還らぬ日々
用水路には何が泳いでいると覗き込んでみる
冷たい水の色
水を搔く音は聞こえない
水草の影
陽の光は遠い
水面は明るいけど
田んぼの土はしなびて褪せていた
かじかんだ土の色に紛れ込む
灰色の枯れた雑草は
やがて
すき返される春を待っている
虫やカエルは土の下
まだ眠っているのだろう
掘り返して見せようか
「寝かせてあげてよ」
彼女はつぶやく
今起きても死んじゃうから
彼女の声は
ぶっきらぼうで温かい
加えた煙草が天を仰ぐ
吐き出す息は白い色
空が寒いせい?と
問うてみる僕に
瞬きで応える彼女
「冬眠から覚めたのよ」
瞳の色はそう語っているように
目映げに
日差しからそらして見せた
美しい褐色がかった茶色の瞳
だからお日様がまぶしいわ
田舎の農道にふたり
二人ぼっちで駅への道
誰もいないから寂しいの
いい天気なのにね
ちょっと口ごもる
「ばかみたい」
アタシたちと彼女の唇は言いたいようだ
背中に垂らした黒髪を掻き上げて
道の向こうを見つめている
俺が居ても寂しいのかい
あなたがいるからそうなのよ
背中越しの声はくぐもって
湿り気を帯びていた
「嫌われモンだ」
僕の息はハッカ入りのドロップを舐めた様に
胸の中を抜けてゆき
すうすうする
乾いていてもその響きはやるせない
二人が暮らし始めたのは落ち葉が舞う
めぐり逢いは冬の
寒かったから肩を寄せ合って
付き合いたい
温め合いたい
めぐり逢えば
抱き合いたい
逢えばそう思う
冬空の星明り
アナタは良いヒトよ
いつもそう彼女は言っていた
僕はうれしいかといえば
いつも気をはぐらかされていた
そんな不安がいらだちを呼び
いつも口論の種になった
何でもないことで
いつも仲直りして
無かったことに
そう
二人はなかったことにして
取り繕って
ごまかし合い
綻びはどんどん大きくなっていった
年が明けても
二人は一緒だった
つぎはぎだらけの二人の暮らし
相も変わらず彼女は微笑む
アナタは良いヒトよ
目が覚めたら
ご飯を一緒に
ベッドで肌を重ね合う
優しい瞳
それでよかったのと彼女は言いだす
それ以上は望まないから
一緒にいて
その言葉が僕には重荷になった
何をしてほしい
何をしてあげられる
何をすればいいのか
僕にはわからない
子猫のように戸惑いながら
じゃれてみる無邪気な彼女に
僕は猫じゃらしで
相手になってやればよかったのか
そんな彼女のわがままに
僕はついてゆけない
そんな僕のわがままに
彼女はついてゆけないのだと…
途方に暮れた二人
どうしてこうなった
どうしてこうなっちゃた
遊ばれてるよ
友人の一人はそういった
いい御身分だな
悪友は一人はそういった
よろしくやってて
うらやましい
僕に
飽きたんだったら
俺にも回せよという
うそぶくそいつに一発見舞わせた
春には卒業なんだからしっかりしろよ
(それなら卒業記念にヤリ収めだろ?)
そんな仲間たちの声を背に
ふざけるな!
悪態をついてみたものの
言い返せない僕がいた
そうするうちに春が来る
二人で間借りしていた郊外の
鄙びた古民家が
遠くなってくる帰り道
待っていられることが苦痛になった
酔って帰れば口喧嘩
わかっているよ
わかっているって
彼女の言い分は結局
僕には分かっていなかった
明け方まで話し合って
お互いに根負けした
どちらとも言うでもなく
いつしか
そうなっていた
駅まで見送った僕は
彼女との生活を清算する
夢のような日々だった
それは夢ではなかったか
それは勝手な言い草
思い直す僕
振り返らない彼女は
戻ってこない
季節は過ぎ
帰らない
振り返る暇もない日々が始まった
僕は母校の美術教師になり
教鞭をとれば
いつしか
歳月は過ぎる
幾度目かの春が来て
新学期
新入生の一団を
窓辺に見る
その女子高生の中に見知った顔を見た
その女子生徒の面差しに
見覚えがある
私の過去がよみがえる
あの日
かつての季節が脳裏をよぎる
生徒名簿を取り寄せ確信する
あの生徒の母親は
彼女だ
そして結婚した
子供を産み育んで
育て上げた娘がここに来た
いつ結婚したのだろう
心が少し痛んだ
後悔も少し
誰といわずに懺悔がしたい
三か月ほどして頃合いを計り
機会を見つけると
口実をつけ
放課後に彼女と話をする
「母を知っているんですか?」
嗚呼
言い出せたりはしない
彼女の母は一人で娘を産み
女手一人で育て上げ
母子家庭で育ったことも後で知る
彼女らしい生き方だと思ったが
娘の父親は誰なんだ?
疑念がわく
きっとそうなんだ
彼女の生年月日から導き出した答えは
この娘の父親はワタシだという事
私に妊娠を知らせることなく
孕んだ子供を
堕胎もせずに
何という事
何気ない女子生徒の仕草の一つ一つが
私の思いを呼び覚ます
何故言ってくれなかったんだ
分かっていれば
わかっていれば
遅すぎたのか
早すぎたのか
そして
私にも妻子はいる
きっと聡い彼女は分かっていたのだ
だから言わなかった
ひとり胸に収めて彼女を育てた
アナタは良いヒトよ
彼女の声が聞こえた気がした
母親にうり二つの笑みを浮かべる
女子生徒
昔のままの彼女がそこにいた
どうすればいい
僕のことを知っているのだろうか
知った上でここに寄こしたのか
バカなことを
かぶりを振って否定する
それを見て首をかしげる
私の娘
愛おしさがこみ上げる
許しておくれ
私は一介の教師と彼女を
一生徒として
娘を世の中に送り出すのだろう
担任ではないので
彼女の母と出会う事もないかもしれない
それでいいのだ
ズルい奴だと言われても
仕方がないが
私は彼女の意を汲んだつもりだ
これでいいのだ
目の前の女子生徒は
人気のない教室を
去り際に振り返って言った
それは静かな澄んだ声
「あなたのような人で母も幸せだったと思います」
「?! 彼女はこれを知っていたのか?」
「まさか?私の一存でここに来ました」
彼女は微笑んで言った
私はその視線にいたたまれない
私は絶句する
なんていう事だ
これが私の娘なのか
オロオロして声をかけられない
そんな私を慈しむように
「これが最初で最後です」
ですから…
「さようなら、お父さん」
それが娘にあった最後だった
程なく彼女は転校し
私の前から姿を消した
彼女は母にこのことを告げたのかもしれない
イヤきっとそうだ
私は涙する
彼女と娘のことを思い
独り机に突っ伏する
過ちを犯してしまったことを
一度ならず二度までも
彼女らを裏切ってしまったのだ
なぜあの時に
あの時にこそ
取り返しがつかない過ちを…
アナタは
想い出の彼女が今一度
僕にささやきかけている
アナタは好いヒトよ
冬木立の森に 真砂 郭 @masa_78656
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