一千一夜に星遠く
クニシマ
花菱草
そいつはある晴れた秋の午後、何もかもつまらないぼくの生活に、降って湧いたように現れた。
学祭の日、ひどく騒がしい大学構内。いたるところに屋台が立ち並び、頓狂な声が飛び交い、奇抜な格好の学生がところ構わず練り歩いている。苛ついて頭を掻きむしりながら足早に歩くぼくを、すれ違う学生だか来場者だかわからないやつらが避けていく。携えるキャンバスに誰かがぶつかった気配でまた苛立って舌打ちをし、それからふと気怠くなって溜め息をついた。
確か中庭は開放されていないはずだから今日はそこで過ごそう、と、人のいない非常階段を足音も高く下っていく。そして中庭に辿りついたとき、そいつに出会った。
年の頃はぼくと同じか少し下くらいか、しゃれた柄の開襟シャツを着た細身の男。美術系らしさのないところを見るに外部からの来場者だろう。敷地の広さだけが取り柄の大学だ、おおかた迷ってここへ入ってきたのだな、と思ったぼくは親切にもこう教えてやった。
「ここに屋台はないけど。」
そこに多少の皮肉が混じっていたことは否めない。喧騒から逃れてきた先に侵入者がいたのだ、うんざりしたって仕方ないだろう。けれど彼はぱっと表情を明るくした。どうやら嫌味が通じない種類の人間だ。
「すみません、ぼく、迷っちゃって。油画科ってどこですか?」
その風体から想像されるよりずっと人懐こい声色。刺々しい口調になる気が自然と失われるような、そうやって話すことがためらわれさえするような、そんな感覚に陥る。
「油画はこの上だよ。誰かの知り合いかなんか?」
「あっ、そうなんです。桂木雅宏の弟でして。」
カツラギマサヒロ。その名前の人物とは多少の面識があった。といっても同級生が世話になっている先輩という程度の浅い縁でしかないが。
「表は混んでるから、そこの階段から入ったらいいよ。」
そう言ってぼくは今しがた下りてきたばかりの非常階段を指差した。
「もし注意されたら、与野井に許可をもらったとでも言って。」
「ご親切にどうも。ヨノイさんっておっしゃるんですね。」
快活な笑顔を見せる彼に気圧され、ぼくはうっとうしい髪をしきりに掻き上げる。耳に障る喧騒がうっすらと響き渡る中、ぼくらの立つこの小さな空間には穏やかな風が漂っていた。
「ああ……うん。与野井
「ぼくはユキヒロ、桂木行宏です。」
その後、少しだけ交わした会話によると、彼はここから数駅ほど離れた私立大学の英文学科に属する二年生であるらしく、同い年だと判明してからはぼくを隆一くんと呼んできた。その馴れ馴れしさはどこか快いとも思えたから、ぼくは仕返しに彼を行宏と呼びつけにすることに決めた。
行宏と二度目に会ったのは、それからふた月ほど経った頃、風の冷たさが日に日に増す昼下がりのことだった。いつものように構内を闊歩していたとき、偶然に彼の痩せた背中を見つけ、ぼくは思わず声をあげて呼び止めた。
「おい。おいったら!」
すぐに彼は振り向き、ぼくの顔を認めるとにっこり笑った。
「あれっ、隆一くん。久しぶりだなあ。」
「……ああ。」
その明るさにたじろぎ、やや視線を落とすと、きっちりと手入れされて一点の汚れもない革の靴が目に入る。自分の薄汚いスニーカーと見比べ、こいつはまるきりぼくとは違う人間だ、と思う。
「それよりこんなところで何してるんだきみ、自分の大学はどうしたの。」
「今日は自主休講なんだ。」
「サボりじゃないか。」
「ふふ、冗談。創立記念日でさ。雅宏兄さんに届け物してきた。」
「へえ、そう。……それじゃあ。」
そう言って立ち去る素振りをしてみせると、彼は残念そうな顔になった。
「えーっ。せっかくだから、ちょっと見学させてよ。ぼく、隆一くんの絵が見てみたいな。」
それがあまりにも素直な目をしているものだから、どういった表情で受け止めればいいのかわからず、意思に反して渋面をつくってしまう。
「だめかな。」
「いや……まあ、いいよ。ついてきなよ。」
「本当に? 嬉しいなあ。」
その言葉通り、彼はますます楽しげな笑顔を見せた。やけにむず痒い何かを覚え、乱暴な早足で実習室へ向かう。その後についてすたすたと歩く彼を、向かいからやってくる学生どもがじろじろ見ているのがわかった。しかし彼はそんなことなど気にも留めない様子でぼくに話しかけてくる。
「前から思ってたんだけどね、隆一くんって、髪を切ってもっとちゃんとした服を着たら、きっととっても格好良くなるはずだけどなあ。背も高いし、足も長いし。もったいないよ、そんなに髪を伸ばしてさ。」
ああ、この男はそういった褒め言葉を屈託なく言えるようなやつなのだな、と、それは決して不愉快ではなかったが、なんとも名状しがたい感覚になる。
「なんだよ、それは。第一、前からって、きみと会うのは今日が二度目だろ。」
「だから、初めて会ったときから思ってたんだ。」
こいつの言うことはどうも予測できない。がしがしと頭を掻き、やっとのことで「変なやつだな」とだけ応えた。
「そう?」
振り向かなくても、後ろをついてくる彼が微笑んでいることは容易にわかった。
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