さよなら、サナトリウム
「あと何日かここに隠れて、頃合いをみて抜け出そう。それで電車に乗って、どこかに行くんだ」
「どこかって?」
「どこか遠く、静かなとこ。森とみずうみがあるようなとこ」
「なんで森とみずうみなのよ?」と、彼女はちょっとだけ笑った。
「いや、ごめん、よくわかんないけど、なんとなく思い浮かんだんだ」
「ふうん……」
森とみずうみ。そしてまた、このサナトリウムのような廃墟をみつける。そこを秘密結社の第二基地にするのだ。
「落ち着いてきたら、おれ、働こうとおもう。新聞配達でも皿洗いでも」
「うん」
「それでお金を貯めて、アパートを借りるんだ」
「え、それ、あたしもいっしょってこと?」
「う、うん」
「なにそれ。それじゃなんか市川くんと駆け落ちするみたいじゃん」
「まあ、そういうことになるかもね……」
美甘さんが無表情にこちらをみつめる。ボロクソに一蹴されるかと思いきや、
「……じゃあ、あたしはなにして働こうかな」
意外にもちゃんとこたえてくれる。「なにができるかな」
「美甘さんはお菓子屋さんとかで働けばいいんだよ」
「お菓子屋さん?」
「うん」と、ぼくはうなずいた。「ずっとまえにもらったスコーン、すごくおいしかったから。あとマフィンも」
「は? バカじゃない。あんなの誰だってつくれるよ」
「でもおいしかったんだ。美甘さんのは」
また食べたいな、とぼくはいった。
すると美甘さんは驚いたような表情で、ぼくの顔をまじまじとみつめる。
そうするうち、おおきな瞳が潤みだした。それでもまばたきもせずこちらに視線を向けていたが、次第にほっぺたとくちびるがふるえはじめ、みるみる泣き顔になる。なにがなんだかわからず言葉を出せずにいると、
「バカじゃない……」
と彼女は静かに微笑んだ。微笑みながら目に涙をためていた。
陽が昇り、ふたたび朝がやってきた。
それなのに風景だけが明るくなっただけで、夜は未だ続いているようだった。
ぼくは気を紛らわすように、荒らされた広間のかたづけをした。それが一段落すると、もうやるべきことはなくなる。屋上へ上ると、あてもなくぼんやりと雲の行方を眺めた。
この廃墟は外界から隔離されたような場所だ。まるで時間が止まってしまったかのように錯覚する。それでも太陽は沈み、月が昇った。
「美甘さん、おなかすいたでしょ? おれ、なんか買ってくるよ」
あまり外出はしたくないが、食糧調達のためやむをえない。ぼくらはまる二日なにも口にしていないのだ。こっそり近所のコンビニまで行ってこよう。深夜ならば人目も忍べるはずだ。
「なんか食べたいのある?」
そう訊ねながら立ち上がると、
「あたしもいく」と美甘さんはベッドから出た。
「え、いいよ、おれ行ってくるから。ふたりだと目立つし」
だけど彼女は「あたしもいく」とくりかえし、先に部屋を出ていってしまう。
結局、ふたり揃ってコンビニまでやってきた。
はじめて美甘さんと待ち合わせをしたファミリーマート。駐車場に自動車は一台も停まっておらず、店内にも客の姿はない。買い物をするなら今がチャンスだ。
ぼくはカゴを片手に陳列棚を巡る。今日だけではなく、何日か分の食べ物を買い溜めしておいたほうがいいだろう。
美甘さんはたべっ子どうぶつとミルクティー、それからエンゼルパイを抱えている。
「それできまり?」
ぼくが訊ねると、彼女は静かに頷いた。
「じゃあ……」と、ぼくは美甘さんのTシャツの裾をつかみ、レジへ足を向けた。
コンビニをあとにしたぼくらは、夜道を廃墟へとむかっていた。
空にはしらたまのような月が輝いている。ちいさな星のまたたきがはっきりとみえる雲のいない夜だった。
道はまっすぐに続き、その先ではぐれたようにぽつりと街灯が佇んでいる。『飛び出し注意』の立て看板が冷たいあかりに照らされていた。
美甘さんはエンゼルパイを食べながら歩いている。
「おいしい?」
そう訊ねると、彼女は「うん」とうなずいた。
築堤を電車が走り抜ける。回送電車なのか誰ひとり乗客をのせていない。車窓の四角い明かりが、並んで歩くぼくらを次々と照らしては追い越していった。
電車の走行音が間延びしたように滲んできえると、あとは静寂だけがそっと降りてくる。
そのときふと、路上駐車された自動車に視線が向いた。エンジンは切られているが、微かにひとの気配が漂っている。だれか乗っているのだろうか。
嫌な予感がして、ぼくはぴたりと足を止めた。美甘さんはぼくを追い越しさきへ歩いていく。
問題の車の屋根にパトライトらしきものが視認できた瞬間、とつぜんヘッドライトが点灯した。まばゆい光線がぼくたちをつらぬく。
「美甘さん!」
ぼくは彼女に駆け寄って手首をつかむと、こちらへ引き戻した。食べかけのエンゼルパイが地面に転がる。かまわず彼女の手を引いて、来た道をとって返した。背後でサイレンが鳴り響き、ぼくらは全速力で駆け出す。拡声器の声が響いた。ハイビームのヘッドライトに射抜かれて、ぼくらの影がアスファルトの上に幾重にも分裂する。さながら獲物を照らすサーチライトのようだ。
路地を曲がってすぐ民家の門に飛び込んだ。こそこそと庭を横断する。干しっぱなしにされたタオルがゆうれいの切れ端みたいに物干し竿に引っかかっている。
サイレンが途絶えた。車を降りて追いかけてくるつもりだろうか。ぼくらはあわてて生垣を越えて隣家の庭に移動する。そのまま路地に出、木造アパート脇の細い道へ入り込むと、ちいさな物置の陰に身を潜め、周囲に耳を澄ませた。
見知らぬ家の二階の窓に仄暗い橙色のあかりが灯っている。電灯の豆球のあかりだ。ドナルドダックのぬいぐるみが窓辺に飾られているのがみえた。
ぼくは美甘さんの手を強く握る。
やはり廃墟から出るべきではなかった。いくら深夜といえども外を出歩くのはリスクがおおきい。今更ながら後悔する。
「……ねえ、痛いよ」
こんなところで捕まってたまるか。絶対に美甘さんを守らなければならない。そのことで頭がいっぱいだった。美甘さんが洩らしたちいさな声も届かないくらい、ぼくは無我夢中だった。
頃合いを見計らい、慎重に路地へ出た。無人の住宅街をすすむ。
サナトリウムに辿り着けさえすればひとまずは安心だ。あそこまでは追ってこられない。自分に言い聞かせるようにくりかえしながら廃墟を目指す。
路地の向こうにヘッドライトのひかりが射した。また警察車両かもしれない。ぼくらは脇道を折れ、神社の鳥居をくぐった。
お祭りでもあったのか、参道にはたたまれた夜店がいくつか並んでいる。
急いで拝殿の裏に逃げ込んだ。夜気がひんやりと頰を撫でる。ふと、軒下の土が掘り返してあるのに気がついた。子供のいたずらか、それとも動物のしわざか。おかげで梁をくぐって拝殿の軒下に潜り込めそうだ。
ものの数分もしないうちに何者かがやってきた。懐中電灯の明かりが右往左往する。砂を踏む音。だれかの足が見えた。
心臓が早鐘を打つ。まぶたをきつく閉じると、鼻の奥がつんとした。涙が込み上げてきそうだった。
やがて人影はきえた。
どうにか巻くことができたようだった。軒下から這い出ると、おたがいほっと胸を撫で下ろした。
目の前は雑木林になっている。虫の鳴き声と、ときおり、かさかさと葉が落ちる微かな音がきこえた。
「今、何時くらいかな」
美甘さんが口をひらいた。
「わかんない」
「夜ってこんなに長いんだね」
ぼくは空を見上げた。
木々の梢の合間から星空がみえる。
彼女の言うとおりだった。その瞬きはまったく色褪せる気配がない。このまま永遠に夜明けがやってこないような気さえする。
美甘さんはそのままごろりと仰向けに寝そべった。しばらくそうして身動きしない。虚ろな視線を夜空へ投げている。
ぼくも彼女のとなりに寝そべってみた。
木々を押し広げるように、満点の星空がみえる。まるでみずうみのように。空気をふるわす密やかな音が、美甘さんの吐息なのか星たちの呼気なのか区別がつかない。
どこにもいけない。おれは、まだまだ子供だった。
不意に小山田慧のことばを思い出した。
途方もなく夜は深く、世界は広大で、茫漠と立ちはだかる。
幼少期に彼がみた風景を、今、ぼくはみている。
やわらかい絶望がぼくを満たしていた。
ぼくらはブランコを漕いでいた。
暗闇にうずくまるどうぶつの形をした遊具と、点滅する公衆便所の黄ばんだ電灯。油の切れた鎖の音が、誰もいない公園に響いていた。
眼前には、おおきな河川を挟んで建ち並ぶマンションの群れ。外廊下のあかりが夜空を背景に白く整列している。まるで精緻なラインストーンみたいに。
「どれ?」と、ぼくが訊ねる。
「じゃあ、あれ」と、美甘さんは送電鉄塔のとなりにみえるマンションを指さす。
青白い蛍光灯に照らされた階段を上っていく。足音がコンクリートに冷たく反響する。まるで絞首台へ続いているようだった。
彼女が指さした十二階建てマンション。
エントランスは誰でも出入りでき、ぼくらは難なくエレベーターに乗り込んだ。最上階で降りると、さらに上階へ向かう外階段をのぼる。さいわい屋上へ出るとびらは施錠されていない。
広大な屋上。まるで天空に浮かぶ巨大な絨毯のようだった。
ぼくらはそこでコンビニで購入した売れ残りの花火をひろげた。おたがい無言でそれに火をつける。
火がともっている間は、色鮮やかな光と音でにぎやかなのに、それが消えてしまうと夢から覚めたみたいにつめたい静寂が忍び寄ってくる。ぼくらはその感傷的な静けさを寄せつけないよう、次々と花火に点火した。
不意に美甘さんが立ち上がった。なにかを描くようにぐるぐる花火を振り回し、小躍りするように屋上を歩き出す。
「なにしてるの」
ぼくが訊ねると、
「信号だよ」と彼女はいった。
「え」
「UFO、来ないかな?」
美甘さんは歩き回りながら、花火を魔法のステッキのように扱う。星々へ秘密のメッセージを送るように。暗闇に火花の軌跡が帯のようにたなびく。
あっというまに花火は灰になってしまい、煙と火薬のにおいだけが残された。
それからぼくたちは靴を脱ぎ、なにかのおまじないみたいにそれをきれいに二足並べた。
屋上の縁に並んで立つ。
密集した住宅とマンションの波のむこうに、高速道路の流れがみえる。東に視線を向ければ、山の稜線と米軍基地のあかりがオレンジ色に輝いていた。
ゆっくりと足下に視線を落とすと、遥か真下、闇に紛れて正面玄関のポーチや花壇、駐輪場の屋根などが見下ろせる。あと一歩、足を踏み出せば地上へまっさかさまだ。
「ホントにいいの?」
美甘さんはこちらをふりむいた。長い髪が夜風に靡いている。
「なにが」
「飛び降りるんだよ?」
「うん」と、ぼくはうなずいた。「美甘さんのあそこ見せてもらったし、もう思い残すことないよ」
「……ばかじゃん。ほんとキモいんだけど」
美甘さんのゆびさきが、ぼくの手の甲に触れている。
意外にも彼女からぼくの手を握ってきた。好意のようなものがあるわけではなく、ぼくが怖じ気づいて逃げないためだろう。
「鉄砲の弾、残しておけばよかった。そしたら、もっと簡単だったのに」
「いや、こっちのほうがいいよ、空飛んでるみたいで気持ちいいかもしれない」
そう強がってみたものの、膝のふるえが止まらない。
「なにもいいことがなかった人生だけど、美甘さんに出会ってから、おれ、すごくたのしかった。美甘さん……、おれのためにありがとう。おれを助けてくれて、ありがとう……」
彼女はちらりとこちらに視線を向ける。
「おれは、優ちゃんのことだいすきだ!」恐怖を紛らわすように、月に吠えるように、ぼくは叫ぶ。
「あたしは大嫌い!」
美甘さんも夜空に向かって叫ぶ。
ぼくは思わず笑ってしまった。
いや、こわくて歯の根が合わないだけかもしれない。
だけど、美甘さんと死ねることによろこびも覚えている。地面にたたきつけられて、粉々になったぼくの肉片や血液、脳みそとか、そういうものが美甘さんの砕けたそれと混ざり合うさまを思うと、なんともいえないある種の幸福を感じる。
「せーの、でいくよ」と、彼女はいった。
ぼくは背筋を伸ばし、深呼吸をする。
眼前に津波のように押し寄せる満点の星空。身体は竦んでいるけど、なにひとつ遮るものがない風景は開放的で気分がいい。勢いよく宙へ駆ければ、そのまま風にのって舞い上がれそうな、そんな錯覚をおこす。どこか遠い場所へ、鳥のように羽ばたいていけるような高揚感。
美甘さんは叫ぶ。
「せーの!」
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