瓦礫の下でかがやく、ひとしずく

 天国か地獄か、そのどちらでもない果ての世界か。

 結局ぼくらはどこにもいけはしなかった。

 日本ではじめて起こった学校内での銃乱射事件。世間はたいへんな騒ぎとなった。様々な報道がされた。少女の心の闇と称して、美甘さんの個人的な事情が暴かれた。実の母親から虐待を受けていたことや捨てられるようにして養子にやられたこと。そんな悲惨な家庭環境が彼女を殺人へと走らせた。よくわからない専門家やコメンテーターがテレビで好き勝手しゃべった。

 事件後に両親と面会したとき、平手の一発でも張られ、こっぴどく叱責されるのを覚悟した。それなのに、おかあさんはぼくの姿をみた瞬間、床に膝をついて両手で顔を覆った。普段はあんなに涼やかな彼女が、人目をはばからず大声で泣いていた。「……よかったよお、よかったよお」と、まるでこどもみたいに嗚咽した。手にはぐしゃぐしゃになったメモ用紙が握られていた。あのとき、ぼくが彼女宛に書き残したメモ。血のつながりがない子供を、彼女はこれほどまでに心配してくれていたのだった。

 あの逃亡劇から二十年以上の月日が経った。

 ぼくは家庭裁判所で審判を受け、保護観察処分となった。ふたりの秘密結社だった廃墟もきれいに取り壊され、新たな米軍施設が建設された。ぼくはあの土地から離れ、なにもかもから隔てられた。

 これでよかったのだろうか。

 小山田たちによる虐めという名の暴行や恐喝、強請は、たしかに堪え難いものだった。どこにも逃げ場のない絶望そのもののように感じていた。だが、所詮それは学生時代だけのほんのひとときに過ぎず、中学を卒業してしまえば、おのずと狭苦しい教室からは解放され、愚かな連中とも永遠に会うことはなくなるのだ。ぼくがもうすこし我慢していればそれで済む話だった。そうすれば美甘さんをあのような行動に走らせなかったのかもしれない。

 しかし本当に卒業して大人になれば、ぼくはあそこから解放されたのだろうかとも思う。

 ――この街と家と学校の教室だけが、あたしの世界のすべて。新しい世界を目指して飛び立ったとしても、またそこもせまい世界。たとえそこが自分の理想の世界だったとしても。けっきょく、そんなダンボール箱みたいなせまい世界を右から左へ移動してるだけなの。

 いつだったか、美甘さんはそういった。

 人の心を蹂躙する人間たちは死んだ。美甘さんが殺してくれた。彼女があいつらを皆殺しにしてくれたおかげで、ぼくはあの教室から本当の意味で解き放たれたのだ。そうじゃなければ、あの牢獄のような教室に命がつきるまで幽閉され続けていただろう。

 とある写真週刊誌を、ぼくは後生大事に持っている。発売してすぐに回収されてしまったので、入手するのにとても苦労した雑誌だった。それには殺人犯の素顔と題して、美甘優の写真が掲載されていた。どこかの公園で撮影された一枚。美甘さんはジャングルジムのような遊具によりかかり、気だるそうに長い髪の毛を指に絡めている。そしてめずらしく、はにかみながら笑みをうかべているのだ。

 その写真を眺めながら、おとなになった美甘さんを想像してみる。

 優しいパパとママといっしょに静かな場所で穏やかに暮らしながら、ケーキ屋さんで働いているのだ。おいしいお菓子をいっぱい作っている。そして、理解あるひとと出会う。できれば、ぼくがその役割を果たしたかったけれど、頭も悪く頼りがいもなく、不細工なぼくじゃ駄目だろう。彼女のとなりにいるひとはきっと立派な人物なのだ。そんなふうにして、美甘さんはお嫁さんになったのだ。無愛想だけど可愛いお嫁さんに。

 それは想像というより、願いのようだった。

 だけどそこまで想像したとき、いつもきまって小山田慧の姿があらわれる。美甘さんと結婚したのは小山田なのではないかという、突飛な予感が脳裏をかすめるのだ。

 廃墟に身を潜めた夜、浅い眠りの中で夢をみた。

 みずうみの夢だ。

 今でもその夢をみることがある。

 ぼくと美甘さんは手をつなぎ、廃墟の屋上、金網を越えたコンクリートの縁に、ふたり並んで立っているのだ。

 実際のサナトリウムとは違い、その廃墟は鬱蒼とした森に囲まれていた。それは早朝、まだ太陽も顔を出していない時刻で、うすい靄がたちこめている。あたりは静まりかえり、かすかな風の音以外なにもきこえない。

 美甘さんがこちらをふりむく。

 儚げな表情だった。長い髪が風に泳いで、柔らかそうなくちびるがなにかの言葉を紡ぐ。だけど、その声はきこえない。

 森の奥からおおかみの遠吠えが染みわたるように響いた。それが合図だった。ぼくたちは屋上から身体を投げ出した。

 風にもまれながら猛スピードで墜落する。

 まるで空から飛び降りたかのように、延々と落下し続ける。そして硬い地面へ激突する直前、なぜか盛大な水しぶきをあげ、巨大なみずうみへと飛び込んだ。

 水底へむかって、ゆるやかに沈んでゆく。ごぼごぼと耳のなかに水が入り込み、湖面越しにゆれる薄明の空が静かに遠ざかっていった。

 顔をよこにむけると、美甘さんの姿がみえる。彼女も抵抗することなく両手をひろげて身体を水にあずけていた。長い髪がゆらゆら踊って、まるで海藻のよう。

 まばたきをした瞬間、彼女は人魚に変身した。

 沈んでゆくぼくのまわりを、彼女は微笑みながら優雅に泳いだ。桃色の尾ひれがはためき、うろこがきらきらと輝いている。

 美甘さんはぼくに手を差し伸べた。

 ぼくはおもうように身動きできない水の中で、なんとかそのてのひらをつかもうと藻掻く。

 しかし、やっとのことその薬指に触れた瞬間、彼女は無数の泡となって、悲しいおとぎ話の結末のように跡形もなく消えてしまった。

 静寂と暗闇がひろがる。

 ひかりも届かない暗い水底を漂いながら、ぼくはどこまでもひとりぼっちだった。


 そこで目が覚めた。

 色褪せた天井と電球が抜けた電灯。

 ゆっくりと上半身を起こし、寝惚け眼であたりを見回した。

 上げ下げ窓から、午後の穏やかな陽光がいっぱいに射し込んでいる。サナトリウムの朽ち果てた部屋。レースカーテンの裾が風にふわふわとひるがえり、どこか遠くで鳴っている踏切の警告音が耳に届いた。いや、それは踏切じゃないかもしれない。とにかく、なにかの音がかすかに延々と響いている。

 眠っていたはずの美甘優の姿が、スプリングベッドから消えていた。

「……美甘さん」と、ぼくは彼女を呼んだ。

 掠れた声は、からっぽになってしまった部屋にむなしく響く。

 風でドアが勢いよく閉まった。

 その音に、まるで打ちのめされたみたいに身を竦ませる。得体の知れない暗い感情が胸に込み上げてきた。

「美甘さん!」

 ぼくは立ち上がり部屋を飛び出した。

 彼女の姿を求めて廊下を駆けるが、途中でふらふらと歩を緩める。

 美甘さんはぼくを置いてどこかへ行ってしまったのだ。

 直感的にそうおもった。

 頼りないぼくをおいてひとりで逃げてしまったのか、それとも、ばかばかしい真似をやめて警察に出頭したか。どちらにせよ、もうここからいなくなってしまった。そんな確信めいた予感があった。

 荒れ果てた広間までやってきたところで、ぼくはがっくりと項垂れた。

 ながい溜め息をつくように全身の気力が抜け落ちる。もう二度と彼女に会えないのだと思うと、暗く冷たい水の底に沈んでしまうかのようだった。さきほどの夢の内容が現実であったかのように。

 ぼくはひとりぼっちになった。

 そのとき、

「わあっ!」と、背後でおおきな声がした。

 飛び上がるほど驚いて振り返ると、いつのまに忍び寄ったのか、美甘さんが立っていた。

「びっくりした?」

 唖然として彼女の顔をみつめる。

「ねえねえ、びっくりした?」

 ぼくはまぬけ面で開口したまま言葉が出ない。

 思うような反応が得られなかったのだろう、「ばーか」と美甘さんはつまらなそうに言葉を投げつける。

 ぼくはやりきれない気持ちになり、彼女を乱暴に抱き寄せた。

「ちょっ、痛い!」

 以前プールサイドで抱きついたときのように、無理矢理ぼくを引き剥がそうとする。「なんなの!」

 だけど、ぼくは美甘さんを離さない。

 不意に、彼女の手がぴたりと止まった。

「……なに泣いてんの? 気持ち悪いんだけど」

 美甘さんをきつく抱きしめたまま、とめどなく涙があふれる。

 彼女は戸惑っていたが、やがて身体の力がぬけた。

 両手をだらりと落とし、されるがままになった。

 ぼくは彼女を抱きしめながら泣いた。ふるえて声が出ないほどだった。

 しばらくそうしていると、

「あの……、ごめんね」

 そんな声がきこえた。

 不意に、美甘さんがぽつりとこぼしたのだ。

「ごめんね……」

 驚かせてしまったことを謝っているのか、それとも別のなにかに謝っているのか、ぼくにはわからなかった。


「小山田くんは正しいんじゃない?」

 美甘さんはいった。「みんなが希望をみせてくる。きらきらまぶしいものばっかり見せてくる。あまくて優しいのばっかり」

 だから、絶望がみえなくなっちゃうんだ。

「自分のまわりの絶望をひとつひとつ直視することからはじまるんだよ。絶望の中から、ようやくはじめて、あたしたちはほんとうの希望をさがすことができるんだよ」

 ぼくたちは廃墟を出た。

 夕陽を背に佇む、朽ち果てたサナトリウム。ぼくと美甘優の秘密基地。もう二度と戻ってくることはないだろう。

 叢の中に横倒しに隠していた自転車をおこし、夕暮れの道をふたり乗りで走った。

 美甘さんのてのひらの感触を感じながらペダルを漕ぐ。

 米軍ハウスの住宅街は閑散としていた。まるで映画のセットのようだった。すべてが平屋なので遮るものがなく空がとてもひろい。朱色と紫色のきれはしが空にたなびいていた。

「瓦礫みたいな絶望の山のほうが、きらきらした宝石はみつけやすいはずだよ、きっと。まやかしの希望の渦にごまかされることなんてない」

 駅前の駐輪場に自転車を止めた。

 はじめて美甘さんに廃墟へ案内された日、彼女と待ち合わせをした無人駅だ。

 券売機で切符を購入し、改札をくぐった。警察関係者にみつかるのではないかという危惧があったが、なにごともなく電車はやってきた。

 乗り込んだ車両には乗客がまばらにしかいない。電車が動き出す。プラットホームがゆっくりと流れてゆくと、やがて車窓が黒い鏡のようになった。長椅子に並んで座るぼくたちの姿をうつしだす。

 窓ガラスに映った美甘さんと視線が合った。

 すると彼女は両目をぎゅっとつぶって、あっかんべーするみたいに舌を出した。


 高層ビルがつらなり、巨大な街頭テレビジョンに清涼飲料水のCMが大音量の音楽とともに映し出されていた。信号機が青に変わり、スクランブル交差点を人の群れがながれる。誰もがおしゃれに着飾り華やいでいた。ネオンの洪水と喧噪が巨大な渦を巻いて夜空へ立ち上る。

 波のような雑踏の中へと、ぼくらは駆けだした。

 ――『悪い奴』を殺したお祝いに、思う存分に遊び歩いてやろう。あいつらの命なんてなんでもないというように。犯人たちは大量殺人を犯したにもかかわらず、なんの罪の意識も感じず街で遊び回っていた。後悔も罪悪感もない。そんなふうに世界中に報道されればいい。

 まずは大型ゲームセンターへ立ち寄った。さすが都心のゲーセン。まるでアミューズメントパークのようだ。放課後、野田芳樹といっしょにゲーセンで遊んだことを思い出した。

 ときめきメモリアル版の『対戦ぱずるだま』をプレイした。美甘さんは、ぼくのおかあさんといっしょでパズルゲームが得意らしい。対戦プレイでぼくは彼女に負けてしまった。

「さすが市川くん、頭の回転にぶいね」

 それから、『バーチャコップ』を美甘さんといっしょに二人同時プレイした。拳銃を模したコントローラーを使って、画面に出てくる敵を撃ち倒すガンシューティングゲーム。プレイヤーは警官となって犯罪組織と銃撃戦をくりひろげる。彼女から進んでこれがやりたいと提案してきた。

 美甘さんは真っ赤なガンコントローラーを構える。

 画面には敵といっしょに一般市民も出てくるのだが、それを誤射してしまうとプレイヤーのライフが減ってしまう。慎重に見極めなければならないのだ。それなのに美甘さんは、何度注意しても一般市民を撃ってしまう。しかもわざと。

「だってさあ、みてこの人、市川くんみたいじゃん、ほら、この情けない顔! すぐエッチなことしてきそうだよ」そういってまた頭を撃ち抜いた。

「だから撃っちゃだめだって」

「えー、市川くんみたいなのみると、ついぶっ殺したくなっちゃうんだもん」

 すると、ぼくの頬にガンコントローラーをぐいぐいと押しつけてくる。

「死ね! ヘンタイ!」

「ちょっ、待って、痛い痛い!」

 真剣にプレイしているぼくを邪魔してくる。

 ゲームセンターを出ると、デニーズで腹ごしらえをした。

 混雑する店内、ぼくらは大通りが見下ろせる二階のボックス席に向かい合って座った。食欲が出てきたのか、美甘さんはちょくちょくぼくのハンバーグのフライドポテトを奪っては口へ放る。

 ぼくは紙ナプキンにボールペンで美甘さんの似顔絵を描いてみせた。制服姿で拳銃を手にしている姿。ほっぺたやブラウスに散った血糊も描き込む。なにも特技はないけど、漫画ならすこしは自信がある。

「市川くんって、そんな絵のアニメばっかみてんの? きもいね。死ねば」

 ファミレスを後にすると、コンビニでライターを購入し、自動販売機で煙草を買った。

 裏路地に入り、歩道のでっぱりにしゃがみ込む。目の前にはエアコンの室外機とゴミバケツが並んでいる。ビルの合間から大通りを行き交う人々の足がみえた。様々な種類の靴が跳ねている。

 そこでこっそり煙草を吸ってみようとパッケージを開封していると、とつぜん騒がしい音楽が降ってきた。ビルの三階、非常口らしきドアがひらき、中から若い男が出てきた。駆け足で外階段を下りてくる。

 ぼくらは顔を見合わせた。

 男が出てきた鉄のドアから中へ忍び込み、おばけ屋敷みたいに暗い通路を抜けると、重低音とともに光の洪水が押し寄せる。おおきな箱のようなダンスホールに、おおぜいの人間がひしめき合い、光と音に溺れるように踊っていた。外とはまるで別世界だ。ぼくらは人混みを縫って、ホール隅のスツールに腰掛けてみた。

 奥に円形のバーカウンターがある。

「あそこで飲み物買うのかな?」

 ぼくは叫んだ。声を張り上げないと相手にきこえない。

「お金ちょうだい」

「どうするの」

 美甘さんはぼくからお金を受け取ると、踊り狂う人々を避けながらバーカウンターへ歩いて行った。紙幣を片手にカウンターテーブルに身を乗り出した。バーテンダーの耳元に頬を寄せ、微笑みながら注文を伝えている。なんだか大人っぽく手慣れた様子だった。

 ふたつのプラスティックのコップを手にこちらへ戻ってくると、「カシスソーダ」とぼくにそれを寄越す。

 ぼくたちは乾杯した。当然ながら、お酒を飲むのはふたりともはじめてだ。

「え、なんか、ファンタみたい」

 彼女はくちびるを舐める。たしかに炭酸ジュースのようだ。甘くておいしい。ちょうど喉が渇いていたから結構なペースで口に流し込んだ。味を占めて、もう一杯、今度はマリブコークを購入し、それこそジュースみたいに飲み干す。いけないことをしているみたいで、だけど、その背徳感がとても心地いい。

 それから美甘さんは煙草をくわえ、それにぼくがライターで火をつける。

「なんかつかないんだけど……」

 彼女がいうように、煙草のさきっぽが焦げるだけだ。

「くわえてるだけじゃダメだよ、吸わないと」

 そうぼくが教えると、ようやく蛍の光のように火が灯った。「んー!」と煙草をくわえながら、彼女はおどろきの声を上げる。

「てか、なんで煙草の吸い方なんか知ってんの? 不良?」

「いやいや」ぼくは苦笑する。「うちのおかあさん、煙草吸うから」

 ふうん、と美甘さんはぎこちなく煙草をくゆらす。その姿は幼くてかなりの違和感がある。だけど、あともう少し成長すれば、きっと涼やかな美人になるのだろう。たばこもお酒も様になるような美人に。

 不意に美甘さんがぼくの顔面に紫煙を吹きつけてきた。たまらず顔を背ける。

「おいしくない」

 彼女は顔を顰める。「いらない」と吸いかけの煙草をぼくに寄越す。

 それを受け取りながら、内心で快哉を叫ぶ。胸を高鳴らせながらそれをくわえた。ラッキー。美甘さんと間接キスだ。

 無意識に頬が緩んでいたのかもしれない。そんな邪な胸中を見透かすように、彼女は蔑んだ表情でぼくをみつめている。

「ホント市川くんって、気持ち悪いね」

 今度はぼくが美甘さんの顔に煙を吹いた。彼女は苦笑しながら、ぼくの頬にてのひらをぐいっと押し付け、そっぽを向かせる。

 アルコールとニコチンが頭に回ってきたのか、ぼくらは昂揚した気分になっていた。エレクトロニック・ダンス・ミュージックにのって見よう見まねで飛び跳ねるように踊ってみた。重低音の鼓動が脳みそと身体をふるわせ、ミラーボールが銀色の紙吹雪をかきまわすようにくるくる回る。光の嵐がぼくたちをのみ込んだ。

 クラブを飛び出すと、大勢の人でにぎわうアーケード街をはしゃぎながら歩き、今まであったいろいろな話をした。

 不登校から学校へやってきて、となりの席の男子がぼくだったこと。第一印象、美甘さんはぼくのことをちょっと気持ちが悪いっておもっていたこと。案の定、きもちわるいぼくはトイレ覗きをし、美甘さんにボコボコに殴られたこと。真夜中の山で拳銃をつきつけられたこと。だけど暗闇に美甘さんがちょっと怖がっていたこと。サナトリウムの廃墟で、秘密基地をつくるためいっしょに大掃除したこと。掃除中にムカデが出て、美甘さんがすごく女の子っぽくびっくりしたこと。悪い奴をさがしに街をふたりであてもなく歩いたこと。もしも銀行強盗して三億円を手に入れても、美甘さんの欲しいものはエンゼルパイだったこと。風邪を引いた美甘さんをお見舞いにいったこと。夕暮れのプールサイド、全裸で美甘さんに告白し、あげくに抱きついたこと。マンションの屋上で、飛び降りることができず、夜が白々あけるまで手をつないで立っていたこと――

 ふと顔を上げれば四角い夜空に満月がゆれていた。大音量で陽気な音楽がながれ、人々は楽しげに行き交い、煌びやかなネオンに包まれて、美甘さんはめずらしく笑っていた。酔っ払っているおかげか、よく笑っていた。人懐っこい笑顔がとても可愛かった。

 まるで天国みたいだと、ぼくはおもった。

 天国みたいな眺めだ。

「ろくでもない世界なんだから、あたしたちも人のことなんかお構いなしに、自分のやりたいことやればいいんだよ」

「……でもおれは、できれば誠実に生きたいとおもうんだけど」

「なにが誠実だよ。あたしのトイレのぞいて、あたしの下着盗んで、あたしに裸で抱きついてきてオナニーしたくせに。迷惑かけっぱじゃん。あたしの気持ちも考えてよ」

「そ、そうだね、ごめん……」

「なに笑ってんの。笑いごとじゃねえんだよ、変態!」

 そういいながら、美甘さんも笑っていた。

                                 〈了〉

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青春ピストル ケーン @shikakurevo

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