。


「馬鹿に、しているのですか? 貴方はわたくしを、本気で傷つけようとしていないのでしょう?」

 それなのに、どうして。

 女王蜂の瞳は、大きく揺らいでいた。

「私の心は、こんなにも痛むのでしょう……?」

 左胸の辺りを押さえ、それでも彼女は武器を取ってムルに向かってくる。それはまるで何かを、振り払おうとするかのようであった。





 女王蜂かのじょが目覚めた時、初めに感じたのは「安堵」だった。

 水の中を揺蕩うような、水そのものになってしまったかのような自身の存在すら曖昧な感覚。そこから自分の輪郭が明瞭になり意識が浮上し、今生まれた自分と遥か昔から続く「女王蜂」としての記憶が溶け合う。

 そうして自分が何者なのか、何をするべきなのか、自らの存在意義と使命を再確認していく。今まで幾度となく繰り返してきた儀式だった。

 しかし、それも今回で最後になる。長く生と死を繰り返してきたが、雨を降らせるための力がようやく集まった。これで使命を、皆との約束を果たすことができる。

 

 そう思っていた彼女は、ふと違和感に気づいた。集めてきたはずの力がほとんど感じられないのである。愕然とした彼女は周囲を見回し、そのオアシスを見た瞬間に悟った。

 人間は目覚めの時を待つ自分から、力を奪い取っていたのだと。

 水を大切にすると言ったのに、私の体を守ると言ったのに。眠りにつく直前、人間たちに与えたオアシスは、たった百年程度で枯れてしまう規模ではなかったはずなのに。


『そんな……!? 一体、誰のために何人もの私や同胞たちが命を散らしていったと思っているの』

 水の神から与えられた使命だとは言っても、彼女はヒトを愛していた。心から彼らが救われれば良いと思っていた。

 そんな彼女の澄んだ心が、あっという間に黒く澱んでいく。


『皆は貴方たち人間を渇きから救うため、私に命を託してくれたのに。人間は、その力を自らの欲望のまま使ってしまったというの? ああ、情けない。悔しい。同胞たちに申し訳ない。私が人を信じたばかりに。皆に、なんとお詫びをすれば……!』


 人間が何事かを言っている。お前は水を生み出す水の蜂を統べる女王だと、乾いたこの国に、水と言う恵みをもたらすべく生まれた存在だと。

 勝手に何を言っている。その恵みは、同胞たちの優しく美しい心によって与えられたもの。それを踏みにじったのは、お前たちなのに。

 気がついた時、彼女は目の前の人間たちをしていた。


『全て終わってしまった。もう、集めた力はほとんど残っていない。これでは使命を果たせない。もう良い。もう、全部終わりにすれば良い……!』

 彼女は自らのを振るい、全てを破壊し始めた。人間が作った彼女を閉じ込めていたオアシスの底も、豪華絢爛な王宮も。もうこの国の全て、自分と一緒に失くなってしまえばいい。


 過去の自分の記憶と心は閉じ込めた。そうすれば、余計なことを考えずにすむ。あの黒い髪の青年も、邪魔をするならば容赦しない。

 そう思って女王蜂は、何度も彼と武器を合わせてきた。けれど。


『何故、何故なの……?』

 彼と戦う度に心は揺さぶられ、深く胸の奥に閉じ込めた想いが溢れそうになる。彼の扱う武器やその戦い方が、彼女の心をどうしようもなく揺さぶってくる。

「どうして、私の心は、こんなにも痛むのでしょう……?」


 疑問を振り払うように、彼女は地を蹴った。もう後戻りはできない。私は全てを破壊するのだから。

 唇を噛み、彼の長剣を弾いて、自分の針を前へ突き出す。明らかに鋭さを欠いた一撃だった。黒髪の青年の右手に、二の腕ほどの長さの針が現れる。

 彼が手首を返すと、女王蜂の象徴たる針が彼女の手からこぼれて宙を舞った。

 その瞬間、閉じ込めていた想いが零れていく。


「苦しい」

 力を集める為、たった一人で旅をして、やがて死んでまた生きて。

 奥歯を噛みしめ涙を飲み込んで、呪文のように繰り返した。

 私は女王蜂。水の神の使者として、この乾いた大地に雨を降らせるために生まれた存在。生きたいと願う同胞たちの代わりに、私の命で力を集めなければ。全てはこの国に生きる愛すべきものたちの為に。

 そうして彼女は、自分の心を押し殺した。

 しかし、本当は。


「辛い」

 そんなことを思ってはいけないのに。

「さびしい」

 孤独の中、何度も生きて死んだ日々を、再び繰り返すことなどできはしない。

 もう、無理だ。

 女王蜂は膝をついて、両手で顔を覆う。軽い音を立て、彼女の針が床に零れ落ちていく。幼い少女のように、顔を押さえたまま頭を激しく横に振った。


「もう私は、孤独に耐えることなどできない! もう嫌、嫌なの……!」

 そうだ。人間に力を奪われ裏切られたことも、自分のために命を預けてくれた皆に申し訳ないと思う気持ちも確かにある。

 けれど力を奪われたと気づいた瞬間、また力を集めるためには、あの日々を繰り返さなければならないと気づいて、心が折れてしまった。もう自分の心は、何百年と続く孤独に耐え切れなくなってしまったのだ。

 必死で心を奮い立たせていたけれど、本当はずっと辛くて苦しかった。


 ただ何も考えず、使命の為に生きる存在であれば良かったのに。こんな想いをするならば、心などいらなかった。人間と出会わなければ良かった。

 これ以上、苦しくて寂しい記憶を背負いたくない。もう、一人は嫌だ。


 頭を抱え込んで、床に蹲る。彼女のぎゅとつぐんだ唇から、苦しげな呼吸が漏れた。

 何も聞こえなかった静かな空間に、一人の女性の嗚咽の声が響いていく。

 不意に、青年が口を開いた。


「それで良い」

 涙を救い上げてくれるような温かな声に、女王蜂は思わず顔を上げる。

 彼女の目の前に、澄んだ砂漠の星空が広がった。青年の、ムルの瞳である。

 それは、幾度となく見上げた夜空と同じ、何百年経っても変わらずそこにあった光。何度も彼女の孤独をまぎらわせてくれた輝きだ。

 茫然と彼女がその瞳を見上げていると、彼がどこか嬉しげに呟いた。


「やっと、『あなた』の言葉が聞けた」

 女王蜂は大きく目を見開く。

 この国のすべての命が、渇きに苦しむことのないようにしたい。皆が生きたいと願うなら、叶えてあげたい。それが彼女の使命であり心からの願いでもあった。けれど。


「弱くて愚かなわたくしは、もう終わりにしたいだなんて……。私は女王蜂なのに」

「それで良いんだ」

 ムルは彼女目の前で片膝を折る。そして、ゆっくりと首を横に振った。

「女王蜂さまだって、辛くて寂しくなるのは当たり前なんだ。それで誰かの命を奪ってしまったのはいけないことだけど、苦しいと思ってしまうことは、絶対に罪なんかじゃない」


 一滴の水のように、告げられた言葉が女王蜂の心に染み入っていく。

 すると、波紋が広がっていくように、視界が明るく開けていった。何人もの自分と今の自分の記憶が繋がって、彼女は肩を震わせる。

 ようやく、自分の心をかき乱していた感情の正体が分かったからだ。


 長弓に槍、二対の剣に彼の身の丈以上もある長剣。その武器も戦い方も、酷く懐かしい。

 かつての自分の傍にいた、大切な同胞たちのが、それと同じ形だったのだ。


「どうして。どうして……貴方がその力を使っているのですか?」

 そうだ。何故、水の蜂を象徴する針を持っているのだろう。だって、ムルは。


「貴方は――でしょう?」

 女王蜂の言葉に、彼は星空のような両目を閉じた。

「――受け取って、引き継いだんだ。正真正銘、最後の水の蜂から。あなたの心を救うため、みんなの想いを届けるために」

 その為に俺は、蜂になったんだ。

 ムルは目を開き、女王蜂を見つめる。その眼差しは水のようにどこまでも澄み切っていた。

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