酔蝶花

 窓の外では風が木々に冬をもたらそうとしていた。実習室の窓側の隅にはぼくと下山、反対側にはもう数人の学生がいて、彼らは何かを喋りながら絵具を混ぜているようだった。下山はずっとくだらない話をしていた。ぼくが応えようと応えまいと関係なく、自分の言いたいことを言い散らす。

 ぼくは絵を描いていた。キャンバスに向かって筆を滑らせたとき、ふと思い出したのは夏の浜辺に佇む行宏の姿だった。一瞬だけ陽光の暑さがよみがえったように頬を焼いた。あのとき、あの日の帰り道、ぼくは彼と単に親友という以上の何かになれるような、なってしまえるような気がしたのだ。

 いつか彼は言っていた。隆一くんの気性の荒さがうらやましいと。ぼくなんか男らしさがなくっていけないや、と。それの何が悪いんだ、きみはいかにも女受けのしそうな優男じゃないか、と言うと、情けないといった顔をして俯いたのだった。

「どうにもね、だめなんだ。……頼り甲斐がないんだって。ぼくみたいな弱っちい野郎は、結局、だめなんだって。」

 そうやって泣き出してしまいそうな目で微笑んだ、その表情が記憶の浅瀬にこびりついて消えようとしない。あの言葉を聞いたとき、ぼくはなんと思ったのだったか。あの顔を見たとき、ぼくは何を考えたのだったか。それはきっと自分自身にさえできることなら隠していたいような、どうしたって手放しで肯定することのできない、ただ美しいばかりの情であるのだと、本当のところぼくはとっくに気がついていた。

 その情——もはや友愛でないことのみが確かである情の存在を、もし伝えてみたとしたら、彼はぼくから離れようとするだろうか。そんなつもりで仲良くしていたわけじゃないと思うだろうか。冗談めかしてならばその限りではないのだろうか。そう、冗談だ。冗談だってかまわないのだ。冗談できみを愛していると言って、おどけた声がわたしも愛してるわなんて応えてくれたなら、それでいっそ満足することだってやぶさかではないのだ。酒が回っているときならどうだろう。そうだ、それでもし、もしも、もしもぼくが酔いに任せてキスでもしてみせたなら、彼はいったいどんな顔をするだろう。一足飛びにそこまで想像が及んだ。あーあ、もう、だめだろうな、これは。無性に笑えた。どこか身体の奥でどくりと熱い音が鳴って、下山の退屈な話し声が耳朶を上滑りしていく。

 無性に行宏と会いたく思った。


 街にその冬初めての雪が降った日、その日は行宏がぼくの家へ遊びに来る予定があったからあまり降ってもらっては困ると思っていたのだけれど、それに反して雪はよく積もり、外は一面真っ白になってしまっていた。

 このとき、ぼくと行宏は依然としてただ親友であるだけの二人だった。ほとんど寄生するようにしてぼくの心を占める臆病がそうさせていたのであった。けれど、それでも、きっと必ず今夜には伝えることができそうな、そんな気が確かにしていた。

 行宏は夕方になってぼくの家のドアを叩いた。すぐに開けると、彼は肩やら髪の先やらに雪の粒を乗せて微笑んでいた。

「そこの教会の前に雪だるまができてたよ。」

 そう言いながら傘をたたみ、玄関先に立てかける。

「そう。近所の子供かな。」

 ぼくは彼を部屋へ上げた。彼はしゃれたコートの下に高そうなセーターを着ていた。

「子供のときって、雪が降ったらすごく嬉しかったの、覚えてる?」

 窓ガラスの向こうにまだ降り積もる雪を眺めて彼は言う。

「おれは寒いのが嫌いだから。」

 そう応えてみると、彼は「隆一くんらしいね」と笑った。

「じゃあ、雪だるまって作らなかった?」

「さあ……覚えてないな。きみは作ったの?」

「ぼくはよく作ったなあ。兄さんたちと一緒にさ。庭に何個も並べて、でもすぐ溶けちゃうんだよね。あれ、悲しかったな。」

 ぼくがその顔をじっと見ていることに気づき、彼は不思議そうな表情になる。

「なに?」

「いや。素敵な子供だと思ってさ。」

「ふふ、もう、なにそれ。」

 そうやってしばらく喋ったあと、ぼくたちは適当に夕飯を食べた。泊まってくだろ、と言うと、彼は当たり前のように頷いた。それが単に嬉しかった。

 その日は珍しくワインを飲んだのだった。そのせいなのか、それとも彼に言おうとしていることのせいなのか、ちっとも酔いはしなかった。

 日はすっかり沈んでいた。会話が途絶えた隙に、ぼくはついに話し始めた。

「行宏。もし……もし、おれが今、きみを愛していると言ったら、どう思う。」

 かすかに頭上の蛍光灯がまばたきをした。

「えっ?」

 その声はただ純粋な驚きから発されたものであるらしかった。拒絶や嫌悪の意思が混じっているようには聞こえなかった。

「そんなこと、言ったって……冗談でしょ。」

 彼はぼくの顔をうかがうようにしてそう応えた。

「冗談じゃないと言ったら。」

 ぼくは彼の目をじっと見る。彼もぼくの目を見返していたが、ふと俯いた。

「本気じゃ、ないでしょ。」

「本気だと言ったら。」

 そして、彼が何かを言おうとする前に、ぼくは再び口を開く。

「行宏、これは本気だ、本気になった。おれは、男が女を愛するように、きみを愛することができる。だけれどもうそれだけなんだ。それより以前には戻れないんだ。きみが優しいのをわかってこんなことを言うおれを許してくれるかい。嫌だと言ったらすぐにでも帰すよ、そうしておれがきみの前に現れることは二度とない。」

「そんなこと……」

 言い淀む彼の次の言葉をぼくは黙って待った。やがて彼はつぶやくように言った。

「……ぼくは、きみのことをちっとも知らないよ。」

 それは逃げようとしての言葉ではなく、また、ぼくを否定するための言葉というわけでもない。ただ、それでもいいのだろうかと不安に思うからそう言ったのだとわかった。

「いいや、おれにはきみが知ってるだけのことしかない。おれはきみが知ってるだけの、それだけの単純な人間だ。きみ以上におれを理解している人間なんて、この世に一人もいないんだ。」

 ぼくの言葉を聞いていた彼は、何かを自分に言い聞かせるように何度も頷いて、それから小さな声で言った。

「……ぼくは……ううん、ぼく……ぼくも、うん、本気かも。」

 彼はわずかに笑った。雪はまだ静かに降り続いている。ぼくは彼を抱きすくめてしばらくそのままいた。そうしてぼくらはこの部屋で本当に二人きりになった。

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