「死にたい」について

東 哲信

「死にたい」について

 我が21年の人生において、私は二人の女と交際したことがある。一人は私が望んだ相手であったが、手をつないだくらいのところで別れた。無理もない、相手は私のことなど好きではなく、別れ文句も「あなたと付き合ったのはある種の社会貢献のつもりで-」などと来るのだから、まぁ、振られても相手を恨むわけにはいくまい。

 実をいえば、二人目の女は好いた惚れたの相手ではなかった。しかし、いざ相手から好意を伝えられると、まるで以前から好いていたように錯覚するのは純朴者、まぁ悪く言えば童貞の悪いところだろう。吹っ掛けられた好意に配慮なく飛びついた私が、彼女のことを二月もせずに振ってしまったことには、未だに多少の罪悪感がある。

 さて、その女はたしか名を美鈴といって、よく「死にたい」発言する女であった。

「石川君、わたし、もう死にたい」

「はぁ、そうかね、ただ、君には死んでほしくはない」

「なぜ、」

「なぜというに、君が死んだら悲しいからである」

「そんなこと、言っても-」

 という具合に、私は彼女が死にたいと言い始めることに、ある種の面倒くささが感ぜられていたのである。ただ、思い返せばよろしくないネ。「死にたい」といわれて、「死ぬな」という構文は、相手に対する否定である。そうして、その否定には「君が死んだら悲しから」などと、あまりにもクラウディーな理由しかないのである。「そんなこと、言っても-」と彼女がイライラするのは当然であろう。

 ここに、一つ宣言いたそうか、死にたいという人に、死ぬなというのはダメです。いとで落胆の底にある人間が、前向きに検討している行動を否定して何になる。相手の立場に立って具体的な否定の根拠を示せるならまだしも、自分が悲しいから相手に死なれたくないというエゴな考え方を根拠に据えて否定をするのは、二者の関係どころか、相手のこころにまで歪みを生みだすだけなのである。むろんのこと、上のようなことが「私は誰かに大切にされているんだ」などという、都合の良い解釈につながる相手なら、ある種の薬として効くのかもしれぬ。ただ、本当に自殺しかねない人間が、そんなことを気づけるのか、甚だ疑問である。

 では、これをどうしようか、「それはつらかったね」と同情いたそうか。それをいいたもうなかれ。

 「石川君、わたし、死ぬ」

 「それは、つらかったね、何があったの」

 しばらくの沈黙ののち、聞きたくもないバカな話を聞かされるだけだ、やめておけ。第一、同情の先に、根本的解決があるのだろうか。一時的な同情、計画性のない同情は、何かつらいことがあれば「死にたい」と言えばよい、さすれば、他者は自分を受任してくれるという、甘えた、固執した、救いようもない他力本願な人格を形成してしまうだけのように考えられる。


 「じゃあ、俺になにができるんだよ、ええ加減に甘ったれずに前向けや、このクソアマ」


 彼女に対する別れ文句はこうだった。五年もたって、このコトバが自身の胸の中に響いて私を苦しませるのは、単に、後悔のみではない。いな、その主体は後悔であるが、いくつもの死にたいという人を前にしたとき、再びこのコトバが出そうになる自分の恐ろしさが、なおのこと傷つけてしまった女の面影を照らしつけるのだろう。そのたびに私は、自分のことを人非人のように感じるのである。


 しかしですぞ諸氏、あなたたちも同じではありませんかな、少なくとも私の駄文において、諸氏は同じく、「結局は、なにが言いたいのだ」と思ったのではないか。

 ならば、はっきりと答えを述べておこう。「死にたい」という発言、あるいは心情に対する根本的解決、How to諭などというものは、存在しえないなのである。

 多くの人間にとって、死、これは総ての苦しみから解放される唯一の手段である。当然であろう。死ねばなくなる。ああ無常、これが人間の実相であるのならば、死はすべての苦しみから解放される唯一の手段といえる。しかし、忘れるでない、多くの人間にとって、死もまた苦しみの一つなのである。ヘーゲルでもマルクスでもいいからこの矛盾を片付けてみやがれというハナシである。やはり、根本的解決などというものは望めないと考えた方が良い。

 それどころであるまい、死の苦しみは、なにも死ぬという行為に限定されるものではない、生病老死というコトバがあるが、これらは独立した苦しみの如実で非ず、一つ一つが人生という過程においてつながりのある苦しみなのである。そうして、私の考えるに、死というものはこの中でも最も根源的な苦しみなのである。なぜというに、死は、人生に有限性を与えるのである。この有限性から生じる苦しみは、いくつもある。さいたる例として、---が出来ない、という例だろう。「自分らしく生きることが出来ない」、「うまく生きることが出来ない」、というような苦しみは有限性を根源にするのである。もし、人生が無限であるのならば、これらの苦しみに対してさえ、「いつかできるようになるさ」、と笑い飛ばせばよいだけなのである。

 若い同志が、「もう、俺は、死ぬまで自分らしく生きることができないのだ、」という絶望感を時々感じるのも、やはり、この有限性が故であり、もはや、ここまで堕ちきってしまった人間ほど悲しいものはない。   

 とかく、死というものは、実に多くの苦しみの根源でありながら、これに対する最も確実な逃避法でもあるのだ。そうして、「死にたい」と口走るひとは、自身がその渦中にあることを、一入真剣に思い悩んでいるのである。これに対する根本的解決、笑わせるな、そんなものがあれば、人間は苦しんだりするわけがない。「死にたい」という一言には、ある種、人間の実相があるのだ。だから、根本的解決を見つけたなどと大口を、死にたいという人に、ああせよ、ここせよ、と口走る人には注意が必要である。そんな自信家、迷信家はほおっておけ。心理学もそうである。たしかに、心理学は認知のゆがみを直すという点において、同情や、根拠の無い否定に比べて、いくらも根本的、実践的で利口な面構えにみられるが、モノの見方を改めているだけで、こちらも実相というか、根本的解決にはありつけていないのである。だからこそ、根本的解決など無い、正解などない、と私ははっきりと述べておこう。

 ところで私は、「死にたい」と口走るひとに、以下のように述べている。


 「そうか、君は、哲学者になるべきだ」


 さぁ、どうしたいかは自分で考えやがれ、という腹の中を多少は利口っぽく言ってみせるのである。


 

  

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