第233話 観光
俺の住む町にはこれといった特徴が無い。
県自体は割と観光資源に恵まれているはずなのだが、その中でも異例の部類に入る何も無い場所がこの町に抱く印象である。
お陰で遊ぶための娯楽施設なんてものは近隣にはなく、ショッピングモールやデパートといった大型の商業施設も電車を使うか車を出して隣の町に出掛けないといけない始末。それなのに、土地町面積だけは無駄に広いのだから、町内の移動は専ら車か自転車を使うことが主だ。
そんな生まれ育ったこの町のことを、俺はとても嫌いだと感じていた。
『退屈』
この言葉は、誰にだって経験があるものだろう。
年を重ねるごとに死を身近に感じ始める者からすれば、その退屈というものが安寧だと感じることもあるのかもしれない。しかし、血気盛んな若者からしてみれば、退屈ほど耐えがたい苦痛としか感じられないのは否定出来ない事実だろう。地図を広げれば周りにはそれなりに娯楽施設というものを保有した市や町があるというのに、何故この場所にだけそういったものがないのだろうか。それは常日頃から感じている不満だった。
自然が多く空気が良いだなんて褒め言葉は、普段娯楽に溢れている場所からすれば日常を忘れられるご褒美となるかも知れないが、毎日がそれだけだと飽きてくるどころかつまらないと感じてしまう。最近漸く流行のコーヒーショップと、数件のコンビニエンスストアが進出してきただけで、本当にこれと言って目立つものがない。だから必然的にやることだって限られてしまう。
いつかはこの町を出て行ってやる。
成人を過ぎると若い人達がこの町を去るということは、そう言うことなのだろうと、毎日そんなことばかり考える。
本当ならば今すぐにでもこの町を出て行きたい。
だが、それは未だ叶う事が無い。
それは俺がまだ未成年だということと、面倒を見てくれている祖父母に対しての申し訳なさが邪魔をしているというのが大きな理由だ。
だからなのだろうか。この退屈に抗うように、悪い遊びばかりを楽しむような知人と連むようになってしまったのは。
そんな日常ががらりと変わったのは、十八の夏休みが切っ掛け。
「あー……暑い……」
その日は異様に太陽が眩しかったことを良く覚えて居る。
悪友としか言えない友人は、母親に強制連行され母親と妹の荷物持ちとして隣町のショッピングモールへと出掛けてしまった。他に連む連中も、殆どが夜型の生活。こんな日が高い時間から活動するような奴は残念ながら居らず、誰一人として捕まりやしない。
ただでさえ退屈なのに、神様というのはどこまで意地悪をすれば気が済むのだろう。午前中に暇つぶしとしてやっていたゲームはあっという間に飽きてしまい、仕方なく自転車に跨がり外に出ても、汗を掻いてただ不快になるだけで。近所の商店で安いアイスとスポーツドリンクのペットボトルを購入すると、目の前にある公園に移動し適当なベンチに腰掛ける。
鬱陶しいくらい泣き喚く蝉の声と、有り余っている元気を発散させるように笑い声を上げる子ども達の声にうんざりしながらも、母親のかける掃除機の音を聞かないで済むことに胸を撫で下ろしながら頬張るアイスバー。涼しげな青色は甘ったるいサイダーの味で、炭酸が無い分味にパンチは無い。
甘ったるくなった口内をスッキリさせたくて、封を切ったペットボトルに口を付けたのはいいものの、詰められた液体はほんのり甘いスポーツ飲料だ。選択肢を間違えたと思わず出た舌打ちに、余計に暑さが助長され気が滅入る。
「はぁ……」
気が付けば無意識に零れる溜息。相変わらず、痛い程眩しい日の光が容赦なく肌を突き刺していた。
「……あ、あの」
「ん?」
不意に目の前に落ちる色の濃い影。鈴の鳴るような声に驚いて顔を上げると、一人の女性が俺の事を覗き込むようにして目の前に立っていた。
「何か?」
この女性が知り合いかだなんて、全くそんなことは無い。見ず知らずの人間に声を掛けられたことに驚き咄嗟に返したのは素っ気ない返事だけで。女性から話しかけられたことに喜ぶべきなのか、知らない相手に対して警戒を持つべきなのかを悩んでいると、彼女は少し困った様に眉を下げながらこんなことを呟いたのだった。
「この場所って、どうやって行くか知っていますか?」
手渡されたのは一枚の写真で、何てことは無い。ただの地味な風景を切り取っただけの画像だった。
「この場所ならこっから一時間くらいで行けるけど?」
特にこれと言った特別な場所でも無いが、だからと言って全く知らない場所というわけでも無い。単純に道を聞かれただけなのかと感じる落胆に肩を落としつつ、写真を返しながら目的地に向かうまでの道順を説明する。
「えーっと…………ここを…………」
彼女は俺が教えた事を忘れないようにと、必死にスマフォをタップしながら道順をメモっていく。だが直ぐに難しい顔を見せた後、疲れたように項垂れ苦い笑みを浮かべてこう返してきた。
「ダメです。実は私……方向音痴なんです」
聞いてみるとどうやら、一つの事を始めると周りに意識が向かなくなるらしく、知らないうちに行きたい場所とは違う場所に辿り着いていることも多いらしい。必死に教えられたことを復唱しながら歩いても、ふとした瞬間その集中力が途切れ興味のある方へと歩き出してしまうのだと彼女は言う。
「成る程」
典型的な迷子になる人のパターンだな。
女性は男性に比べて地図を読むのが苦手と言うが、この人ももしかしたらそのタイプなのかも知れない。そう思うと何だか少し可愛らしく思え、自然と口元が緩んでしまった。
「じゃあ、俺が一緒に行きましょうか?」
その言葉は実に自然に口から零れ出てしまったものだ。
「え?」
彼女は一瞬戸惑った表情を見せたが、少し考えた後、申し訳なさそうにこちらを見ている。
「で……でも……」
「良いッスよ。どうせやることも無いんで暇ですし」
無意識に取り出した携帯端末。バックライトを灯し誰からも連絡が来ていないことを確認した後で、勢いよくベンチから立ち上がる。
「アンタ、チョット危なっかしいし、俺も暇つぶしになるんで丁度良いッスから」
あわよくばなんて下心、気付かれないかとヒヤヒヤしながら歯を見せて笑う。
「じゃあ、お願いします!」
そう言って頭を下げる彼女は、心底安心したというような顔で微笑みながらその豊満な胸を撫で下ろしていた。
確かに今はフリーだ。だが、過去に女性と付き合ったことはあるし、ある程度彼女と呼べるような存在と関係が続いたことだってある。それでもここしばらくは誰とも付き合っていなかったこともあり、女性が隣を歩いているということに覚えるむず痒さ。話を聞いてみると彼女は俺よりも三つほど年上で大学生とのこと。フィールドワークでこの町に来ているらしく、歩きやすい格好として選んだ最近流行のバンドTシャツと、七分丈のスキニージーンズがとても良く似合っている。運動を良くしているのだろうか。無駄の無い筋肉のボディラインはとても綺麗で、ほっそりと引き締まっている。ただ、出るところはしっかりと出ているため、思った以上にサイズの大きな胸が歩く度に上下に揺れていた。
日に焼けて若干茶味を帯びた長い黒髪は後ろで一つにまとめられ、胸同様にゆらり、ゆらりと揺れる。額にじわりと吹き出た汗が頬を伝い、顎で一度止まった後で重力に引っ張られるようにしてシャツの上に落ちた。
「よかったら、これ」
先程足を止めた際購入した冷えたペットボトル。それを差し出すと、彼女は嬉しそうに頷きながら「ありがとう」と返す。そうこうしているうちにいつの間にか目的地に。ほんの僅かな逢瀬の時間が呆気なく終わりを告げたことに、少しだけ寂しさを覚えた。
「それじゃあ、俺はこれで」
彼女との接点なんて、本当にこれっぽっちもない。偶然公園で会って、ただ道を聞かれただけ。目的を完遂してしまえば、さようならと言って別れるだけの淡泊な関係。あわよくばという下心が良い結果に繋がる事も無く、これ以上深入りする事も何だかと思いながら、俺は静かに背を向ける。
「この後、お時間ありますか?」
「え?」
だが、意外なことにその下心は諦めなくて済む事になってしまった。
「色々と助けて貰ったのでお礼をしたいんです。宜しかったらご飯。一緒に食べませんか?」
言われて盛大に鳴り響く腹の音。一瞬間を置いて、恥ずかしさで顔が真っ赤に染まる。
「えっと……その……」
「あははっ! 丁度良かったです!」
実に良いタイミングで起こった奇跡。自分の腹の虫が鳴いたお陰で決まったこの後のスケジュール。どうせこの後も暇なのだ。この人もこう言っていることだしと前向きに考えを切り替えると、俺は素直に彼女の提案になる事にし彼女に付き合うことに決めたのだった。
彼女との時間は思った以上に楽しいと感じるものだった。
隣町からこの町に来ている彼女にとっては、何もなくてつまらないと感じているこの場所が目新しい環境に映るようで、何処に行っても楽しそうに喜びめいいっぱいはしゃいで見せる。自分よりも年上だという考えは直ぐに何処かに消え、年齢よりも少し幼く感じる彼女の一挙一動に思わず笑いが零れてしまう。
長くこの町に住んでいるせいで全てを知っていたという奢りは、突然現れたたった一人の人間によって打ち砕かれる。自分の知らなかった店、言ったことの無い場所、何よりも彼女と共に過ごす時間がとても楽しくて仕方が無い。
「今度はこっちに行ってみましょう!」
時々目的地へと向かうルートから外れ肝を冷やしはしたが、決められた道順から外れるからこそ出会える新しい発見は退屈を忘れさせてくれる。今までは興味を持たなかったから気付かなかった。この『退屈』だと感じる町に、こんなにも沢山『観ることが出来る場所』があったのだということを。
「今日はありがとうございました!」
彼女との楽しい一時はあっという間に過ぎてしまう。
随分と赤みがかった空に浮かぶ大きな夕日。それが彼女を照らし、僅かな哀愁を醸し出す。
「私の方こそ助かったよ。有り難うね」
今日が終わればまた明日から。退屈でつまらない日が始まるのだろう。それを名残惜しいと思いつつも、やがて訪れる今日という日の最後は少しずつ時を刻み進んで行く。
「…………えっと……」
本当は又会えるのかと聞いてみたい。連絡先を交換し、これからも何らかの形で付き合って行けたらと考えてしまう。
「気をつけて帰って下さいね」
だが、それを言う勇気が持てない。それじゃあと手を振り自転車に跨がると、ペダルに足を掛けその場を立ち去るべく背を向ける。
「ねぇ」
それを引き留めたのは彼女の熱っぽい手だ。
「最後にね。もう一箇所だけ……付き合って貰っても良いかな?」
自転車を二人乗りして向かったのは高台にある展望台だった。
日が暮れすっかり暗くなると灯り始める街灯の光。日中温められた生温い空気が、悪戯に肌を擽るようにして通り過ぎていく。
「結構、雰囲気あるんだね」
彼女の言葉通り周りには数組のカップルがいて、それぞれ好きなようにこの雰囲気を楽しんでいるようだ。
「私たちも、他の人から見たら恋人同士にみえたりするのかな?」
「さぁ。そうれはどうッスかね?」
恋人。その言葉に甘酸っぱさを感じるなんてどうかしている。徐々に暗くなる空で輝き始めた星が一つ、又一つと数を増し、昼と夜が切り替わり始める頃合い。
「俺としてはそうなっても別に構わねぇんすけどね」
冗談めかしてそう言ってやれば、彼女は少し驚いたように此方を見た後、何故か哀しそうに顔を伏せてしまった。
「どうしたんすか?」
「……本当に……そうなれれば良かったのにね……」
突然変わった空気。
「あのね……こんな話、知ってる?」
ぽつり、ぽつり、と。彼女の口から零れ出す言葉たち。
「……ちょっと待ってくれ」
それは、一人の女性の辿った悲劇。とても完成度は低く、物語としてはぎこちない。そんな現実味の無い嘘染みたものだった。ただ、それを語る彼女の声は真剣なもので、心なしか恨みとも哀しみとも言えるような感情が籠もっているようにも感じられる。
どう声を掛けて良いのか分からない。
引き攣った笑いを浮かべながら反応に困っていると、よく知った声が俺を呼んだ。
「何やってんだ? お前」
「あ、先輩」
助かった。そう思ったのはどうしてだろう。俺に声をかけてきたのは仲の良い先輩で、彼は最近付き合い始めたという彼女と共にこちらへと近付いてくる。見知った顔に安心したのか俺も手を上げ先輩を呼ぶ。
「で、誰? その女」
「あー……彼女はですねぇ……」
………………い。
次の瞬間響き渡る絶叫。
「え?」
何が起こったのか分からず呆然と立ち尽くしていたら、目の前で笑って居たはずの先輩の身体が大きく傾き地に落ちた。
隣にいた彼女は口元を押さえながら、言葉にもならない言葉を喚き散らしている。
そして何よりも驚いたのは、今日一日時間を共にしていた女性の存在。
「……なん……で……」
頭が働き始めるのを拒否するように後ずさりながら絞り出せたのは、そんな情けない一言だ。
「さっきの話。あれね、私の妹の話なの」
そう言って振り返った彼女は、大粒の涙を溜めながら哀しそうに笑う。
「妹、この男に騙されて捨てられたんだ。あの子……かなり傷付いてさ…………自殺……しちゃったんだよね……」
いつの間にか握られていた銀色の刃物には、先輩の血がべったりと付着し赤く濡れている。
「君と一緒に回った場所、妹がコイツと一緒に行ったって言ってたデートの場所。観光できるような面白いとこなんて無いって言いながらも、あの子、凄く幸せそうに私に話してくれてたのに……」
赤く濡れた右手で涙を拭うと、彼女は携帯端末を取り出して俺にそっと差し出してくる。
「ねぇ。君が、警察に電話してくんない?」
罪はちゃんと、償うから。
そう言った後で彼女は再び先輩に視線を戻すと、完全に息の根を止めるようにして刃物を何度も振り下ろす。
正直に言えば、この行動が正しいのか何てことは分からない。
耳に届く発信音を聞きながら、俺は目の前で起こる現実離れした光景に嗚咽を零す。
今日はいつもと同じ、何も無く退屈な日になるはずだった。
それが、一人の女性と出会ったことで、新たな発見に溢れた楽しい一日へと変わった。
だが、辿り着いたのは哀しみに彩られた狂気。
どこで選択肢を間違ったんだろう。
泣きながら笑う彼女を見ながら俺は機械的に、繋がった番号の先に居るオペレーターへと状況を説明していくのだった。
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