紅弁慶

 行宏は三人兄弟の末っ子で、例の『雅宏兄さん』の上にもう一人、光宏みつひろという兄がいるらしい。それを知ったぼくが、どうりで人に甘えるのがやけに上手だと思った、と言うと、彼は「そんなことないけどなあ」とくすぐったげな笑顔を見せた。

 そうは言っても、二人で呑んでいるとき、酔いがすっかり回ると決まって女のようにしなだれかかってきて、掠れた声で何か聞き取れないことを呟いてはにこにこ笑うのが彼なのだ。それがうっとうしくないといえば嘘になる。けれども、これまでの彼はぼくでない誰かにそうやって笑いかけていたのだろうかと考えると、彼の頭の重さとかすかな整髪料の匂いが今自分の肩にあることをわずかに嬉しくも思うのだった。

 夏の終わりのことだった。行宏と二人、近所の酒屋で酒を買い込んで、明け方までぼくのアパートの部屋で呑んだ日があった。夜も更け、ちょうどよく陽気になってきた頃、話題は互いの交友関係へと流れついた。大勢の友人がいる行宏の話に適当な相槌を打っていると、隆一くんは最近面白いことあったの、と訊かれる。

「なんにも。知ってるだろ、おれ、友達がいないんだ。」

 そう答えると行宏はけらけら笑った。

「ええ、ひどーい。ぼくは友達じゃないの。」

 その明るさにつられてつい笑顔になり、つけ加えるように「きみ以外にいないんだ」と言うと、彼は何がおかしいのか手を叩いてさらに笑う。

「ねえ、それ、なんか、プロポーズの言葉みたい。」

 そのときぼくは一瞬なぜかひどく不機嫌になって、そんなんじゃないよ、と呟いた。驚くほど低い声だった。行宏はそんなことにはちっとも気づいていないふうで、笑ったまま「わかってるよお」と言った。

 それからしばらく喋り通して、いつしか話の種も尽きたぼくらはなんとなく黙り込んだ。半分眠りかけのような表情で酒の入ったコップを傾ける行宏を眺めるうちに、わかってないな、という言葉が口をついて出た。

「ん? なにが?」

「別に。」

「そう?」

 彼は目を瞑って微笑んだ。

 東の空がうっすら明るくなっていくのを、カーテンの一枚もかかっていない窓の外に見た。以前遊びに行った行宏の家は、窓という窓に真っ白なカーテンがかけられていたのをふと思い出した。

「……きみみたいなやつとは、きっと、もう出会えない。」

「それ、いい意味で言ってるの。」

「当たり前だろ。」

「だったら、ふふ、嬉しい。ぼくも……多分、隆一くんみたいな人とは、もう会えないな。」

 ぼくはコップに残っていた酒をぐっと飲み干した。気分はわずかに浮かれていた。

「気が合うね。もし——きみが女だったらと思うと、惜しいよ。」

「あはは! もう、なに、冗談。隆一くん、面白いなあ……。」

 それは確かに冗談だったけれど、いつか本気になってしまう日が来るような、そんな気もした。


 ある秋の日、課題が終わってしばしの休息を手に入れたぼくは、行宏を誘ってラーメンを食べに行った。ぼくの住む街は雑貨屋でも飯屋でもなんでも個人経営の古い店が多く、その大半は外観に気を配るという意識がないのか老朽化した屋根やら壁やらをそのまま放置している。そのため外からやってきた人間はほとんど寄りつかず、近隣の住民だけが知る穴場となっているのだ。ぼくらの入ったラーメン屋も例に漏れず、外装も内装もえらく古ぼけているけれど味は確かな店だった。

 席につき注文を済ませてから、行宏はやたら物珍しそうに店内を見回していた。向かい合って座る彼のしわひとつないシャツを見るにつけ、やはり住んでいる世界が違うと改めて思う。

 ぼくの視線に気づいた行宏が「そういえば」と口を開いた。

「ラーメンで思い出した。前、光宏兄さんに聞いたんだけどね。」

「うん。」

 ぼくはやや俯き、机の隅の浅黒い染みを見る。

「光宏兄さんの大学の頃の先輩に、ハリーさんっていう人がいてさ。」

「ふうん。外人?」

「ううん、あだ名。本名は……なんだったかなあ、春夫はるおさんとかっていったかな。ぼくも何回か会ったことあるんだけど、その人がね、ラーメンをフォークで食べるんだって。」

「へえ、珍しいね。」

 さして興味のない話でも、彼が語るなら耳を傾けようという気になった。ぼくの話すこともきっと彼にとってそうなのだろうと思う。

「スパゲティみたいにってこと?」

「うん、多分。」

 そのとき、腰の曲がった店主が二人分の醤油ラーメンを席に運んできた。それぞれ平らげた後、行宏はどうやらこの店を気に入ったらしく、また来たいと言っていた。

 その日は天気も良かったから、少し遠回りをして散歩しながら帰った。通りかかった近所の教会では結婚式をやっていて、華やいだ飾りつけが目を引いた。穏やかな日差しの積もる道を歩く。素晴らしい日だ、とぼんやり考えた。それはもしかすると、隣に彼がいるからなのかもしれなかった。

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