二枚舌の不安

 「すぐに戻るよ」


 そんな言葉を最後に兄は帰って来なかった。私の唯一の家族だった。何故自分に母と父が居ないか、それを兄は出ていくその日まで遂に教えてくれることはなかったから今でもよく知らない。


「いつになったら金を稼ぐんだ?お前の年の頃には兄貴はもう働いていたよ。」

「兄貴はきっとお前に愛想を尽かしたんだよ。」

「お前の怠け癖には呆れるばかりだよ。」


 後ろで喧しく、責め立てるような口調の声が聞こえる。まるで私の心情を言葉にしているかのようだが決して私の発言ではない。それよりも、二枚舌という言葉があるがあれは本当に舌が二枚あるのだろうか?二枚の舌が交互に会話をしたりするものなのだろうか?そうでなければ私はバケモノなのかもしれない。仮にお兄ちゃんが私のせいで帰ってこなくなったのだとしたらそれは厳密には私のせいじゃない、私の”二枚目の舌”のせいだ。


「おい、聞いてんのか?お前に話してんだぜ?」

「うるさい、あんまり私に話しかけないで。あんたのこと嫌いだって私言ったよね。」

「そんな言い草あんまりだろ。小さい頃は仲良く話したもんじゃねえか、ほら、兄貴と一緒に。」

「あんたの兄じゃない、私の兄だ。」

「変わんねえよ、俺はお前だしお前は俺だろうが。」

「大体ね、あんたが居るせいで私は外にも出られない、働けない。あんたのせいじゃない。人に責任を押し付けないでよ。」

「ああそうかい。そりゃあ俺が悪かったよ。これで満足か?」


クソが。

 兄が居なくなった今、この部屋には私と忌々しいこいつだけが取り残されている。何ということだ、これはピンチだ、私の人生最大のピンチ。一番良いのは兄が帰ってきてくれることだけど、もう諦めるしか無いのかもしれない。なら私の生きる目的とは何なのだろうか。


「それで話の続きだが、なんで兄貴が…お前の兄貴が俺のせいで出ていったと思うんだ?」

「そうね。それに答える前に聞きたいんだけどあんた、普通の人間ってどういうものだと思う?」

「飯食って、風呂入って、遊んで、寝る。そんくらいだろ。ああ、てめえの兄ちゃんならわざわざ外に出て喫煙するってのも入るのか?」

「違う、そういうのじゃなくてもっと根本的な、身体的な、そういう話。普通はね、背中に口なんて付いてないしましてやその口と話したりしない。」

「他の人間なんて見たこと無いくせに。」

「少なくとも兄にはあんたみたいな口の悪い、もとい悪い口なんてついてなかったじゃない。」


 私の背中にあり、兄の背中には無いもの。口だ。こいつは私の意思とは無関係に勝手に話し、考え、食す。幼児の頃の記憶は思い出せないから明確にはわからないけど、多分生まれたときからこいつは背面に居る。私の人生はめちゃくちゃ、全く迷惑千万である。

等とどうでもいいことを考えているとピコンと更に後方から音が聞こえ、「ふわっ」と何とも間抜けな声を上げる。すぐに小馬鹿にするような台詞が背中から聞こえるが全て無視し効果音の正体であるノートパソコンに向かうが、その間も休むこと無くピコピコとこちらの対応を急かすような音が繰り返した。


『おはよう』

『お兄さんは帰ってきたかい?』

『今日…いや、明日の話だけど、3時に駅前で良いんだね?』


これは画面に書かれていたチャットの文面だ。私は明日生まれて初めて兄以外の人間と出会う手はずになっている。ほんの少し楽しみにしていたがいざとなると途端に不安になってきた。だが相手は私よりもずっと緊張しているに違いない、なんたって背中に口のあるバケモノ女と対峙しようというのだから。これを当人が言うとやや変な表現になってしまうが、とても正気の沙汰とは思えない。


『はい。確認ですが、本当に良いんですね?』


キーボードに入力すると私の最終確認はすぐに既読状態になった。指先は少しばかり震えていたが文面上はそれを感づかせぬよう気を使っている。ゆっくりと深呼吸をし、震えが収まるとやれやれ困ったものだと自嘲してしまう。兄が出ていった事やこの件についても言えるが私の感情の揺れ方というのはそれはもう、まるで壊れた蛇口だ。


「びびってんなら断わりゃ良いだろ。ほんとお前馬鹿だよなぁ。」

「ビビってる理由はあんたを人前に出すことなんだから、私は悪くないでしょ。」

「いーや違うね、お前自身の問題だよ。」


落ち合う時間を夜中にしたのもこいつをできるだけ人に見られる確率を下げるためだ。苦労させられているんだ、馬鹿はどっちだこのバーカ。くだらない問答をしているうちに新しい文章が画面上に現れていた。そこには「大丈夫だ」という旨の内容が書かれており、いよいよ引くに引けなくなった訳だ。チャットはその言葉を最後に送られてこなかった。私の内心は好奇心や猜疑心といったあらゆる感情を煮込みに煮込んだスープのような状態へと移行した。


「これが”冷や汗をかく”とかいうやつか・・・。」

「使い方間違ってんぞ。」


 一段落ついた所でいよいよ準備を初めなければいけない。相手の人は私の口の事、兄のこと、外の世界に殆ど出たことが無いこと、大体は知っている。インターネットというのは便利なものでいくら事実だけを書いてもそれが虚構と真実の区別がつかない点にある。良い意味で目立たないのだ。だから私はそこで友達を作ることにした。これはその最初の一歩。自信を持て私、きっとなんとか出来る。兄だって公園でよく

わからない女の子と友達になったらしい、血を分けた私だってきっと上手く出来る。


「私、大丈夫だよね。」

「お前は馬鹿だが愚かじゃねえよ、俺の事を踏まえてもお前なら上手くやれるさ。」

「珍しく前向きな事言ってくれるじゃん、ありがとね。」

「お前ら兄妹以外と初めて出会うんだ、俺も少し楽しみなんだぜ?邪魔はしねえからなんとかしろよ。」

「…うん。」


 それから数時間、その時は遂に来た。私は時計の短針が右側に辿り着くのと同じくして駅前に居た。人は服を纏う生き物だから、見た目では例え知らない人に見つかってもどうってことはないし、こいつが余計な口を挟まなければ基本は大丈夫なはずだ。何を話そうかと先程まで構築されていた脳内イメージは焦りや不安からか、シャボン玉みたいに弾けて結局なんにも思いつかなかった。そわそわと空と地面を交互に見つめる私を満月が見つめてくれている。「やあ」という声が聞こえ、思わず体が跳ねる。僅かな硬直を乗り越え、静かに目線を左手に向ければ彼はそこに居た。


「きょんばんは。」

「うん。きょんばんは。」


噛んでしまった羞恥心など秒速で過ぎ去ってしまうほどに私は緊張していた。上手く顔を見ることも出来ずにたじろいでしまう。何をするわけでも無く、ただ話すだけなのに。相手の顔をちらりと見てみると彼はニコニコとしてくれていた。


「緊張は誰しもする、だから焦らなくていいよ。僕も焦らない。散歩でもしながらゆっくりお話しよう。」


何故かはわからないが、”僕”という兄と同じ一人称を聴き安心感のようなものを僅かに感じた。優しさに当てられ少しホッとするのもつかの間、続けて「後ろの彼…彼女?にも挨拶をしたほうが良いのかな?」と耳に入ってくる。私はハッとした、いくら相手が知っていると言っても本当にこいつに喋らせて大丈夫なのかどうかと。普段から私の抑制など聞いてくれるやつじゃない、もし口汚く罵られでもしたらショックだ。だけどこの時は何故か、こいつは一言たりとも声を出さなかった。


「こいつも緊張しているのかも…。」

「不思議な感じだね、君の中には君とは別の意思が居て、なのに同じ事を一緒に感じているだなんて。」

「私も、そう思う。普段は全く意見なんて合わないし…それに、まさか人見知りするなんて思ってなかった。」


実際人見知りしているのかはわからないが、彼に合わせてそう伝える。こうやって無難な会話が続けられるなら掴みは悪くないんじゃないか、なんだ全然余裕じゃないかと内心天狗になりそうになっていた。が、その天狗の鼻を一瞬にして粉砕するような一言が飛び込んでくる。


「ねぇ、これは完全に好奇心で聞くんだけど、背中の君の事を見てみたいんだ。だめかな?」


それは流石にと一瞬日和る。が、いや違う、ここで引き下がっているようでは前に進めない。ような気がする。こうして背中のこいつの事を理解してくれる人間はきっとそう多くはないのだろう。私は今日一番の勇気を振り絞り、会話の間を伸ばしに伸ばし、小さくうなずいた。羽織っているパーカーを脱ぎ、抱えるように胸元へ持つと彼に背を向けTシャツは自分で捲ってくれと無言で伝えた。彼は「ごめんね、では少し失礼するよ。」と私の背に手をのばす。


「…。」


 気まずい。彼は今どんな顔で私の背面を見ているのだろう、何を思っているのだろう。だが、私が彼と会話することはついぞありえなかった。つまり、私がさらなる不安に駆られている間、彼もまた不安に駆られていた。いや、狩られていた。私が地面を見つめジッと待っていると突然重力は私の後方へと強烈に引きつけ、私は思わず体を倒す羽目になったのだ。尻餅をつき何事だと後ろを振り向こうとしたが上体が上手く回らない。仕方なく首をひねり見える範囲を視認した時彼はもう殆どそこに居なかった。


「何?何が起こってるの?え?」


 バキバキという不快な音が聞こえる、私は嫌な想像が止まらなくなる。まさか、まさか。そう思うのも束の間だ、手元がびっしょりと濡れていることに気づく。地は鮮血で赤く濡れており、それは私の体も同じだった。唐突な出来事に完全に呆けてしまっている私を現実へと急速に戻す声が聞こえる。


「あー、ごちそうさん。」

「お前…えっと…。」


上手く言葉が出ない。今起こった事実を確認するのが怖い。気味の悪い勘違いであってほしい、現実逃避を始めてしまうがそんな思いも虚しく恐ろしい真実は私の方に歩みを進めてくるばかりであった。上体はとっくに自由が効くようになっていたが、とても後ろを振り向くことは出来ず、私はパーカーを再び羽織ると逃げるようにその場を後にした。

その後帰宅した私は、布団に潜り込み怯えていた。背中とは一言も話さなかったし、その間背中も私に何も言ってこなかった。何が起こったのか、あの場で起こった全てを知るのは簡単だ、背中に聞けばいい。だが私は恐怖に飲み込まれとてもじゃないがそんな事をダイレクトに聞ける状態には無かった。


「助けて…兄ちゃん…。」


 独り縋るようにつぶやいたその返答に兄は勿論、背中が何かを返してくれることは決して無かった。

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変人たちの小話 フレイムハート @FLAME_HEART

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