第5話宿屋にて
「はぁ……最高だね」
壁から生える金属製のブドウの木みたいなパイプから吐き出される、新鮮な、程良い温度の湯を浴びながらサブリナは呟いた。
あぁ全く、魔術師が過去為し得た最も偉大な研究成果は何かと問われたら、サブリナは迷い無くこの魔石機関式給湯装置、詰まりは風呂とシャワーと応えるだろう。
火の魔石で温めた水を圧力で個別の浴室に供給するシステムは、規模と安定性で幅こそあれ、ほとんど全ての聖王国国民に毎日の入浴を可能にした――パン屋の二階で汗を流していた労働者たちでさえ大衆浴場を利用するし、中流以上の家にはそれぞれ浴室が設置されている。上流階級の中には水の魔石を組み合わせた自己水源型給湯器なんていう代物を、各部屋に備え付けた物好きもいるほどだ。
勿論現実的な思考をするのならばサブリナとて、場所を問わない無制限の水源と聞けばもっと、真っ当な使い方を想像するだろうけれどそれはそれ。大戦時代の殺伐とした世界ならばともかくも、今は七大国による安定した平和な時代だ。たとえ砂漠でも一杯の水より髪を洗うお湯が求められるものである。
荒野のど真ん中であるここ、ナラメシカの町でさえこうして気兼ねなくシャワーを浴びることが出来るのは、まさに魔法のたまものだ。
「ってか、石けんも灰石けんじゃないじゃん」
潤ってるねぇ、とサブリナは呟いた。
ロシェは、まあ当然だけれども、先の喧しい騎士二人が提示した宿ではない宿を選択した。【銀角牡鹿】という名前の宿は三階建ての墓石じみた角張った建物で、貝漆喰の壁を色あせた布で飾っている何処か、流行に乗り遅れた印象のある宿だったけれど中は清潔で、こうしてシャワーまで付いている。
備え付けの石けんも上等だし、身体を拭くタオルまで用意されていた。洗い立てのようにふかふかで、サブリナの馴染みの宿に置いてあれば一晩と持たずに全て持ち逃げされること間違いなし。
宿が特別気前よいというよりは、この程度当然だ、というような気遣いである。それはつまり、宿を利用する者がこの程度を持ち逃げするほど困窮することを想定していないということであり、貧しさを知らないということである。
ナラメシカの主要産業は竜の死体を切り売りすることだと聞いていたけれど、それは思ったより多くの富を町にもたらしているようだ。
「……ま、それなら領主の騎士を邪険にも扱うよね」
多少使者のご機嫌を損ねても、彼らが持ち帰る税金を見れば領主はどちらになびくかという話だ。寧ろ使者が余計なことをして町が抗議をすれば、首が跳ぶのはどちらか解ったものじゃあ無い。
「…………」
サブリナは無意識に髪を弄った。と、固い手触りに指が触れ思わず顔をしかめる。
鏡に映るのは鞭のように細くしなやかな身体、不機嫌をたたえた新緑色の瞳、湿って顔に貼り付いた赤毛とそこに刺さった黄金の冠だ。
金の指輪が最強の剣ならば、この金冠は最高の防具だった。用途こそ限定されるものの、こうして竜の魂とやらに覆われた町に滞在するのならば間違いなく必須であった。その性能をサブリナは信用していたし、見た目の美しさを誇ってもいた。けれどこうして、シャワーを浴びながら髪を洗う際には邪魔だった。
――でも外すわけにはいかない。
魔術師の言った【絶対】。
詳しく説明されていないその言葉の理由を、サブリナは何となく察しつつあった――そしてその予想が大きく外れていない限り、冠を外すのは崖で目を瞑ったまま駆け出すのと同じくらい自殺行為だった。
「……この町は、竜の魂に覆われています」
「一面の見出しがそれだったらアタシはその新聞は買わないだろうね、クルーニー」
ベッドに腰掛けたサブリナはその柔らかさに頬を緩めた。「それって、前提条件じゃあなかった?」
「問題はその濃度です。『雨が降っている』のと『大雨が降っている』のとでは全く違うものですので」
「そうかな? どっちでも濡れるって結末は変わらないでしょう? で、濡れたら乾かせば良い。アタシが今髪を拭いているようにね」
「ミズ・エレクシア、残念ながらこの雨は髪の毛を濡らす程度では済みません。黒い雨どころか毒そのものが降り注ぐようなものです、対処方法を考えなくてはあっという間に魂まで溶けて消えるでしょう」
「そりゃあ最悪だね。で? それは何をしてるの?」
ロシェが部屋の中央で行っていたのは、どう見ても砂遊びだった。一抱えほどもある砂を床にぶちまけた魔術師は、水を少しずつ混ぜながら山を固めている。
「何をしていると思いますか?」
「雨への対策を練っていると思いたいね、手作り砂山最高峰を練っているわけじゃなくって」
「勿論です」
「あそう。で、もう一回聞くけどさクルーニー。それは、何を、しているの?」
「……説明して、貴女が理解出来るかどうか解りかねますが」
「それは説明する側の技量が問題視されるだろうね」
「魔術を行使する準備です。ミズ・エレクシアは魔術といえば率直に、どのような印象を受けますか?」
「こっちに火の玉を投げつけてくる引きこもり」
「失礼、貴女が傭兵だということを忘れていました。一般的な思考を、貴女の知識の宮殿から引き出してきて頂けますか?」
「んん……鍵掛けた部屋でブツブツ呟きながら蝋燭の明かりで本を読んでるひ弱なヤツが、伸びすぎた爪に文句垂れながら描いた魔方陣を使ってやる怪しげな手品」
「失礼、傭兵の礼儀感覚を甘く見ていました。とはいえキーワードが出たので説明を続けますが、概ねその通りです。魔術とは魔方陣を用いて行われる神秘の技、というのが一般的なイメージでしょう」
「そうだね、それで?」
「勿論実際、いちいち魔術の度に魔方陣など用意してはいられません――傭兵ほどでは無いにしろ、魔術師も実践的な職業ですので」
酒場でのデモンストレーションを思い出して、サブリナは頷いた。
「とはいえ例外もあります。『良い仕立には良い針がいる』というわけですよ、ミズ・エレクシア。魔術の安定性を高めるためには確りと、『場を整える』ことが必要なのです。魔術が強力であればあるほど不安定になるものですので、少しでも自分の意識を補強する材料が必要になるものです」
『これ』が『それ』です、とロシェは固まった山を示した。
サブリナは顔をしかめた。子供がトンネルを掘りかけて諦めたような、中途半端に穴の開いた山が一体何の助けになるのだろうか?
「材料の一つです、ミズ・エレクシア。さて……砂の宮殿、黒鉄の町、白き月の砂。崩れ行くものを留め置け……」
サブリナは、これまで何度も魔術師と遭遇してきた。
魔術師から依頼を受けることもあったけれど大半は、彼らは敵対者だった――近隣の住人にとって魔術師は奇妙で神経質な狂人で、固く閉ざしたドアの向こうでどんな危険な研究をしているか解らないのだ。
対決の内どれだけに正当な理由があったかはわからないけれど、傭兵にとって他人との関係なんていつだってその程度だった。サブリナは挑み、魔術師は迎え撃つ。挑む側にとって魔術とは敵の武器の内最も強力なものに過ぎず、易々と発動させてやるものではなかった。だからこうして、悠長な儀式を文字通り胡座をかいて見ているのは中々、珍しい体験だった。
背筋を伸ばして呪文を唱えるロシェの姿は、売れっ子の役者が名乗りをあげる時に似ていた。見る者を惹き付け、これからの演し物に期待を抱かせる、そんな姿にとてもよく似ていた。
「……良し」
呟き声で、彼の砂遊びが終わったことにサブリナは気が付いた。
砂山は溶けて色と形を失い、魔術師の導きに沿って新たなものに変容していた。ムカデ、川、或いはアルファベットのエス……ロシェが作り出したものを表現するいくつかの例えが浮かんだけれど、気にせず分かりやすく言ってしまえばそれは、一振りの
芸術作品のように美しい、ナイフだった。
透明な鱗を重ね合わせたような刀身は恐らくガラスだろう。微かに色の付いた破片が歪に融解し、混ざり合っている。
同業者が自慢してきた、鉱石を割って作った原始的なナイフを、サブリナは思い出していた。銀貨12枚もする工芸品はその十分の一で手に入るナイフを受けてあっさりと折れた。持ち主は顔を真っ赤にして、そのナイフは伝統的に数々の神秘的な儀式を支えるのだと熱弁していたけれど、結局は、庶民の日常生活を『伝統的に』支えてきた飾り気のないナイフへ乗り換えていた。
けれども今は、神秘的な儀式の方が求められる場面だった。傭兵の手にあればただの壊れやすい刃物、魔術師の手にあればそれはあらゆる厄災への備えになる。
「準備万端ってわけだね、良いじゃない。あとは竜の死骸にもう一度向かうんだろうけど……って、ちょっと?!」
何してるのと、サブリナは悲鳴一歩手前の声をあげた。
それも当然だろう、儀式を終えて立ち上がったロシェは躊躇いのない足取りで壁に向かうと、その中心にガラスのナイフを突き立てたのだから。
神秘的な儀式によって生み出されたナイフは、美術品じみた見た目に反して極めて実務的な能力の方も抜かりなく備えているようで、砕けることなく、刃先の半ばほどまでを水に飛び込むように滑らかに埋めた。
魔術師の蛮行は止まらない。
突き立てたナイフを握り直すと、そのまま壁を削り始めたのだ。縦に、横に。文字のようにも簡略化した旗のようにも見える奇妙なマークを刻み終えると、ロシェはナイフを引き抜いて次の壁に向かった。
何らかの魔術が付与されているのだろう、大して力を込める様子もなく、ナイフは壁に作品を刻み付けていった。
あっという間に四方の壁にはそれぞれ異なるマークが深々と刻み込まれた。台無しになった壁紙の模様を呆然と眺めてから、サブリナは、自分が宿泊費を出すわけではないのだから、と己の心に数度言い聞かせた。それに壁紙をよくよく見れば、そもそも好みとは程遠い柄だったし。
「結界を作りました。この部屋はこれで、ナラメシカから切り離されたのです」
「確かに、空気が変わった気がするね。生温い三日目のエールに氷を入れたような感じ、しゃきっとするよ。それで、さっぱりとする以外にどんな効果があるの?」
「魔力をろ過し、僕にとって都合の良い状態へと変換するのです。魔力は土地から得るものですが、その際にどうしても、土地に染み付いた先例の影響を受けてしまうものですので」
「ナラメシカ」
サブリナはあっさりとその名前を告げた。「邪悪な竜の魂は、自宅の回りに随分と広く、庭を囲ってるみたいじゃない?」
「その通りです。かの竜が魂だけでも周囲の人間に影響を与えるだろうとは想像していましたが、あくまでも死体から大きく離れたところにまで及ぶとは思っていませんでした。それも、これほど強力な影響を与えるとは……」
ぼんやりと歩いていたロシェの姿を、サブリナは思い起こした。気もそぞろに直進していた彼は、もしサブリナが呼び止めなければそのまま竜の死体に近付いて、あの毛無しの怪物の餌食になっていたことだろう。
「それでこの部屋を区切ったわけね」
「そういうことです。恐らく影響力は、竜の魂が垂れ流す魔力によるものでしょう。それを遮断してしまえばある程度は、影響から逃れられる……筈です」
「頼りになる言葉だね、泣いちゃいそう」
「計算違いは認めますよ、何しろ相手は竜ですので。そもそも僕は、そうした影響を魔術師ならばはね除けられるだろうと思っていたのですから」
「あー。やっぱりあの時のは……」
「完全に正気を失っていました。完全に。『正気を失っている』ということに気付かない程です、僕はあくまでもいつもの正常な判断のつもりで、前進を選択し続けていましたので」
「それもナラメシカの影響ってわけ?」
「えぇ。竜は周囲の生物を操って、自分に都合の良い行動を採らせているのでしょう。もし生きている時であれば、ただ口を開けて寝ているだけで、好きなだけ獲物にありつけたでしょうね――貴女の王冠が無ければ、そうなっていたかもしれません」
「対抗する魔術はあるの?」
「幾つかありますよ。例えばこの部屋のように、場所を魔術的に区切ることで影響からは逃れられるでしょう」
「それは良いね。で? 竜の死体までこの部屋を背負っていくんないだろうね?」
「幾つかある、と申し上げたはずですので。あとは幾つか仕掛けをします、恐らくは明日の夕方くらいまでは掛かるでしょう」
「アタシの役割は?」
「町の方を調べて下さい。もし必要なものがあればある程度なら、こちらで費用を持ちます」
「気前良いね、偵察の目的は?」
「竜の影響力の範囲を調べて欲しいのです。町の人間にナラメシカの魂はどの程度、影響力を発揮することが可能なのかを」
この決定にサブリナは、憂慮せざるを得なかった。
ついさっき、一人だったら危なかったという話をしたばかりだ。どうやら王冠を持つサブリナだけが例外で、他の者は魔術師といえどもその精神に影響を受けてしまうらしいこの町で、戦力の分散は相当リスクがある行為である――もしもこの、結界とやらが期待通りの性能を発揮しなかったら? 或いは単純に、竜の影響力がヒトに抗える範囲を超えていたとしたら? 偵察に行っている間に依頼主がのこのことあの、原住民族の集落を訪れてシチュー鍋に自ら入るかもしれない、わざわざ服を脱いで自分の身体に塩とバターを塗り込んで、だ。
それに、そもそも――この指示さえも蜥蜴の手の内だったなら?
充分にあり得る話だ。
何しろロシェは一度、竜の魂によって影響を受けた。その後に張った結界は、果たして本当に、ロシェ・クルーニーが心から求めた代物だろうか? 魔術に疎い傭兵を誤魔化すだけの張りぼてではないのか?
少しだけ悩んで、サブリナは頷いた。
「詰まりは、町をブラブラしてこいって事ね。ただ酒も飲めるみたいだし、請け負ったよ」
「……必要な物を必要な分だけ、ですよ」
「酒は?」
「……僕には葡萄酒を。それと、干した無花果があればお願いします」
りょうかい、とサブリナは笑い、ベッドから跳ね起きた。
悩んだところでどうしようもないと気が付いたからだ――この結界が期待通りで無いのならロシェは終わりだ、魔術にも魂にも明るくないサブリナでは何も対処が出来ない。けれど成功していたのなら、続ける価値はある。
結局のところ、上手くいっていると信じるしか無いのだ。どれだけ準備をしても、どれだけ注意を払っても、失敗は起こり得る。最後には運に頼るしか無いし、その点でいえばサブリナには自信があったのだ。
それに、とサブリナは静かに考えた。
自分だけならどうとでもなるでしょう?
竜の眠る町 レライエ @relajie-grimoire
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