第235話 沈黙

 足を止めた施設では、受付の女性がにこやかに此方へ向かって微笑んでいる。目が合ったと慌てて顔を逸らしてはみるが、その行動は実にぎこちなく不自然に映るだろう。感じた居心地の悪さに諦めて小さな溜息を吐いた後、誘われるようにして彼女の元へと向かう。広告板に掲示されているポスターは現在行っている企画展のものだろう。芸術展なのかと思いきや、どうやらそうではないようで。考古学の方面はそんなに詳しくないものの、比較的メジャーな文明のためほんの少しだけ興味が湧いた。

「すいません」

 ガラス板の向こう側。落ち着いた茶色の制服に身を包んだ女性が爽やかに答える。

「チケットが欲しいんですが」

 そう彼女に伝えると、幾つかの企画展のうちどれが欲しいのかという事を問いかけられた。表に貼られているポスターは、よく見たら数種類の展示の案内がされている。一番目立つものが今回の目玉であることは直ぐに理解出来るが、それ以外にもあったことに言われて始めて気が付いた。

「えっと……あのポスターにあるものを」

 とは言え、その他の企画展はどう言う内容なのかいまいち想像が出来ない。結局、一番大きな扱いである考古学の企画展を選んでチケットを買うと、案内された展示室へと向けて足を進めた。

 館内は思っていたより人の気配があり驚いたというのが、正直な感想である。

 テレビで見る博物館の中に展示されているような展示物を眺めながら館内を目的も無く歩く。混雑を避けるために示された道順は矢印と簡易的な言葉で示され、それに従うように無意識に足を動かしていると、普段からこういうものを楽しむ嗜好がないせいで気が付けば随分と早い速度で歩いてしまい小さな声が漏れる。慌てて速度を落としなるべくじっくりと見るように心掛けながら足を進めて行くが、先に見ていた情報なんてもう頭の中から抜け出てしまっていて。何だか勿体ないことをしたなと、今更ながら後悔を覚えた。

 館内を進むと所々から聞こえてくるのはひそひそ声だ。施設内が思った以上に静かなため気を使っているのかもしれない。大声で話したり、笑い声を上げたりする人間は一人も居ない。定期的に置かれた掲示板にも『館内ではお静かにお願いします』とわざわざ注意書きをしているのだから、敢えてその規則を破るような人間も居ないのだろう。

 建物の中と外でこんなにも支配する音が異なるのかと言うことに気が付き、少しだけ面白いと感じてしまう。

 確かにこの厳かな空気は、雑踏とは無縁のこの空間が最も良く似合っているのだろう。瞼を伏せると感じられるいつもとは異なる雰囲気というものが、今はとても心地良い。

 こうやって時間をかけて展示物を見ていると、段々と興味が湧いてくるから不思議だ。多分これは、この場所と今という時間が見せる一時の幻影のようなものだろうが、掲示物に記された解説という昔の記録の一部を垣間見ることで、今と過去を繋ぎ遺物に宿った昔の人々の考えを共有出来るような気がするのだから心が躍って仕方が無い。こんなことならば、もう少し真面目に勉強をしておけば良かっただなんて。今更後悔しても遅いことだが、残念だと感じてしまうことは否定出来なかった。

 出土された展示物は、此処に至るまで小さく細々としたものが殆どだった。丁度角に差し掛かり通路を抜け次のフロアに移動すると、随分と大きなホールへと出る。このフロアは大型の展示物が展示されているようで、農耕にしようした農具に始まり、武器や防具、当時の移動手段に使われた道具の一部などが十分なゆとりを持って配置されていた。今でも使われているような形の道具や、今では見ることの叶わなくなった道具を眺めながら足を進めて行くと、ふと、気になる声を耳にし足が止まる。

「どこから……?」

 無意識に巡らせる視線。疎らに見える人の影は、次の展示物を見るために既にフロアの出口へと向かい始めている。入口から新しくこのフロアに足を踏み入れる人間の気配は無く、人の気配が少なくなるにつれ、耳に痛い沈黙だけが場所を占拠し始める。

 それなのに、不思議な事に姿の無い声はずっと耳に届き続けているのだ。

 ヒソヒソと。だが、しっかりとその存在感を感じさせるそれは、どうも一つだけとは限らないようで。徐々に大きくなる音の波に思わず耳を塞ぎ視界を閉ざす。

 『見る』という事を止めてしまうと、そこに私とは異なる気配が沢山在る事に気が付いてしまった。視覚以外の感覚がそれらの存在を感知し、否が応でもこの場に居るんだと言う事を認識させられてしまう。それを知ってしまうとそれらが話す言葉が自然と頭の中に入ってきて気持ちが悪い。聞き慣れない言葉、不鮮明なノイズ。だがそれは確かに、何か意味のある言葉を『喋っている』のだということだけは判る。


『きこえているんだろう?』


 直ぐ背後から響く低く濁った声。

「ヒィッ……」

 余りにも突然の事で声が裏返り身体が強張る。唇の隙間から零れた悲鳴を隠すように口元を押さえるが、それは先程の声に対しての明確な答えとして、声の主には知られてしまうだろう。

 声が聞こえていることを知ったのは一人とは限らない。少しずつ増える声のような音が、少しずつ近寄り耳を侵す。余りにも恐ろしくその場に座り込み耳を塞ぎながら、ただひたすらにこの音が止むことを望み耐える。その間も容赦なく聞き入れたくも無い情報が一方的に浴びせられるのだから堪ったものでは無かった。


「大丈夫ですか?」


 心配そうな声にそう問いかけられたのはあれから大分経った頃。こちらの大きなリアクションに対し、警備員の男性が驚いて距離を取る。

「気分が悪くなったのでしたら、手を貸しますが」

 場合によっては救急車を。そんな雰囲気で手にした無線機のスイッチをオンに切り替えたところで慌てて立ち上がる。

「だ、大丈夫です!」

 ご心配をおかけしてすいません。そう言って頭を下げると、逃げるようにしてこのフロアの出口を目指し歩き出す。

「あ、あの!」

「本当に大丈夫ですから!」

 今は兎に角明るい日の下に出たい。心配してくれる警備員の男性には悪いが、親切を簡易的に断ると、その他の展示物を楽しむ事無く建物の外へと飛び出した。

「はぁ……はぁ……」

 外に出られたことによって感じる開放感。眩しいほどの日差しがこれ程にまで有り難いと感じる事は、人生において何度あるだろうか。

 上がる呼吸をゆっくりと胸を撫でることで落ち着かせると、今一度静かに深呼吸を繰り返し背を正す。

「……何だったんだろう」

 確かに聞こえてきたのは誰のものなのかが判らない不鮮明な声。一方的に浴びせられ続けた言葉は残念ながら記憶に残っていないが、それが何で有るのかを確かめる勇気は残念ながら持てそうに無い。

「何か……損した気分」

 これ以上此処に留まっていたくない。帰りにコーヒーショップに寄って期間限定の商品を注文し気分を変えよう。そんなことを考えながら帰路に着こうとした瞬間だった。


『だれかにはなしたらゆるさないからな』


 今一度聞こえてきたのは先程と同じ声。反射的に振り返るがそこにあるのは施設の出入り口だけで、誰の姿も無くしんと静まりかえったまま。

「……………………」

 だが、気が付いてしまった。

 この建物が、入った時とは異なる異様な雰囲気に包まれているのだという事に。

「……………………」

 誰に答えるでもなく口を閉ざし、肯定を意味するように何度も頷いた後慌ててその場を離れる。

 沈黙とは、時として己を守る為の武具となる。

 私はきっと、今日あったことを誰にも語る事が出来ないだろう。

 何故なら、言ってはいけないと言う確かな予感があるからだ。

 このことを誰かに語れば、一体私はどうなってしまうのだろうか。


 その答えは、多分いつまでも判らないまま。だ。

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