春薔薇
やがて冬はすっかり明け、四月のある日、ぼくは行宏を連れて海へ出かけた。春の海はやけに青いような気がする。その日はよく晴れていたけれど、帰り際に通り雨が降り出して、ぼくらはシャツを濡らしながら駅に駆け込んだ。まるで人のいないプラットホームのベンチに並んで腰かけ、一時間はやってこない電車を待つ。
二人とも黙ったままでいて、柱にかかった時計を見ては視線を戻すことばかり何度も繰り返した。そうすればするほど、話を始めるというだけの行為が、なんだかとんでもなく難しいことになっていくように思えた。
あのさ、と、ふと喋り出した声が重なった。互いにおかしいほど緊張した声色だったから、ぼくらは同時に咳払いをして笑い合った。雨脚は弱く、屋根をなでるように踏む音が響いている。
「……帰りたくないな、ぼく。」
ごく小さな声で行宏はそう言った。ぼくはすぐに応えようとして、だったら、と言いかけたけれど、そこで声がつまった。いつもならきっとそのまましばらく黙って、そうやって彼を少し困らせてみて、それを幸せな時間と錯覚していただろう。けれど今そうしていたら、次に口を開く時機を永遠に失ってしまうような気がした。
「だったらうちに、うちに住みなよ、行宏。本当は、ずっとそう言いたかったんだ。」
うわずった不恰好な声、けれどそれは何も言わないよりずっとずっとましなのだと、そのとき初めて気がついた。それを聞いた彼は目を丸くしてぼくの顔を凝視したから、ぼくは遠くへ視線をそらす。雨にまぎれた踏切の根元に、咲きかかった小さな花がいくつも植わっているのが見える。
「隆一くん、ぼく、本当に嬉しい。」
ひどく熱くなる顔をよそに向けて、「わかってるよ、そんなこと」とつぶやくと、彼の笑い声が聞こえた。電車が来るまではあと二十分ほどだ。ぼくはまだ笑っている彼のほうに向きなおり、目をつぶるよう言った。彼は素直にまぶたを閉じる。
たとえば深い森の中、午後の陽光に煌めく湖面の水を両手で掬って飲むように、彼の頰にそっと指を添え、その唇に自分の唇をつけた。雨は糸のように細く、薄い日差しが雲の切れ間から降りてくる。
「幸せになろうよ。」
目を閉じたまま、ひとりごとのように彼は言った。当たり前だろ、と返そうとするだけで嘘みたいに吃って、心臓は粟立つように脈打った。愛だと思った。
それから、古ぼけた車両が駅舎へ滑り込んでくるまで、ぼくらはずっと互いの手を握り合っていた。
一千一夜に星遠く クニシマ @yt66
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