「自殺」

 「死にたい」というコトバの先にある行為は、おおよそ自殺と統括できよう。 

 自殺と一口に言っても様々なものがある。我々が一般に形象する自殺といえば苦悩懊悩オウノウがゆえに自ら命を絶つ場合であるが、そのほか武士や軍人にみられたような引責を意味する自害や切腹、ソクラテスの最期*1にみられるような信念や徳に基づいた自殺などもある。したがって、自殺を一様な背景の下、その善悪を論考するには話が早かろう。而して《シカシテ》、軍人の自害においては、表面上にみて天皇陛下に詫びるという意味合いを込めていたとしても、実相は、軍部からの強圧により自害以外の術はなかったということも考えられる。さらに言えば、苦悩懊悩で死ぬるにせよ、背景にたたずむ原因は非常に様々であることは言うまでもなく、これによる自殺一般とひとくくりにすることさえ性急である。

 尤も《モットモ》、自殺というものを目前にしたとき、その乱雑なる多様性と多面性に慄いて《オノノ》は一切の思弁を欠くことは、ちょうど草木が水を失して枯れぬことと同じく寂寥セキリョウなるものである。哲学の原意として思考せぬままに思考の価値の無いものを断定することなどあり得ぬのである。

 私が思うに、蓋し《ケダシ》人は死ぬるという事実、蓋し自殺は生あるものにしか為せぬという事実は自殺にかかわる普遍である。このことを軸にすることにより、自殺はさらに明晰となるのではないかと愚考する。

 人は蓋し死ぬるといったが、死ぬるということはいかなることかというと、それは彼我ヒガの消滅である。したがって、我々は死ぬるとそれまでであって、有限であり、人間だれしも死ぬるということについては未知であるがために、あるいは神秘であるがために、対比する生に対しての尊厳を想うのではないかと愚考する。おそらく、あらゆる宗教において生命を不可思議なものとみなしたり、素晴らしきものとみなしたりするのは、身の回りにある死んだような事物と我々が確実に異なるものであると認知したからではなかろうか。あるいは神道においては、事物さえ神と奉るものの、蓋し人は死ぬるという事実とその恐ろしさのもと、生はケであり、死はケガレ、すなわち死ぬるということに対して、生は望ましい状態と考えられたからではなかろうか。とかく、死ぬるということを抜きにして、人は生に対する尊厳も執着も持てるはずはないということである。また、その尊厳は宗教の力やあらゆる時代の思想家の力を借り、社会的な崇拝や常識になったのである。そうして、現代に至るまでに、自殺に対するタブーが芽生えたと愚考する。

 では、汝自身が死を恐れることを失したとき、汝にとって生への崇拝は無価値である。而して、これから死ぬる人間からすれば、社会の常識さえ永遠に無縁になるのであるから、生への集団的崇拝も無価値はなはだしいということは易く理解いただけると思う。

 自殺を想う心は、「生きたい」という叫びというが、この叫びが枯れぬとき生への崇拝も亦尽きるのである。そうして、顛末としての忽然的反応が自殺なのである。

 これを他者が止められようか?何故そんなことをすべきであろうか。彼自身が一人で死ぬることで、よほど公共福祉に反するようなことはあるのであろうか。身内は悲しいかもしれぬが、後悔するかもしれぬが、なんとこのことのバカバカしさとはうっとおしい。生きているうちに彼の懊悩に気づいてやれなかったことを後悔はしたって、つまるところそれに気づけないほど生前は彼に無関心であったのだ。ムシがよすぎるのだ。

 あるいは彼自身がこれを打ち明かすことを極端に嫌っていた場合なら、あまりにも突然のことであり後悔を感ずることも理解できぬこともないが、彼にとってその懊悩を周りに打ち明けることは、彼自身が行った自殺よりも苦しく、自尊心に反することだったのである。彼が正しかれと思ってやった、そのうえ、公共福祉に反せぬ行動を、何故に身内という他人が後悔してやらねばならんのか。理解に苦しむ。非常に苦しむ。

 すでに無常の風きたりぬ。心の奥で封じ込まれた生きたいという叫びを罪悪としたもうな。可憐な花と奉れよ。我々の常識や崇拝がこの類の人々にまで通ずると酔いしれてしまってはならない。自殺した人間を非難する者の多くは十字軍そのもの、ファシスト、そのものである。太宰治先生の書に女生徒という小説があって、こういう節がある「あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんもうそのないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。」この節は、若者の苦悩を描いているところも大きいが、自殺についても同じようにいえるのである。腹痛に素直であったものが後悔される世の中とはなにものぞや。懊悩さきわう可憐な花を、ただ、痛みに実直であるか弱き花を、踏みつぶしたまうな。

 しかしなお、こう述べたとして、自殺は不幸であるとか、自殺を防ぐべき手段をとるべきであるとか、そういう主張はあり得る。それは上述でも述べたように、死ぬるという事実が我々には大きすぎるからである。すべてを終わらす自殺という死は究極的な選択であり、死ぬるという事実を恐怖とか不幸ととらえれば、必然的に自殺は不幸であると言い逃れできまい。しかしながら、その論調においては、蓋し人は死ぬるのであるから、人間すべてが不幸極まりないということになる。而して、死という事実を目前として、一切の恐怖を感じずに鎮座できる自殺者はよほど幸福と言えるのではないか?という反駁もできるのである。死の淵に立ち、死にたくないと狼狽する人よりも、はるかに死を受け入れられるのだから自殺者は幸せなのではないか?それが不幸であるのか?

 もっとこれを詳しく述べると、生きるという状態は、行動の連続であり、判断の連続である。覚めて洗面台に向かい歯磨きをするという行動、歯磨きを終えて大学をさぼるのを決意し二度寝するという行動。二度寝から覚めて半日近くぼーっとするという行動、総ては行動の連続であり、その行動を促すのは我々の判断である。すべての行動、すなわち生の中にある全称命題としての行動は、すべからく我々の判断により支配されているのである。しかしながら、一つだけ(実はいくつかあるのだけれどもその中でも特に偉大なものとして)我々の判断が到底支配できぬことがある。それが死である。末期がん患者の死期を決定するのは患者の判断ではなく、医者の判断でもなく、ガンの進行具合という事実である。交通事故において、死ぬのか生きるのかを最終決定するのは、けが人の判断ではなく医者の判断でもなく、傷の深さとか人体の損傷具合である。とかく、死は我々の判断に拠らず、事実にもたらされること、否応なく与えられることがほとんどである。これに対して自殺という死に方は、みずからの判断により積極的に死ぬるのである。きわめて例外的な死に方ではあるものの、判断と行動によりもたらされる顛末という点において、きわめて生の原理に忠実な死に方であるといえるのではないか。

 さて、これのなにが不幸であろうか、よく自殺者のことを、もう少し生きていればよいこともあったのに、なんていって、遠回しに未熟者だったと揶揄したがるが、実は自殺者は常人にはなしえない偉大な死に方をしたのである。これを未熟、若さ、そんな言葉で形容したもうな。


 世界的な世論では、自殺の多い国は不幸な国と言われる。皮肉にも工業大国、実直にして緘黙な人民を湛える我が国は、過労死などの問題により不幸な国と言われることがある。しかし、忘れるな、いくら世界が豊かになろうと、自殺は無くならない。いくら物質に満たされようと、心理的余裕に満たされようとも、自ら懊悩の種を生み出すのが人間の姿なのだ、そうして、優れた人間ほど、苦しまなければならないのだ。自殺者をなくそうたって、はなっから無理がある。

 だから、「死にたい」という君は哲学者になるべきなのだ。「自分の頭で考えやがれ」、ああそうだ、どうせなら、もう少し苦しんで死ぬべきだろう。哲学者として、偉大なる優秀な人間として、自らが生み出した懊悩に苦しんで死ぬべきだ。その中で生まれる思想が革命を起こす、新たな文化を創る。そうして、きっと後世の誰かを救うことになる。またそうして、その誰かさえ、君が創った思想、文化に満足できず、新たな苦しみを見出すのだろう。心配なさるな、その誰かもきっと、新たな文化、思想を生むのだから、これが文化の進歩というやつだ。だからこそ、「死にたい」を「苦しみたい」に変えよう。

 どうせ、不幸な自分が好きなんだろうから。




1,(冤罪をかけられ、一度はプラトンに脱獄を持ち掛けられるものの、「悪法であれ法なり」と言いこれを断る。最終的には死刑確定後に自ら毒杯を嚥下する。)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「死にたい」について 東 哲信 @haradatoshiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ