月の眼

真花

月の眼

 常夜灯が冷たく笑っている。非常階段、踊り場から見上げる、僕は鼓動を押し殺すように息を詰める、一歩を踏み出す。一段一段に痕を残したい、せめて、いや、諦めた筈だ。ぐっと足に力を込めて昇る。外に面した柵の向こう側には黒い空。星も月もない。上から闇が街を世界を圧縮するようにのしかかって、沈黙が、ここと繋がっている。多分、僕がどんな声を発してももう届かない。街にも、君にも、他の誰にも。視線を逸らし、また次の段に向かう。監視カメラに僕は映っている。だけど、それが検証されるのは全てが済んだ後、携帯電話が鳴っているかも知れない。だけど、その着信が虚しいものだと分かるのも後だ。体が重い。汗ばかりが出る、全ての蝉が鳴くことを終えた今日、彼らが占めていた空を僕が奪う。

 カップラーメンの匂いがする。どれだけ食べてなかったか、なのに、僕の腹は一切反応しない。それは酷くデジタルな感覚、匂いも体も、ゼロと一で、匂いが一で、体がゼロ。少し進んだらその匂いも消えた。

「もうどうしようもない」

 呟いた言葉もゼロだ。反響しない、そのまま地面に落ちる、それを踏み躙って昇る。足が重い。でも進む。希望の反対が絶望だと言ったのはどこの嘘つきだろう。その二つに関連はない。絶望は希望の有無に関係なく、毒が体に回るように僕を侵食し、それが脳の頂点まで至った。何か困ったことがあった訳じゃない。希望が摘まれた訳でもない。僕の蓋が開いてしまった。

 次の階に差し掛かる。じっとりと足を進める。もう半分は超えた。屋上のドアが開いていなかったらその手前にすればいい。僕は普通の人間だ。ただ少し守るものと守ってくれる者が少ないだけの、普通の。大人が、子供も、そうであるように、僕はたくさんの大小の、やってはいけないことを繰り返して来た。それは明るみにならなければ罪にならない。だけど、僕の中には溜まる。普通の大人や子供はそこに蓋をする。だから僕は普通だ。そんな蓋の下にあるどろどろした箱の中身なんて見ない。見ないのが普通、生活を苦しまずに生きる、大前提だ。

「でも開いた」

 自嘲しようとしたのに頬が緩まない。君はきっかけでも何でもない。きっと悲しむけどすぐに忘れる。他の誰だってすぐに忘れる。僕は知っている。また上の階に到達した。僕は僕の理由でここにいる、昇っている。この階段が永遠に続くことがないように、僕たちがずっと続くことはない。だから君に悪いとも思わない。僕の蓋は開いてしまった。

 小学生のときに友達のお母さんのパンツを、箪笥に覗きに行った。放課後に女子の体操着の匂いを嗅いだ。友達のプラモデルを壊した。気弱なクラスメイトの背中をどついた。嫌いな奴に、仲良くしようと嘘をついた。秘密を漏らした。大便も漏らした。意図的に宿題をしなかった。いじめを看過した。その子は学校に来なくなった。夢があるフリをした。エッチな漫画を読んだ。蜘蛛の足を一本ずつ抜いて殺した。間違った情報を流した。差別されたのに戦えなかった。中学生でも似たようなことが幾つもある。オナニーでの空想が強く加わる。寝坊、遅刻。高校生、大学生、そして今。つまらないと陰でため息をつきながら「仕事頑張ります」と職場で言っている。恋していないのに君と付き合っている。親の連絡を無視する。蓋の、蓋の下にそれらから生まれたものが溜まる、それは呵責。呵責が溜まる。

 嘘の顔で仕事をしていることは、毎日大量の呵責を生む。恋していない相手と休日を過ごすことも。僕は嘘ばかりついている。その上でミスをしたり、叱責されたり、でもそれ自体は大きな問題じゃない、誰にでもあることだ。違うのはそれが僕の嘘の顔の上にあること、全部が呵責に加算される。

 でも普通の僕は、その全てに蓋をして隠していた。どこまでもパンパンの箱。

 疲労とか空腹とか、寝不足とかで少し蓋が開くことはあった。微量に溢れた呵責に僕の胸はドボっと落ちる。連鎖的に続く自己嫌悪で、心の自由がなくなる。でも微量だから、蓋を閉めれば治った。

 一昨日、蓋が開いた理由が分からない。内圧が強まり過ぎたのかも知れない。ただ、開いた。それは蓋が消えたと言った方が正しくて、洪水のように呵責が漏れ出て来て、僕は溺れた。この蓋を戻す方法が分からない、僕はこの中で生きていかなくてはならない。その事実は僕を絶望させ、二日耐えて、今は非常階段を昇っている。ああ、昇り切った。

 ドアは開いていた。キィ、と通過したら、マンションの屋上に出た。さっきまでは見えなかった月が、真上に浮かんでいる。だけど、その月も冷たく笑っている。僕のことを止めるつもりがないどころか、嘲りながら楽しんでいる。僕を苛むものは全て僕に由来する。だから僕は逃げることが出来ない。呵責の洪水の中で喘ぎながらここまで昇って来た、胸の中がうろになったみたいで、なのにその中に重さだけをじっとりと感じる。脂汗、感情を何も感じないのに、涙が、顔と言う壁から滲み出す液体のように流れる。

「もうどうしようもない」

 呵責から逃げられない、僕を飲み込んでゆく。いや、もうとっくに呑まれ切って沈んでいる。沈んだ底で這い回って、脱出する方法ばかりを探した。何も食べず、ろくに眠らず、部屋に籠ってもがき続けた。そして辿り着いた、ただ一つの方法。蓋がないから苛まれる、なら、箱も蓋もない場所まで離れればいい。

 柵が見える。足を引き摺って近付いてゆく。僕はもう普通じゃない。胸の奥の陰圧、そればかりが僕を呼ぶ。柵が遠い。体がそこに行くことを拒否しているかのように、重い。それでも、一歩を積み重ねればいずれ手をかけることが出来た。

 月を見る、やはり冷ややかに、何も言ってはくれない。少しだけその光を浴びる、目線を下げ、正面に広がる闇に目を凝らす。そこには僕の呵責の被害者たちが浮かんでいた。何百人がぼうと浮かぶ先頭には君がいた。その目は月と同じ色をしていて冷たく、僕が重ねて来た呵責そのものの重さをしている。その横には会社の上司が同僚が、反対には両親がいる。その誰もが僕を見据える。それなのに何も言わない。何も言わないけど、僕の呵責が存在感を増す。視線を動かせば動かす分だけ、僕といくばくかの関係性を持った人々がいて、僕の呵責が肥大する。気が付けば僕は囲まれていた。誰も何も言わない。ただ月の眼で僕を見て、僕の呵責は育ってゆく。胸の中で溢れ返るそれは、もうとっくに僕を溺れさせるのに十分だったのに、入り切らない分だけ密度を増して、僕を潰そうとする。

 僕は首を振る。

「もうどうしようもない」

 視線の中、僕は柵を越えて、宙に出た。

 落ちゆく間も、僕は呵責の圧力だけを感じた。


(了)

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