波斯菊
その日から行宏は度々ぼくのところへ訪ねてくるようになった。やってきて何をするというわけでもないのだけれど、実習室の隅で絵を描くぼくの横に座り、しばらく黙って眺めていたと思えば不意にどうだっていいことを楽しげに喋り出すから、ぼくもそれに適当な答えを返してみたりして、そんなふうにただなんでもない時間を過ごすのだ。
彼と親しくなるうちに、今までのぼくには友人と呼べる相手など一人たりともいなかったのだと気づいた。それは何か虚しいことのようでもありながら、同時に素晴らしいことのようでもあった。
冬が明け、春が遠くから押し寄せてくるような頃には、ぼくらは親友といって差し支えないほど仲良くなっていた。そんなある日、ぼくと行宏が話しているところに、同じ室内で作業をしていた
下山はぼくの言葉に割り込むようにして喋り出した。行宏も笑顔で応える。ぼくが黙り込んでも二人は話し続けた。下山が大口を開けて笑う。そのがさつな笑い声がいやに気障りだった。
「——うるせえぞ、おまえ。」
ぼくは下山を睨みつけた。下山はため息をついた。
「なんだ与野井、急に。」
行宏が戸惑った表情になる。こいつに嫌われたらどうしようと思った。悪いな、と下山が行宏へ向けて言う。腹立たしい。何もかもが腹立たしくてたまらない。
「うるせえって言ってるんだァ。」
ぼくはそう怒鳴り、キャンバスを蹴倒して部屋から飛び出した。塗料の缶が転がる音と、「与野井はいつもああなんだよ」と聞こえよがしに言う声が背中に響いた。その日はそのまま帰った。翌朝、倒れたままのキャンバスを片づけていると、ガラリと音を立てて扉が開き下山が現れた。特段どんな言葉も交わさなかった。
ぼくが去った後にどんな会話があったか知らないが、行宏はそれからも相変わらずの朗らかさでぼくの元を訪れた。その後も何度か似たようなことがあるうちにすっかり慣れたらしく、あーまたやったあ、と笑いながらぼくを宥めるようになった。下山を含め数人の同級生どもはそんなぼくらを遠巻きに眺めるのがほとんどだった。やつらはぼくの癇癪にはほとほと呆れていたようで、収まるところに収まってくれてせいせいした、などと話しているのを小耳に挟んだが、不思議とそれには怒りを覚えなかった。
そして春も去っていき、夏が来た。ぼくらは毎日のように一緒に遊ぶ仲にまでなっていた。おかしなことをいうようだけれど、出会えたことが喜ばしいというよりも、これまで出会っていなかったことがあまりに哀しいと、そう思えた。それだからその夏をぼくらはまったく二人で過ごした。ただ仲のいい友人同士が遊ぶよりずっと強い濃さで、互いに出会うより前のすべてをも知り合おうとするように。それはどこまでも青く、美しい夏だった。
ある日、彼と連れ立って海へ行った。ぼくの住む街から在来線に乗って三十分ほどのところにある、いつ行ってもひと気のない小さな浜辺だ。
「隆一くん、ここにはよく来るの?」
そう言いながら行宏は靴を両手に持ち、さくさくと砂粒を踏みしめて波打ち際へ近寄っていった。太陽が一番高くの空に鎮座していた。
「まあ、たまにね。」
ぼくは小脇に抱えたスケッチ・ブックを開き、浅瀬を歩き回る彼の姿をなんとなく描いた。日差しは強く、風はひそやかに吹いていた。すべてがなんだか淡く輝いて見えた。
小一時間ほどをそこで過ごし、帰りがけに銭湯へ寄った。脱衣所で彼と並んでシャツを脱ぐ。視界の端に映るその薄い腹のやけに生っちろいのが目についた。潮の匂いを洗い流すと、日に焼けた肌がわずかに痛んだ。
銭湯を出ると夕暮れだった。取り留めなく話しながら帰路につく。湿った髪の先で服の背が濡れた。街角を曲がると、大きな夕日が道の先に沈んでいくのが見え、しばらく二人とも口をつぐんだ。
「隆一くんの絵って、素敵だね。」
突然、行宏がそう言った。面食らって彼のほうを向くと、彼はいつものように微笑んでぼくの顔を見返した。
「いきなり、なんだよ。」
「ねえ。隆一くんは、画家になるの?」
「……なれたらいいよな。」
そう呟いてからぼくは少し口を開けて黙り、行宏はぼくが再び話し出すのを待つように首を傾げた。
「絵を、描いてさあ。」
ぼくは何かに突き動かされるように言った。
「たとえばほら今日みたいに、きみの絵を描いたりしてさ。それで暮らしていけたなら……」
行宏はびっくりしたような顔をして、それから声をあげて笑った。
「それって、とってもいいね。」
ぼくは早足になり、彼の前を歩いた。その後は何も喋らなかった。
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