第3話町に入りて
「ふう……」
ずずずずず、と。
重低音を響かせて開いた門。辺境伯の居城の城門よりも遙かに巨大な門はそれでも、町を囲む壁の半分にも満たない。まさに天をつくような高さだが、それが過剰では無いとドントは勿論知っている。ナラメシカ。竜を封印した町。
今ではその死体を保管するだけの、やたらと大袈裟な棺桶に過ぎないが――しかし棺桶の蓋に打たれた釘が緩むことを許すなど、ドントでなくともナラメシカの町に一歩でも踏み込んだ者ならば誰も、認めないだろう。
門が開いた瞬間、頬を冷たい風が撫でる。寒いのでは無い。墓荒らしを狙って月の無い夜墓場で身を潜めていたときのように、自分の直ぐ傍で理性と理解の及ばない何者かが同類候補を見定めている、そんな妄想が身を震わせるのだ。
本能が危機感を感じる。ナラメシカの町の礎となった竜の死体は実際ただの死体だが、それでも伝説の生物の名残が何一つ残っていないとは思えなかった。まるで――いや、言うべきでは無い。少なくとも騎士としては、振り回される訳にはいかない与太話だ。
それでも自然とドントは息を潜めていた。いつだってこの町に入ると、何かにじっと見詰められているような感覚に陥る。その姿形が無い大きな視線から逃れようとして、ドントは町に入るといつも口をつぐみ、息を潜めて己を狙う肉食獣の興味を引かないように心掛けているのだ。
だが――ドントは顔をしかめた。今日の気配はどうにも、勝手が違う。
「静かじゃねぇか、ドント。ようやく沈黙の価値に気付いたか?」
近寄ってきた相棒のスリムに、ドントは強がり、シニカルな笑みを返した。
「はっ、俺は清貧を信奉してるンでね。敢えて銀の方を選んでるのさ、そうすりゃあ周りの連中が皆金を手に入れられるだろう? 俺以外の連中が金持ちになることが、俺の喜びってわけだ。この感覚が解るか? 物質的な豊かさなんて充実した精神の前じゃあ、ちっぽけなものさ」
「はいはい。で? 何があったんだよ」
「何てことは無い、かもしれないな。何て言うか、見られてる気がしてよ」
「いつものことだろ? 【鱗飾り】の連中は余所者を睨んでばかりで、歓迎された覚えは無いがな」
「いや、あの陰気な覗き魔共じゃあないな。もっと近く、貼り付くような視線だ。荒野で盗賊を退治した時を覚えてるか? あの時の、アジトの近くで奇襲を受けた時の感覚だ。俺を殺せる何者かが、息を潜めて、俺の背中を狙ってやがる」
「考えすぎだろ、それとも――」
「は、止せ止せ。迷信に価値なんざねぇよ。とっと行こうぜ多分、気のせいだ」
「………………」
……騒々しく去って行く二人の騎士。
その背中が視界から消えて更に少し待ってようやく、サブリナは息を吐いた。
「何とかなったってこと、よね?」
「何とか『した』と言って欲しいものですね、ミズ・エレクシア」
ロシェは何とも気負った様子が無く、結果は当然だとでも言うように眼鏡の汚れをハンカチで――ハンカチで!――拭き取っていた。
少々どころでは無く鼻に付く態度ではあったが、サブリナは非難の声も右手も抑え込んだ。青年の態度には一定の理由があると理解出来ているからだ。実際文句を言う権利はサブリナには無かった、堅牢たるナラメシカの壁を越えられたのは単にこの、ロシェ・クルーニーが用いた魔術に依るのだから。
杖を一振り、淡い白光が煌めくと準備万端とばかりに、ロシェとサブリナは行動した――ドントたちの後をただ、歩いて行った。触れないように、足音を立てないように、つかず離れずの距離をついていく様は童話みたいに滑稽だったけれどそれを笑う者は誰もいなかった。誰も。誰一人、ドントたちも待たされている旅人たちも検問所の兵たちでさえも、サブリナたちを気にすることは無かった。
「魔術万歳ってわけだね。やるじゃん、クルーニー」
「それはどうも。とはいえ誉められても困ります。僕にしてみればこの程度、『ちゃんと歩けて偉いね』と言われているようなものですので」
「ちゃんと歩けるか不安だったのさ、何しろアタシはアンタの魔術をほとんど知らないからね。竜退治を任されたのかそれとも押し付けられたのか、どっちかも解らないんだから」
「そうですか」
「気分を害したなら失礼? 何しろこっちは卑しい傭兵でね、相方の実力ってのを過小評価しがちなのさ……とはいえ」
サブリナはニヤリと笑って、ロシェの肩を勢い良く叩いた。「今のところはしっかりと高評価だよ。魔術師、アンタは少なくとも盗賊の才能はある」
「誉めるつもりだったなら貴女には才能がありませんね。さて……」
ロシェは嫌そうにサブリナから距離をとると、周囲に鋭く視線を巡らせる。
サブリナもつられて辺りを見回した。ナラメシカ。竜の眠る町は一体どのような町だろうか?
その答えは一言で言うと、『陰気』だった。
町並みは他の、中規模な町と変わりが無い――サブリナたちが立っている城門付近から目抜き通りが一本走り、その両脇を二階建ての建物が固める。家の壁は日焼けした石。窓硝子はほとんど嵌まっておらず、長いひさしが強い日射しを防ぐ、荒野にありがちな作りだ。
平凡な、記憶に残りにくい町だった。訪れるまでに一週間荒野を越えると思えば、そう何度も来たくなる景色では無い。だがそれでもナラメシカの町の印象が『普通』とならないのは、平凡とならないのは、町並みのそこかしこに寂れた痕跡が見え隠れするからだ。
通りの石畳は所々割れて雑草が生え、ひさしには雨と泥の影が浮かび、露店が並べる肉には虫が止まっている。大通りだというのに往来に人影はまばらで、時たま見掛ける住人たちは一様に覇気が無く、目を大きく見開き遠巻きにサブリナたちを眺めながらのろのろと、通りを行き来するばかりだ。この調子では、裏路地を覗き込むのは避けた方が良いだろう。
「ずいぶんな雰囲気だね。折角はるばる竜の死体を見に来たっていうのに、歓迎の催しも無いみたいじゃん」
軽口が寒々しく流れた。聞く者と言った者とがどちらも信じていない言葉とはこれほど、無味乾燥として響くものなのか。
サブリナは、降参とばかりに両手を軽く挙げた。
「はいはい、解ってるよ……ここはやばい」
町並みの寂れ具合なんて、実際のところ粗探しに過ぎない――もっと深い根っこの部分で、この町が陰気に感じる原因がある。サブリナはそれを感じていた、ロシェも、ナラメシカの住人たちも誰も彼もが同じように感じているのだろう。
――寒い。
壁を越えたその瞬間に、サブリナが感じたのはその一言だ。
旅する間中ずっと感じていた熱波が壁をくぐったその瞬間すっと消え、全身を冷気が包んだのだ。良い気分では無い。高原や山で感じるような爽やかな寒さでは無くふと、自分の立っている場所が誰かの墓の上だったと思い出すような感覚。死体が生前抱いていたであろう憎悪や我欲が未だに地下で蠢いている、その小刻みな振動を足の裏から感じ取るような感覚だ。その振動は太股の裏、へそ、肋骨の隙間に指を掛けて背骨を登り、首筋へ、皮膚の上を深いな粘液を残して這い上がっていく――今すぐに全身を拭いたいけれど不用意な真似をすれば丸呑みにされると想像できるような、身近な不穏が寒気として町全体を覆っている。
心なしか日射しさえ熱を失っている気さえする。この感覚を四六時中味わっているとすれば住人たちの、あの生気を失った顔つきも納得だ。
「ナラメシカの影響でしょう。住人たちの精神に魔力で干渉して、自分の都合に合わせた行動へと誘導しているのです」
「なるほど、陽気な相手じゃあなさそうだね」
「いいえ。竜は世界一陽気なので、他の陽気な連中が許せないのです」
「…………マジで?」
「冗談です」
サブリナはジッとロシェの、専門用語がぎっしりと並んだ分厚い本を読み上げているような、真面目くさった無表情を見詰めた。それが微動だにしないことを確認し終えると、サブリナは肩を竦めた。
「それで? これからどうするのさ。出来れば旅の疲れを上等な風呂とベッドで癒やしたいものだけれど?」
「勿論拠点は必要です。ですがその前に先ず、敵情視察を済ませましょう」
「竜の死体か。ふうん……」
サブリナはさりげなさを装った仕草で辺りを一瞥した。「……ちょっと焦りすぎじゃない?」
「逆ですよ、ミズ・エレクシア。ここで行かないのは『悠長』というものです」
サブリナの疑念に満ちた視線を真正面から受け止めて、ロシェは頷いた。「我々は今のところは未確定の異邦人ですので」
「……なるほどね」
「ご納得いただけて良かったですよ。では行きましょうか、ナラメシカ――この町の根幹へ……あぁ、そうそう」
ロシェはサブリナの、フードに隠れた額の辺りを見ながら言った。「王冠を忘れないで下さい」
言われるまでも無いとばかりに、サブリナは鼻を鳴らす。冗談の下手な男だ、
それとも。
それほど絶対に忘れないで欲しかったのだろうか?
「………………」
見慣れない二人の旅人の背を、彼女は無言で見詰めていた。
住人たちのどこか、圧倒的なモノに打ちのめされたような卑屈な視線では無い。山のように不動で海のように包容力を備えた、自信に満ちた視線だった。
「いきなり中心に向かうとは、驚きましたね」
「……どうしましょうか、導師様」
「あはは、先ずは宿に向かうと思ったのに。予想が外れましたねぇ」
背後に集まった卑屈な視線の持ち主たち十数人、その内の一人に問われて彼女は、呼び名の通り尊大に笑うと敬虔に跪いた。「やはり私程度の考えでは貴方の導きを理解出来ません……不敬をお許し下さい、我が主よ」
ざわざわと、囁きが卑屈者たちに拡がっていく。その内何人かが彼女の真似をするように跪くと、あっという間に全員が祈りを捧げ始めた。
「……見たいというのなら、見せて差し上げましょう。主がそれをお望みなのでしょうからね」
「し、しかし、いきなり拝謁というのは……」
「主がそう思うのならば、彼らはそうしないでしょう。彼らがそうするということは、主がそうさせたいということ……主は、彼らに己の身体を見て貰いたいのでしょう」
彼女は立ち上がると、ひれ伏す信者たちを振り返って力強く頷いた。
「どうもこうもする必要はありません。全ては偉大なる主、ナラメシカ様の導きによって流れるのですから」
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