第3話 不思議と弾けるようになった曲

 僕は再びピアノに手を置くと、左手から演奏を始めた。


 寂しい感じがする音色が空間に広がり、その前奏が終わると右手のメロディーがすうっと入って来る。まるで離れていた恋人同士が、運命を乗り越えて再会したときのような感動。それが表現される。


 これは、今から100年前のヨーロッパに生きる少女の物語。孤児院で育った少女は、数奇な運命の巡り会わせで踊り子となり、実は生きているかもしれない貴族出身の母親を探して、各地を旅をする。その間に運命の男性と出会うのだが、初めてその人と踊った曲がこの「ワルツ#5」なのである。


 妹がこの物語に夢中になっていたとき、「これを弾いて欲しい」とせがまれた。だが残念ながら楽譜がなかったので、録画しておいたものを何度も再生し、その曲を聴いて自分で音を探した。耳がいいことは自負していたが、僕は天才ではない。そのため一つひとつの音を確認しながら、カタカナで「レ」とか「ミ」と書いた独自の譜面を起こしたのである。


 ただ、そのときに分かったのはメロディーラインだけだったし、手が小さかったかったこともあって弾くことはできなかった。そのうちにアニメの放送が終わり、妹にせがまれることもなくなったので、すっかり忘れてしまっていた。

 それなのに、ピアノから離れて暫く経ったとき、ふっとこのメロディーが思い浮かび、心が赴くままに鍵盤を押してみたら伴奏の部分まで弾けてしまった。

 この不思議な体験は今でも忘れられない。どうしてこんな風に弾けるようになったのか。それは今でもよく分からない。ただ「ワルツ#5」には、何か惹きつけられるものがあるのは確かである。


 物語のなかで、再会を心待ちにした二人なのにどこか寂しげな音色なのは、きっとまた別れることを知っているから。お互いはいつもそばにいられる間柄ではなく、再び会えるかどうか確証のないまま、さようなら、を言わなければならない。


 当時その物語は子ども向けに作った割には、昼ドラのような要素が盛り込まれていて「子どもに見せるものではない」と批判もあったようだ。僕は戦隊ものを見た後で、惰性でこの物語を見ていたが、小難しい部分があって理解できず、世間の評価と同じく好ましいとは思わなかった。


 しかし、物語の内容はどうであれ、ピアノを弾いて喜んでくれる人がいるというのは心地が良いものだ。妹が喜んでくれればそれでいいかな、と思っていたとき、彼女は僕が弾いた「ワルツ#5」を聴いてこう尋ねた。


「ねえ、お兄ちゃん。どうして私がこの曲を弾いて欲しいって言ったか分かる?」

 僕は暫し考えて、ありきたりな答えを言った。

「物語が好きだったから、とか」

 すると彼女は「それもそうなんだけど……」と言いつつ、得意げに笑う。

「『ワルツ#5』を弾いている間、この二人は踊っているんだよ。向き合ってダンスしているの。それを私は傍で見ていられるの……」


 なるほど、と思った。

 僕が「ワルツ#5」を弾いている間、物語の中にいるその二人は再会し、ワルツを踊る。だから妹はその曲を弾いて欲しいとせがんだのだ。子どもながらに、再び別れが来ることを知っていたから。


 妹は、自分の夢を叶えるためにヨーロッパへ渡った。革職人になりたいのだそうだ。今はどうしているだろうか。あの100年前の少女のように、苦難があってもたくましく乗り越えているだろうか。

 そんなことを思いながら最後の音を奏でる。ターン……。

 二人は別れてしまった。でも、大丈夫。また僕が弾けば再び会えるだろうから。

 余韻がなくなったところで、女性は再び温かな拍手を送ってくれた。


「初めて聞いた曲だったけれど、とってもきれいね」

「『ワルツ#5』という曲です。あるアニメで使われていた音楽なんです」

「そうなのね」

「耳コピをして弾いているので、完璧に同じというわけではないですが……」

 すると女性は「耳で聞いただけで弾けるの?」と驚いた様子で尋ねた。

「そんな立派な物じゃないです。耳コピ出来たとしても、ほとんどの場合メロディーラインしかできません」

「羨ましいわ。私もそれができたらとっても楽しいなと思うのだけれど、なかなか難しいわね」

 ふふっと笑う女性を見ていたら、僕はあることを頼みたくなった。勇気を出してみる。

「あの」

「はい?」

「僕もあなたのピアノを聞きたいです。何か弾いてくれませんか?」

 女性は「私の演奏なんて……」と言っていたが、再び「聞いてみたい」とねだると「大層なものは弾けないわよ」と言いつつ了解してくれた。彼女はピアノの前に座ると先ほど使っていた楽譜を取り出す。

「私ね、ジャズが好きなの。『Take Fiveテイクファイブ』って曲知ってる?」

 僕はピアノの傍に立って、ふるふると首を横に振った。

「いいえ……」

「そっか」

「でも、もしかしたらどこかで聞いたことがあるかも」

 すると彼女はふふっと笑う。

「そうね。とても有名な曲だから。――それでは、弾きます」

「はい、お願いします」

 女性は両手を鍵盤に載せて、軽快なリズムを弾き始めた。

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