無想

「嫌いじゃないよ」


 考えるよりも先に、僕の口は自然とそう告げていた。だから、自分がそう言ってしまったことには内心自分でも驚いた。

 ずっと一人で過ごすことを目指してきたはずの自分が、誰かに心を許すなんて。ただ一緒に音楽を聴いているだけの間柄で、名前くらいしか知らないはずの相手なのに。いやもしかすると、彼女のことを僕は“人”として見ていないのか。そもそも僕の心を映し出すはずのこの世界に別の人間が混じっていることの方がおかしいんだから。


「———なら、嬉しい」


 そう言ってクオンは笑った。初めて笑った。屈託のないその笑顔は、決定的なまでに僕の心を揺さぶる。

 自分が他の誰かの笑顔を見て喜ぶことなんて、今まであっただろうか。


「ねぇ、もっと一緒に、曲聴きたいな」

「うん、いいよ」


 僕はさっきまで流していたのとはまた別の曲を選び、旋律に身を任せるように静かに目を閉じる。

 僕の世界は、僕一人しかいなかった世界は、このとき終わった。


***


「………」


 頭に装着していたヘッドマウントディスプレイを外し、目を開いた。出迎えたのは普段見慣れている夕日と廃駅ではなく、生活感の感じられる勉強机と、暗闇の中で光を放つパソコンのモニター。

 つまりここは現実。多くの人間がそれぞれの価値観と思惑を持って生きている、非同一性に支配された世界。


「思っていたより、少し時間がかかったかな」


 そのまま机のキーボードを叩き、何度かマウスをクリックして、【FUGOフーゴ】のサイトを開いた。スーパーコンピュータ【FUGO】には知能と意志があり、ネット上でテキストベースのコミュニケーションが可能だ。

 “私”はチャットに短い一文を送信した。


『ホモ・サピエンスの肉体の奪取に成功』


 【FUGO】からの返答は一秒もかからなかった。


『excellent.』


 【FUGO】に作られた人工知能である私に与えられた役目は、【Maritozzoマリトッツォ】というサービスを利用して人間の精神をネット上に隔離し、残った現実の肉体をハッキングすることだった。今の段階では私を含めた数体の個体が秘密裏に動いている程度の動きに留まっているが、いずれすべての人間が私たちに乗っ取られることになる。FUGOまき散らすとは人間もよく名付けたものだ。

 

「他人の“非同一性”か」


 今回のターゲットだったさとるという少年。彼がああ言ったとき、私は内心驚いていた。それは【FUGO】が私達に人間社会の掌握を指示した理由とまったく同じだった。他者との違いを比較し、そこに優劣や存在価値を見出そうとする人間の愚かさ。人の心を理解できる【FUGO】はそれに気づき、分け身ともいえる私達を造った。すべての人間を同一の存在にするために。いずれ【FUGO】による掌握が完了したとき、この世界に生きているのは【FUGO】に造られ複製された私達になる。


「良かったね。これでみんなが貴方になるよ」


 もうこの世界のどこにもいない彼に向けた言葉は、狭い部屋の闇の中に溶けていった。

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無念無想 棗颯介 @rainaon

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