第232話 舌打ち
私は舌打ちが苦手だ。
元々、人付き合いが苦手なので、どうしても家族以外の人間が傍に居ることに対して警戒をしてしまう。
そうで無くとも父親と一緒に居る時間も苦手で、極度に緊張してしまうのだ。だから余計に舌打ちの音が嫌で仕方が無い。
世間から見たら私の家族はとても素晴らしく見え、理想に近い完璧なものとして人の目には映っていたのだろう。
だが、そんなのは所詮上辺だけの話。一度外の世界との繋がりを意味するドアを閉ざしてしまえば、途端に隠されていた様々なものが姿を現す。完璧だと思われている家族の肖像は常に嘘を塗り固めた偽りのもので、外に向ける仮面の内側で蓄積していく鬱憤は、最も弱い存在である私に言葉の暴力という形で全て襲いかかってきた。
まるで鶏の虐めのように、それは容赦が無いもので。
もしかしたら、彼らはそうやって自分自身を守っていたのかも知れないと、今ならそう思えて仕方が無い。
とは言え、だからと言ってそれを納得して受け入れられるのかと言えばそう言う訳では無く、一番遅くこの家の家族になったという理由なだけで一方的に暴力を振るわれる度、植え付けられていく恐怖心からどんどん精神状態は不安定になっていく。
お陰ですっかり根暗な人間の出来上がり。こんな私には当然、友達と呼べるような人も存在しなかった。
ただ、そのこと自体が悪い事だとは余り考えたことが無いということも、付け加えておこう。
先に述べた通り、私は極端に人付き合いの苦手な人間なのである。人と会話する事が苦手で、上手く言葉を繋げることが出来ない。その為時間を共にする相手には強い不快感を与えてしまうようで、最後には必ず相手の機嫌が悪くなる。だから余計に口数は減り、景色に溶け込むように自分の存在を消す必要に迫られる。これは私が、今までの経験から自力で辿り着いた『私自身を護るための方法』なのだ。
他者に存在が認識されれば、最も弱いものが鶏舎の中の贄鶏となる。
一度その役割を定められてしまえば、どんなに藻掻いたところで絶対服従を余儀なくされる。
だが、その存在が空気となってしまえば、強者は新たな生贄を求めて目を逸らす。始めの頃こそ必死に抵抗し己の正当性を訴えたものだが、どれだけ努力をしたところで支配者が自らの間違いを正すことは不可能なのだ。それは下らないプライドからくるものなのか、自信が本当は弱者だと認める事を否定したいからなのかは分からないが、一度たりとも私の主張が通ったことが無い事を考えると、この考えは正しい事の一つなのだろう。
全てを諦めてしまえば得られる安息がある。
とても悲しい事のように思えるが、生きるためには必然的にそうならざるを得ないのだ。仕方の無い話だった。
だからこそ、暗く、湿った陰気な人間が、他者と関わる事は出来る限り避けなければならない。
また、そうやって周りとの距離を置くことにより状況を俯瞰して見ることが出来るのは、私にとって大きなメリットの一つでもある。危ない場所にはもとより近付かない。そうやって危険を事前に回避出来る事は、私のような人間にとってとても重要な事なのだ。
そうやって、少しずつ世界からフェードアウトしていって、今ではすっかり誰からも認識されない人間となってしまった私は、毎日を空気のように生きている。
常に他者へのアンテナは張っているが、自分からは一切干渉することは無い。誰かに声を掛けられようものなら、直ぐに身を引き姿を隠す。
それが私の生活で、その生活に満足しているはず……だった。
「ちっ」
どこからか舌打ちが聞こえ、思わず肩が跳ねる。
どれだけ空気のような生活に慣れたとは言え、この音にだけはどうしても不快感を感じてしまう。
誰かに「私」という存在が気付かれてしまったのだろうか。不安に駆られ周りを見回すが、相変わらず世界は私だけを忘れたように、何事も無く時間を進めているようだ。
「どこから舌打ちが……」
全ての音が認識されない雑音となれば気は楽なのに、どうしてこの舌打ちの音だけは鮮明に耳に届くのだろう。
「もう……この音に悩まされたくないのに……」
まるで呪いのように離れていかない耳障りなノイズ。
それを嫌がるように両手で耳を塞いでも、それを嘲笑うかのように繰り返し聞こえてくる不愉快な音。
「…………ったく、煩いなぁ」
両耳から手を離した瞬間、私は初めてそのことに気が付いた。
「……あ」
そう。
考えてみれば何という事も無い。
「そういう……こと……だったんだ……」
離れていかない耳障りなノイズ。
それを繰り返しているのは誰でも無い…………私自身……だったのだ。
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