第4話森、徘徊者

 ナラメシカの町は一万メートル四方を壁に囲まれていて、その内、北東部の壁際以外のおよそ八割が一つの山である――正確には山ではなく土が積もった竜の死体なわけだが、町では無いという点ではどちらでも同じだろう。


 町の終わりと共に道は途切れがちになり、山の麓にまで辿り着いた頃にはもう、文明の痕跡は跡形も無く草木に呑み込まれていた。


「見慣れない木が多いね」

 山の周りを囲む森を眺めながら、サブリナは顔をしかめた。「ま、アタシは庭師じゃあないけどさ」

「竜の魔力を感じますね。恐らくその影響で、変質しているのでしょう――例えばこれは樫の特徴を残しています。ですが魔術師から見れば、内側を流れているのは水では無く魔力です」

「それって良い兆候?」

「良くも悪くも無い兆候です。ある程度の魔力が染みついた土地ならば、独自の生態系が生まれるのは当然ですので」

 問題は、とロシェは眼鏡を外して額の汗を拭った。「生態系の方向性はその土地の、基盤となる魔力の性質に左右されるということです。そしてこの土地の基盤は先ず間違いなく、一生を気ままに過ごした暴君の死体。培われた方向性を想像したくはありませんね」

「竜のお眼鏡にかなうような花が咲くってわけね、悪趣味な予感がするよ」

「花だけとは限りません、そもそも巨大な竜は寄生生物の宝庫ですので。生前からその身体に様々な生物を侍らせて、世話をさせているものです。魂の話はしましたね? 竜はその魂を震わせて、魔力を漂わせて、他の小さきモノたちを誘導して支配する。死体になったからといって、彼らがその影響力から解き放たれることはありません。竜の魂は不滅なのですから」

「最悪だね、何がって、それが悪くない兆候ってのが最悪だ」


 ロシェのために腰ほどの高さまで育った雑草を踏み固めて道を作りながら、サブリナは吐き捨てる。あの青年魔術師が思ったよりも旅慣れていることは解っていたけれど、自然さえもが好意的で無い環境で魔術師を前衛に立たせるのは賢い選択とは言えなかった。

 ロシェも同意見なのか、意見を争わせるつもりが無いのか、静かに着いてくる。緊張しているのか、いつもより荒い呼吸音が足音の代わりに響いた。


「今日は下見だって言ってたけどさ、クルーニー。どの辺まで近付くつもりなの?」

 なるべく気楽さを意識して、サブリナは尋ねた。「出来れば、夜はベッドで眠りたいものだけれどね」

「…………」

「もう夕方だしね。ここまで来るのに……二時間くらいかな? 帰りを考える時期でしょう?」

「…………」

「ナラメシカの町って食い物だと、何が美味いんだろ。ていうか宿ってどうするか決めてる?」

「…………」

「クルーニー?」

 立ち止まり振り返ると、俯いたままのロシェは気付かなかったようでそのまま、サブリナにぶつかった。「おっと、おいおい大丈夫?」

「…………? ミズ・エレクシア? どうかしましたか」

「どうかしてるのはアンタだよクルーニー。何ぼうっとしてるのさ」

「ぼうっと……? 僕が、ですか?」

「アタシな訳がないでしょう。話聞いてた? いったい何処まで散歩するつもりなんだって聞いたんだけど」

「…………何てことだ……」


 胡乱げだったロシェの目が、驚きのあまり、大きく見開かれた。息継ぎする鵜のように貪欲に、周りの全ての情報を吸い込もうというように、大きく大きく。

 取り込んだ景色を数度の瞬きで咀嚼して、魔術師は思考を回転させる。何度も、何通りも、現実と推論との間を埋めていく。頭蓋の奥で目に見えないパズルが組み上げられていく様が見えるような気がして、サブリナはただ黙って、息さえ止めて、ロシェの瞳を見詰めていた。


 やがてパチリ、と一際大きな星が輝いた。


「戻りましょう、ミズ・エレクシア。今すぐに」

「そりゃあ賛成だけど。何か解った?」

「とても重要なことが。僕たちはここを離れる必要があります、今すぐに」

「ふうん……どうやら、理由を聞く必要は無さそうだね」


 サブリナは周囲をぐるりと見渡した。

 ロシェが足を止めた途端辺りに漂っていた不穏な空気。遠巻きに漂っているだけだったそれらは、ロシェが踵を返した瞬間一気に緩やかな包囲を引き締め始めていた。


 悪くない、サブリナの唇に獰猛な笑みが浮かぶ。こちらの行動を邪魔してくるということは逆に、ロシェの決断が正しいと証明しているようなものだ。

 戦いとは選択の正しさを競うものだ。間違えた道を選べば当然、正しい目的地にはたどり着けない。だからこそこうして正解が解るのは、とてもとても気分が良い。あとはただ、突き進んでいけば良いだけなのだから。


「一応聞くけど、品の良いスマートな脱出方法に心当たりはある?」

「難しいですね。先程も言いましたが、この辺りは竜にとって住みやすいように魔力的な手段で調整されています。その影響はこの土地で生まれ育った動植物に限らず、訪れただけの僕にも及んでいるようですので。詰まり……」

「話が長ぁいっ! 魔術師の流儀は置いときなよクルーニー、もっと単純に、さ」

 サブリナは煽るように叫んだ。「!」


 サブリナの言葉が通じたのか。のそり、と不気味な影が姿を現した。

 正面、左右二人ずつ、それに後ろ。周囲の森から六体。獣ではない、何故ならそいつらは二足歩行でしかも、腰にボロ布を巻いている。羞恥心かそれとも揃いの装束なのか、いずれにしろ獣が服を着ることはない。

 無いけれど、しかし。をヒトと認めるのは難しかった。造形として何の動物が近いかと問われたら間違いなくヒトなのだけれど、例えば『絶対に噛まない』という保証があるとしても狼の口に手を突っ込みたくはないように、理屈と感情との間にはどうしようもない深い溝が横たわるもの。


 には、一切の毛が生えていなかった。


 頭髪は勿論のこと眉毛も、髭も、日焼けした胸板にも、筋骨隆々とした肉体のどこにも毛はなく、つるりとした肌が剥き出しになっている。

 代わりに皮膚を飾っているのは、濃い紫色の塊だ。直径三センチほどの塊は目の前でペンキの缶が爆発したかのように、数も配置も無作為にそいつらの全身を飾っていた。


 サブリナの脳裏に、ランドリクス大陸の大砂漠が連想された。あの灼熱の砂場に住む部族たちはそれぞれ、身体の独自の場所に入れ墨と飾りを刻み込んでいた。それは部族、というより血筋によって厳格な取り決めが定められた紋章であり、向かい合うだけで歴史の全てを理解させる無言の名乗りであった。

 では、こいつらは?

 こいつらのこの意匠にも何か、訴えかけるものがあるだろうか。『解ってくれ』と叫んでいるだろうか。


 サブリナは首を振った。この無機質な飾りにどんな願いが込められているにしても、彼らが一番に伝えたいメッセージはその手に握られた、棒に石を縛り付けただけの粗雑な斧で正しく理解出来る。オレタチ、オマエラ、コロス。それだけ。


「あっは、良いねぇ……!」


 敵は単純であるほど良い。敵の事情は複雑なことが多いのだから。

 戦いの前、敵の事情に思いを馳せて、戦いの後は敵の未練に後ろ髪を引かれる。これは仕方がないことだ、敵も自分も生きてきた歴史があり目指している未来があるのだから。

 だから、せめて戦いの場では。

 思い悩むことは少ない方が良い。


 サブリナが外套を脱ぎ捨てた瞬間、戦場は晩餐会に変わった。

 露わになったサブリナの衣装は理性を感じられない襲撃者でさえ一瞬息を呑んで、動きを止めた程意表を突いたものだった。


 彼らから投げられる驚愕の視線を、サブリナは心地良く浴びた。

 何なら物足りないくらいだった――空女神の民ナーダリアンのご多分に漏れずサブリナは派手好きで、彼女より好みが賑やかだった母親から受け継いだこの戦装束への評価ならどれだけ大袈裟でも、充分という段階には至らなかった。


 頭上に抱くは黄金の冠、身に纏うはまさかの、ドレス。


 生地は絹蜘蛛の鎖糸。

 軽く丈夫な素材を一晩九回、九日間にわたって『月の血』にくぐらせ続ける。伝統的な手法により夜の海より深い青に染まった布は、例え剣で斬ろうと矢を射かけようとも、魔術で炙ろうとびくともしない、最高級の防具となる。


 型は、聖都のお歴々が『鳥人の屋根メシー風』と呼ぶ簡素なデザインで、蝶の刺繍が幾らか施されているだけの地味な代物。痩せぎすなサブリナにぴったりと吸い付いている、所謂『袖なし』のそれは、恐らくそこそこな貴族の開く真っ当な舞踏会ではメイドよりも地味だろう。


 しかしながらここは、舞踏会ではない。


 戦場だ、血湧き肉躍る戦場だ。敵の武器は自分を殺すことが出来て、敵の精神はそれをためらわない戦場だ。生きるために殺すのではなく死なないために殺す地獄のような戦場だ。

 地獄でドレスを着るヒトはいない。だからこそ地味な装飾であっても、そのドレスはサブリナの自己顕示欲を満足させるものだった。それに、サブリナは美しい黄金の王冠を被っている。両手の五指には揃いの指輪を填めているし、それもまた、輝く黄金で出来ていた。


 全体的に、サブリナの服装は場違いそのものに見えた。

 だが――勿論サブリナは、傭兵サブリナ・エレクシア妖精由来の永遠は単に目立つからという理由だけで、装備を決めたわけではない。


「殺すときに見惚れちゃあダメだよ!」


 未だに、突然突き付けられた優雅さの衝撃から立ち直っていない敵の一角に、サブリナは飛び込んだ。そして――


 ――


 振り抜いた右手は手刀の形。

 揃えて伸ばしたほっそりとした指は空を切り、


「っ!?!?」

「【運命的な命運ファタ・モイラ】」

 それはサブリナが、最も信頼する相棒の名前だった。「逃げるなら早くしなよ? 何しろ、


 余裕を示すようにだらりと下げた両手。その指先が指し示す先の地面がじりじりと削れていく。見えない何かが高速で、細かく、大地を神経質に引っ掻いているかのように、じりじり、じりじりと。

 実際目を凝らせば、サブリナの指先と地面との間が陽炎のように歪んでいるのが解るだろう。もし目を凝らしたのが魔術師ロシェ・クルーニーだったならより正確な事実を見抜いただろうが、彼らにはそうした素養も知性も無いようだった。


「……………………」


 ついでに言うなら、彼らには気概も無かった。

 寧ろ感情も無いのかもしれない。同胞の死に泣き喚くことも怒り狂うことも無く、彼らはあまりにも静かに森の奥へと下がっていった。


「……何なんだろうね、アイツらは」

 その気配が完全に消えたのを確認して、サブリナは指輪を停止した。「随分と不気味な連中だったけれど」

「仮説はありますが、解説は後にしましょう。町に戻ります、今すぐに。それとミズ・エレクシア。

「絶対ってのはアタシの知ってる絶対? 寝るときは?」

「外さないで下さい」

「シャワーを浴びるときは?」

「外さないで下さい、いついかなる時も、この壁の内側にいる限り絶対に、ですので」

「その説明も後回し?」

「後回しです」

「……ま、良いけど」


 サブリナは肩を竦めると、急ぎ足で引き返すロシェにのんびりと歩み寄り、ふと振り返った。

 深い森、うっそうと茂った枝葉に隠された何かを見通そうというように。いや、何かではない。それが何かくらいサブリナは、勿論解っている。


 竜だ。あの巨大な獣の張り巡らせた人智を越えた悪意の網が、この森全体を覆っている――或いは、もう森どころでは無いのかもしれないけれど。

 横たわる竜の死骸。その落ちくぼんだ眼窩の奥の奥から未だ朽ちない魂が、舌なめずりをしながら見詰めてくる、そんな妄想に捕まる前に視線を切ってサブリナはロシェに続いた。うなじにずっと、冷ややかな観察の視線を感じながら。

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