鳴かない蝉
卯月代
エピローグ
ふわふわと浮遊した感覚。屈んで足元を見る。視覚的には足は床に着いていないが、どうしてなのか感覚的に足が地面についているような感触に、不思議と違和感は覚えない。しかし二本足で歩いていることに初めて気が付いたような、驚きと違和感があった。
木が基調の家の中、私はじっと佇む。電気は消されていて、玄関から漏れる月明かりだけが目の前の長い廊下をゆらりゆらりと照らしていた。
そのまっすぐ伸びる寂しい廊下に足を進めていく。すると右手の壁に金色の金具に縁取られた絵が、ぽつりと飾ってあった。少ない光を静かに反射する額縁はギラリと輝き、しめやかに、しかし主張する様に存在していた。
丁度廊下の真ん中辺り、奥の方まで目を凝らしてみたがこれ一枚だけのようだ。
その絵には女性のような形をした木に、蝉が止まる場面が描かれていた。この薄暗さも相まって、その絵の女性の肌は毒々しい色を演出していた。不気味でありながら、何処か儚い雰囲気が漂うその絵に、とても心を惹かれた。
そして
上の階に誰かがいるのか、家の軋む湿った音が聞こえた。その音に気がつき、その場を離れる。突き当たりまで行くと、左側にまた廊下が伸びており、奥に少しだけ開けられているすりガラスの扉があった。その隙間に吸い寄せられるように廊下を歩く。廊下の奥まで行くと、また左に短い通路と、正面にはガラス扉、右には上へ続く急な階段が一直線に伸びていた。
ガラス扉の向こうには、木製のキッチンと革のソファだけがぽつんと置かれている。かなり広い部屋だが、殺風景な部屋だ。私は不思議とソファに吸い寄せられ、そのまま腰を下ろした。
ふと今更だが私はどうしてひと様の家に入り込んでこんなことをしているのだろうかという疑問が心を過った。そう思いながらも私は未だにソファの心地の良さに浸っていた。
どうしてか懐かしさを覚えるこの家に居心地の良さを感じている。だからといって、人の家に居座り続ける理由にはならないのだけど。
誰かに出会ってから帰ればいい、そんな道徳的ではない考えをした。
__
自分の真下で抱き合っている二人がいた。もうずっと、それを見下ろしている。
先程の部屋を出て二階に上がってからというもの、私は気配を消して二人をじっと見つめていた。
私は幽霊になっていたのだった。ずっと気づいていたことだった。ただ、どうやってここまで来たのか、私は誰だったのか、そんな基本的なことは全く覚えていなかった。
たった一つ分かることは私はこの目の前の男に恋をしていたということ。
見られているとは思うはずの無い二人は、手を合わせて指を絡めあう。月明かりの影で二人は身体を寄せ合う。もうすぐ秋が終わるのか、少し肌寒かった。
薄暗い部屋の中で男は女の方をじっと見つめる。二人以外で、時計の秒針と十字窓から透ける月明かりだけが時間の経過を示している。
そして二人はキスを交わした。
女はこちらに気が付いたかのように、ゆっくりと、真っ黒な瞳だけをこちらに向けた。その目に充てられた私は心臓がドキリと跳ね返り、迂闊に目を離すことが出来ない。女はまたゆっくりと目を逸らし瞼を閉じた。
ここで私は意識を失う。
ああ、また思い出してしまった。
鳴かない蝉 卯月代 @uzuki3295
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