第234話 終焉

 いつの間にか止まっていた秒針。

 静寂に満たされた部屋で唯一響いていたはずの音が、完全に沈黙してしまったのはつい先程の話だ。

 ここに来て、どれくらいの刻が経ったのだろう。

 薄ぼんやりとした明かりで照らされた室内は無機質なコンクリートで、何処までも暗く冷たいもので。ここに来て数日間は、この状況に耐えられず気が狂いそうになり泣き喚いていたように思う。

 だが、どんなに足掻いても自分の置かれた状況が変わることは無かった。

 誰も反応を返さない。ただ、そこに切り取られた虚しさが存在しているだけ。

 だからこそ孤独だった。


 恐ろしい程の孤独。


 独りがこんなにも怖いものだという事を、この時に始めて知ったのかもしれない。


 私の人生は決して、人に誇れるようなものでは無かった事は確かである。

 確かに、他人からすれば私の印象は、「良い人」として映っていたことだろう。だが、それは本心からの善意ではなくただの偽善でしか無いことは、私本人が一番よく知っている。

 当然それを、表だってどうこう言うつもりは無い。黙っていれば分からない。所詮はそんなものなのだ。そうやって都合良く生きていく事が当たり前だと、そんな風に思っていたことは否定しない。のらりくらりと面倒毎から逃げるように楽をして生きる。そうやって人生の終わりまでのんびりと時間を過ごせば良いと。漠然としたそんな思いで毎日を惰性的に過ごす。それが私という人間の歩むはずだった人生計画だった。

 そんな完璧な計画が狂ったのはいつからだっただろうか。

 その日も、同じ事の繰り返し。面倒毎を都合良く回避し、定時になったらさっさと帰宅する。そんな気持ちで午後の業務を適当に進めていたことは良く覚えて居る。

 午後三時を回り耳障りな音を立てて鳴り響いたのは固定電話だった。

 誰かが受話器を持ち上げるのを息を殺して待ちながら、如何にも作業に集中していますという雰囲気を作り周囲の様子を探る。

 暫くすると入口の近くのデスクで作業をしていた女性社員の声。明らかに外行きだと分かる半音以上も高い声で、自社の社名と彼女の苗字を答え電話の応対を始める。実に事務的な態度で吐き出される定型文は、パターンを覚えてしまえば復唱することは簡単だ。

「少々お待ち下さい。おつなぎ致しますので」

 固定電話の内線ランプが点れば彼女の役目は終わり。指定された社員の名前を呼び、電話が掛かってきていることを言付けると直ぐに自らの業務へと戻る。今度聞こえてきたのは男性社員の声。良く通る太い声は随分と音量が大きく、話の半分以上は筒抜け状態。おまけに陽気な笑い声まで響くのだから、守秘義務とはと思わず首を傾げたくなってしまう程だ。

「ふぅ」

 いずれにせよ、掛かってきた電話が自分宛では無かったことに胸を撫で下ろしつつ、固定電話の番号に灯る赤い光りに口元を緩める。丁度打ち込んでいた文章も切りが良い所まできており、最後の句点を入力した後、エンターキーを押して確定し文書を保存する。

 一段落すると襲ってくるのは眠気だ。このままではモニタと睨み合ったまま意識が遠のく。そんな予感から席を立つ。

「どこに?」

 まだ作業の途中なのか、マウスでオブジェクトをクリックしながら同僚が問う。

「コーヒーでも買ってこようかと思って」

 ついでにタバコ休憩も。ジェスチャを交えてそう伝えると、さっさと行けと手で払う動作で返される。

 繁忙期が過ぎ比較的落ち着いてきたとは言え、忙しいことには変わらない。他の人間に厭味を言われる前にと抜け出したオフィス。廊下を歩き向かう先は自動販売機が並ぶ休憩スペースである。

 休憩は適宜に。

 そう言われていたとしても、その場の空気がそうさせてくれない。そう言う雰囲気は実際にあることだ。そんな時タバコ休憩というのはとても役に立つ言い訳で。こればかりは喫煙者の特権と言っても過言では無いだろう。身体に有害な煙を摂取しているということは頭では理解している。それでも一度味わってしまった誘惑は、簡単に手放す事が出来ない。それに侵された脳が、足りなくなった成分を寄越せと苛立ちを連れてくる。それを鎮めるために短い一本に火を点けてゆっくりとその紫煙を堪能していく。この至福が終わればタスクノルマをこなすという現実が待っている。だからこそ、数秒でも長く休息を確保するため味わうようにして煙を吸い込んだ。


 思い出せるものがこれだけだと気付いたときには、既にこの部屋の中に居た。

 真四角に切り取られた無機質な空間。当然、この部屋に自ら訪れたという記憶は一切無い。あえて言うなら後頭部が痛い。恐る恐る手で撫でると、鈍い痛みとともに触り慣れない滑りを感じ表情が歪む。

 指先に付着しているのは有るはずの無い赤い色。まだ温かなそれは、どうやら己の身体から流れ出ているものらしい。幸いなことに量はそれほど多くは無く、改めて確認してみると痛みのある箇所から感じる固い感触。どうやら既に瘡蓋に変わってしまっているのだろう。

 一体何に巻き込まれたのか。

 己の身に起こった非現実的な状況に笑いつつ、こうなってしまう可能性を探し思考を巡らせる。

「…………」

 しかし、幾ら考えたところで答えなんて判るはずもない。誰かから恨みを買ったとか、誰かとトラブルになったとか。そのことについて心当たりが一切無いのだ。だからこそ余計に不安になる。

 取りあえず落ち着こう。

 過ぎる不安を蹴散らすように首を振ると、改めて現状を確認する事に決め思考を切り替える。

 窓の無い部屋。出入り口は鉄の扉が一つだけ。天井には小さな裸電球が一つで、白色の灯りが随分と眩しい。壁にスイッチのようなものは見当たらず、この電球を消すことはどうやら不可能のようだ。

 外界とこの部屋を繋ぐ扉には鍵が掛かっていて、此方から開けることは不可能に思える。試しに押したり引いたりとしてみるが、予想した通り一ミリも動く気配が無い。

 閉じ込められた?

 目の前にある事実がそう物語っているのに、それを信じることが出来ないのは、未だ希望を捨てる事が出来ないからだろう。

 どうしてこうなった?

 しかし、残念なことにその問いに対しての答えをくれる者など、この部屋のどこにも存在していない。


 そこから先は、体力の続く限りただ叫び続けた。

 誰に届くかも判らない訴えに、必死に気が付いてもらえる様に。

 しかし、残念ながらその声は誰にも届かなかったようだで、どんなに藻掻いても閉ざされた扉が開くことは無く、ただ残酷に時だけが過ぎていく。

 次第に上げる声は小さいものへと代わり、ドアを叩く力も弱くなった。蓄積する疲労に強いストレスから不眠症も患い、もう何日もまともに寝ることすら出来ていない。

 頭のどこかでは判っていたのだろう。

 もう、助かることは無いのかもしれない。と、言う事に。


 抗う事を辞めてどのくらいの時が経ったのだろうか。

 時計というものがないせいで、時間という概念はとても曖昧だ。

 鍛えていたはずの身体は随分と痩せ細り、いつの間にか骨と皮だけになってしまっている。

 未だに何故、私がこの場所に居るのかは判らない。今はもう、考えると言うことすらも億劫だ。

 吐き出される息は随分と弱く、呼吸を繰り返す度乾いた喉が鈍い痛みを訴える。


 全てが無くなっていく感覚。

 その中で、僅かに残された水分は、涙となり頬を伝う。

 緩やかに訪れる終焉は、決して美しいものでは無く、かといって荒々しいようなものでも無い。

 突きつけられた理不尽さは、惰性的に生きる事を決めた己への罰なのだろうか。

 だが、もう、そんなことはどうでも良い。

 もう暫くすると、命を刻む鼓動が完全に止まるだろう。

 そうなればもう、不安も不満も、怒りも、焦りも、哀しみも……何も感じなくて済む。

 たった一つだけ感じる事が出来るものは、きっと、言いようのない程の幸福に包まれた歓び。


 今はただ、その時を。

 何も無い部屋の隅で、ぼんやりと待ち続けるだけだ。

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