第4話 ありがとう

 軽やかな出だしが始まったかと思うと、すぐに右手のメロディーが入った。それを聞いたとき、僕はこの曲を聴いたことがあるのを思い出す。


(そっか。この曲が『Take Fiveテイクファイブ』という名前なんだ)


 僕は曲自体は知っていても、曲名を知らないことが多い。クラシックの名曲も、メロディーが始まれば「聴いたことがある!」とは思うのだが、名前が思い浮かばない。それはCMで使われていたり、お店のなかで流れていたりするのを何気なく聞いているからだろう。そして『Take Fiveテイクファイブ』もその一つなのだった。


 女性が弾く『Take Fiveテイクファイブ』は、僕が知っているものとはちょっと違う。

 もちろん、楽譜通りに弾いているのだから『Take Fiveテイクファイブ』なのだが、これは彼女の『Take Fiveテイクファイブ』である。メロディーラインは本来トランペットということもあるかもしれないが、全てピアノで弾くと雰囲気が変わる。軽快な中に優雅さが含まれているような気がした。


 また、少し寒くて手が上手く動かないのか分からないが、音が掠れるところがある。ジャズのテンポが取りにくいのか、右手なのか左手なのか、少し遅れがちになるときがあって、その遅れを取り戻すように音がつまずくときがあるのだ。

「上手い演奏を聞きたい」と思う人が聞いたら、これはきっとつまらない演奏なのかもしれない。でも僕はビリビリと体に電気が走ったように身震いし、感動していた。


 彼女の演奏は、僕が言うのも失礼だけれど、まだまだ磨けるところがあると思う。そのためもっと練習をすれば、より滑らかなメロディーを奏でられるだろう。だが、今の演奏でも彼女がこの曲を通して訴えてくるものは感じられる。そう。僕を楽しませてくれようとしている気持ちが伝わってくるのだ。


 彼女が弾くそれは、バラバラだったものが、ようやく一つのまとまりになったばかりのような初々しさもある。この人の手から生み出される音楽に、僕は感動しっぱなしだった。


(僕は僕の演奏でいいんだな……)


 ふと、そう思った。

 上手くなりたいという気持ちはある。多くの人々に認められるような、すごい演奏が出来たら、きっと楽しいだろうなとも思う。しかし、そういうのを目指すのはピアニストたちなのであって、僕のような凡人ではない。


 じゃあ、僕はどんな演奏を目指すのかといえば、僕なりの演奏なのだと思う。

 数人が同じ曲を弾いたとしても、それはどれをとっても同じものはない。プロが弾いても勿論違うけれど、凡人はそれが顕著だ。弾いていて苦手な部分も違うし、得意なところも違う。メロディーの好きな箇所だって違うだろうし、曲の解釈やイメージだって違う。だから奏者の数だけ表現の仕方があり、上手かろうが下手だろうがその人だけの演奏なのだ。


 それはまるで、お家カレーみたいなものだと思う。カレーと一口に言っても、どの家も違う。しょっぱい家もあれば、甘い家もある。辛さが強い家もあれば、具が沢山入っている家だってあるだろう。


 ピアノを弾くということは、そういうことなんじゃないだろうか。

 自分を表現すること。自分を通して、その曲を弾くこと。誰でもない唯一無二の音を奏でることができるということが本当に素晴らしいことであり、奏者一人ひとりの演奏が聴けるということは、特別なことなんだろうなと思う。


 演奏は曲の最後の部分に入り、同じ伴奏が繰り返される。少しずつ少しずつ終わりに近づき、最後は小さな音でふわっとした余韻を残して終わった。

 僕は惜しみなく拍手を送った。


「素敵でした。それに、聴いたことがある曲でした。これが『Take Fiveテイクファイブ』なんですね。かっこいいです」

「ありがとう。気に入ってもらえてよかったわ」

 彼女は楽譜を片付けながら、ぽつりとこんなことを呟いた。

「もっと上手かったらよかったんだけどね……」


 ああ、そうか。

 僕は思った。この人は、ピアノを弾くのがとても好きで、もっともっと上手くなりたいと思っているのだと。今の演奏では満足していなくて、自分の技術を磨きたいのだなと思った。

「上手いですよ」

 僕はそう言って言葉を続けた。

「僕には、ジャズは弾けません。練習しているからこそ、こんな風な素敵な演奏ができるんです」

 本心だった。僕はいつも楽をしたがる。あまり難しい曲を弾きたいと思わなくて、楽譜も自分のキャパを超える難しさのものには触れようとさえしない。でも彼女は、難しそうに思えても挑戦して、曲としての形を作っている。僕からしたらすごいことだ。

 すると彼女は、僕の言葉に嬉しそうに笑った。

「ありがとう」

「いいえ」

「そういえば、お名前を聞いてもいいかしら。私は大木おおきって言います」

「あ、僕は佐藤です」

「佐藤君ね」

「はい」

「私、ときどきこうやってストリートピアノを弾きに来るの。設置してある場所も増えてきているでしょう? だから、もしまたどこかで会ったら弾き合いっこしましょうね」


 大木さんはそう言って、にこっと笑う。

 僕は嬉しくなって、「はいっ」とちょっと大きな声で返事してしまった。誰かに聴いてもらえるというのは緊張するけれど、ちょっと嬉しい。大した演奏ができない僕だけど、聴いてもらえるならもうちょっと練習を頑張ろうかなと思った。


(電子ピアノを買おう……)


 部屋が狭くなるからと思って買うのを渋っていたけれど、もしかしたら大木さんにまた聴いてもらえるかもしれないなら、購入して家で練習したい。


 ちょうどそのとき、市民センターの自動ドアが開いた。そちらを向くと、大木さんに手を挙げる女性がいた。きっと待ち合わせをしていた人なのだろう。


「今、行くわ――。それじゃあ、佐藤君。素敵な演奏をありがとう。またね」

「はい、また」

 温かな気持ちだった。僕は大木さんの背を見送り、誰もいないフロアで最後にもう一度「Summer」を弾いて帰ったのだった。



(完)

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ストリートピアノ 彩霞 @Pleiades_Yuri

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