南の島のアイアイ

 ぼくは項垂れた。自分のつま先すらみえない。自分がどこにいるのかわからなくなる。徐々に足下から闇に飲み込まれていくような感覚に陥る。まるで底のない沼のように。

 そんな延々とどこまでも沈み込んでいくような、寄る辺ない時間が過ぎていった。

 いつのまにか微睡んでいたのかもしれない。ふと顔を上げると、窓から射し込む月光に美甘さんが照らされていた。上半身を起こして、両足をベッドからぶらりと下ろしている。真夜中、ほとりにあがってきた人魚が、人気のない岩場に腰掛けているみたいだった。凪いだ海をみつめて、密やかに歌を口ずさむように。

 ぼくはそんな彼女の姿を、岩陰から覗き見るようにぼんやり眺めていた。

「あたしね、六歳まで悪い奴といっしょに暮らしてたんだ」

 夢を見ているのかと思った。どうやら現実らしい。

「……悪い奴?」

 ぼくは首を傾げた。声がすこし掠れた。

「うん。そいつに飼われてたの。せまくて汚い部屋で」

 そうきりだし、美甘さんは静かに語り出した。

 ぽつり、ぽつり、まるで洞窟の奥底に連なるつららから、水滴が落ちるように。

 彼女の母親は、だらしのない女性だった。素行の悪い男たちばかりと交際し、問題ばかりを引き起こす。そんなことを繰り返すうち、とうとう行きずりの男のこどもを身篭った。それが美甘優だった。

 一時期は家族三人で暮らしていたが、多くのそういった碌でもない人種がそうするように、男もまたとつぜんに蒸発し、子供だけが残された。

 陽当たりの悪い木造アパートの二階で、美甘さんは母親とふたりで暮らしていた。とはいっても母親は滅多に家には帰ってこない。

「物心つく頃にはもう暗くて汚くて、ゴミ置場みたいな部屋で、あたし、ひとりで寝起きしてた。昼間は外をあてもなく歩き回って、夜になると部屋へ帰るの。それから、チラシの裏とかに絵を描いたりして。幼稚園とかいってなかったから、ともだちいないし、話し相手とかいないからひとりで電話とかしてた。もしもしって」

 どこにも繋がっていない電話。受話器を耳にあて、自分のことや今日のできごと、自分の考えたお伽話を語る。そうしていれば、いつかどこか遠くの誰かが応答してくれると思っていた。

「そんでね、お腹空くと、冷蔵庫とか戸棚を漁ってたべものをさがすの。ハムとか食パンとか缶詰とか牛乳とか、あとふりかけも。あとカップラーメンとか? 食べおわると、毛布にくるまって寝るの。お風呂は一週間に二度。ずっとそれのくりかえし」

 母親は子供の世話をしようとはしなかった。面倒な荷物を背負い込んだと思っていた。そしてその荷物をどうにかして片付けることはできないかということばかり考えているように思えた。

「あたし、あの頃、傘がすきだったの。散歩するときはぜったい家から傘を持っていって差してた。雨が降ってなくても」

 晴れの日は太陽が傘を透かすひかりがきれいだったし、雨の日はぽつぽつと小気味よく落ちる雨の音色がたのしかった。日がな一日、傘を差して散歩する幼女の姿は、近所の人々の目にとまった。見知らぬおばあさんに飴玉をもらったこともあった。

「あるとき、あたし、傘を公園かどこかに忘れちゃったの。急いでもどって探したんだけど」

 結局どこを探してもみつからなかった。叱責をおそれるあまり、なくしてしまったことを母親に言い出せなかった。だからといって、いつまでも隠し通せるはずもない。数日後、雨の日にそのことが露見した。彼女が傘を使おうとして気がついたのだ。

 とうとつに母親のてのひらが美甘さんの頬を打った。息が詰まるような衝撃。

 あまりのことに号泣すると、「うるさい! 静かにしろ!」と追い打ちをかけるように拳を頭にふり落とされた。容赦ない暴力に眩暈がした。

 それからというもの、なにかあるたびに美甘さんは母に暴力をふるわれるようになった。食べ物をこぼしたとき、脱衣所に水を滴らせたとき、トイレの蓋を閉めなかったとき、電気を消し忘れたとき。狂ったように叱責され、頬を張られ、からだを蹴飛ばされた。

「泣くな! 泣きやまないとおわんないよ!」

 そういって母親は、蹲った美甘さんの背中を布団たたきで殴りつけた。お仕置きは布団たたき二十回だが、嗚咽しているとカウントされない。我慢していても途中で声を漏らすとまた始めからだった。

 そんな日々が延々と続いた。いつしか冷蔵庫や戸棚の中から食糧がなくなりはじめ、空腹でお散歩しにいく気力もなくなった。自分の身体の感覚が滞っているようになり、意識が朦朧としはじめる。起きていても夢の中を泳いでいるようだった。

 そんなときだ。部屋に見たことのないおにいさんがやってきた。

 彼は親しげに彼女に声をかけた。すきなたべものはなに? いつもなにして遊んでるの? そういった他愛もないこと。

「あんたさ、こども欲しくない?」

 おにいさんの背後から母親の声がきこえた。

「その子、あげてもいいよ」

 要らなくなった物を譲ってやるとでもいうように母親はいった。彼はなにもこたえなかったが、笑顔のまま表情が凍りついたのを彼女は見逃さなかった。

 それから数日もしないうちに、美甘さんは部屋からわずかな荷物とともに引っ張り出された。冷たい玄関の上がり框に座らされ、そこから動かず待っていろと母親に言いつけられた。

 何時間そうしていただろう、不意にとびらがノックされた。訪ねてきたのは以前、部屋にやってきたあのおにいさんだった。となりには見知らぬおねえさんも立っている。

 彼らは、玄関に座らされている美甘さんの姿にすこし驚いた表情をしたが、「やあ、こんにちは」とすぐに笑顔をみせる。

「げんき? おじさんのこと覚えてるかな?」

 美甘さんは無言でうなずいた。

 自分は美甘さんの母親の弟だと、彼は自己紹介した。となりのおねえさんはその奥さんだという。

「ちょっと、おでかけしようか?」

 彼女は訳も分からないまま、彼らに連れられて車に乗せられた。

 後部座席に座った美甘さんが外に視線を向けると、アパートの窓辺にゆうれいのようにこちらをみつめる母親の姿があった。しかしすぐにガラス窓がぴたりと閉められた。

 車はゆるやかに走り出す。自宅は遠ざかり、あっというまに見えなくなった。

 運転席と助手席の男女をぼんやりみつめた。ふたりはなにか深刻そうに言葉を交わしている。不意におにいさんが窓を開けると、そこからなにかの紙切れを捨てた。それはひらひらと風に舞ってすぐに視界から消えてしまった。数枚の紙幣にみえた。

 車はどこかのおおきな病院の駐車場に止まった。

 そこで彼女は全身をくまなく検診された。医者ではないなにかの職業の大人たちに、家のことについていろいろと訊かれた。

 病院を後にすると、車は不二家レストランへむかった。

 窓側のボックス席に着き、彼らは美甘さんの前にメニュー表をひらいた。

「どれでもすきなの頼んでいいよ」

 絵本みたいなメニューをめくり、考えに考え、美甘さんはホットケーキの写真を遠慮がちに指差した。

「それだけ?」おにいさんは彼女の顔を窺う。「もっと頼んでいいんだよ?」

「どれだけ食べれるか勝負しよう」と、となりに座ったおねえさんも言った。

 テーブルにはハンバーグにオムライス、スパゲッティ、メロンソーダ、チョコレートパフェにホットケーキと、まるで宝石みたいに料理が並べられた。

「あたし、ホントびっくりしちゃった。もうぜんぜん食べきれないくらいのごちそうなんだもん。なんかお姫様みたいな気分だった」

 美甘さんは懐かしげに微笑む。

 その日から彼らと三人の生活がはじまった。以前の暮らしとは大違いだった。ふたりはこころから彼女を歓迎した。毎日あたたかいお風呂に入れたし、おいしい食事が用意され、清潔でやわらかいベッドでぐっすりと眠った。週末は遊園地や動物園、森林公園に連れていってもらった。自分だけの可愛らしい傘も買ってもらった。間違ったことをすれば注意はされる。だけど理不尽な理由で叱責されることはないし、もちろん、手を出されることなんてあるはずもない。

 そんな平穏な日々のことを、彼女は定期的に家を訪問してくる職員に語った。

「おじさんとおばさんが、優ちゃんのあたらしいパパとママになるかもしれない。優ちゃんはどうおもう?」

 ある日、おにいさんにそう訊ねられた。

 いいとおもう。そうこたえると、彼は満面の笑みをうかべた。

「立派なパパになれるようにがんばるよ」

 おにいさんが言ったとおり、彼らは正式な手続きを済ませ、晴れて美甘優の両親になった。

「パパもママも優しくて、あたし、だいすきなの。あたしをほんとうのこどもにしてくれて、すごく嬉しいし今までずっと幸せなの」

 ――それなのに、

 美甘さんは瞳を伏せた。

「それなのに、あたし、まえの家のこと思い出す」

 あの部屋の日々のことを。昼間は傘をさして近所を散歩して、夜には汚いあの部屋で食パンをかじって、誰も出ない電話で通信し、カーテンの隙間から星空を眺め、毛布にくるまって眠った日々のことを。

「懐かしいって思っちゃう。ときどき戻りたいって思うときがある。すごく嫌だったのに……、つらかったのに……」

 パパとママが自分をたいせつにしてくれればくれるほど、あの部屋が恋しくなった。悪い魔女がそうするように、きっと自分も母親に呪いをかけられたのだ。童話の結末のように、あいつを始末しなければ永遠に呪縛から解き放たれない。いつしか彼女はそう考えるようになった。

「だからあたしは鉄砲を拾うことができたんだ。呪いを解くために」

 ぼくには悪い奴をさがすといったけれど、美甘優のなかですでに『悪い奴』はきまっていた。

 自分の母親だった。それ以外の人間に銃口を向けるつもりなどはじめからなかった。

「まずはおかあさんが今、どこにいるかを突き止めることだった」

 あの古いアパートの最寄り駅は知っている。そこから記憶を頼りに、むかし自分が暮らした住処を探し出した。だけど、その場所にあのアパートはなかった。取り壊され、駐車場になっていたのだ。

 そこまで聞いて、ぼくは思い当たった。

「もしかして……」

 そういうと、彼女は「そう」とこたえた。

 春休み、ふたりで電車に乗って行った、あの見知らぬ町。

 住宅街の駐車場。

 美甘さんはじっとあの場所に立っていた。

 とりあえず住処をみつけたことで、その日は終えることした。これからどうするかはあとで考えようと思った。その場所にいると、いろいろな思いが込み上げて耐え難くなる。とにかく、はやくそこから離れたかった。

 帰り道、飲み物を買うため駅前のスーパーに立ち寄った。

 そこで彼女を見たのだった。

 あまりに偶然だったし、なんの前置きもなかったから、彼女を認識していたのにもかかわらず、それがうわすべりしていた。他人のそら似でもなんでもなく、確かに自分の母親、そのひとだった。伴侶なのか、見知らぬ男性と寄り添っている。

 美甘さんはふたり目掛けて、ずかずかと歩いていくと、目の前に立ちはだかった。声はかけない。じっと彼女をみつめる。母親と男はなにごとかと怪訝な表情を浮かべていた。恋人に夢中で娘のことなどすっかり忘れてしまっているのだろう、美甘さんが誰であるか気づいた様子はない。いや、気づかないふりをしている可能性もある。

 結局このひとはそういう人間なのだ。

 母親たちはお互いに顔を見合わせると、彼女を無視して歩いていく。

 店内を巡るふたりを、美甘さんは隠れもせずこれ見よがしについて回った。

 買い物を終えたふたりは、そのままエスカレーターに乗り、屋上駐車場へと出た。止めてあった黒い軽自動車に男が乗り込む。そこで母親は不意に立ち止まり、つかのまなにか思案したあと、くるりと踵を返し、こちらへ歩いてきた。

 美甘さんは身構えた。

「優でしょ?」と、彼女はいった。

 返事をせず、かつての母親の顔をみつめる。

 自分のことなどとっくに忘れてしまっていると思いきや、意外にもちゃんとわかっていたようだ。六歳のときから会っていないのに、十四歳に成長した自分の顔を判別できていた。

「おおきくなったね」

「……覚えてたんですか」

 美甘さんは口をひらいた。なぜか敬語になってしまう。

「理のとこでうまくやってんの?」

 はい、と美甘さんはうなずく。『理』とは美甘さんの養父の名だ。

「そう……」母親は彼女の肩越しに視線を向け、遠い目をした。

「話したいことがあるんです」

「わたしも優に話したいことある」

 母親はそんなことをいった。「でも、いまはだめ」

 日を改め、また別の場所で面会することにした。美甘さんとしてもその方が好都合だった。拳銃を向けるのには、人気のない場所へ誘い出したほうがいい。

 帰りの電車にゆられ、ながれてゆく景色を眺めた。

 優に話したいことがあると、彼女はいった。自分に話したいこととはなんだろう?

 胸の深層でちいさな光が芽ばえた気がした。

 もしかしたら母親はあれから反省し、娘を手放したことを後悔しているのではないか。

 その淡いひかりは、眠っていた遠い記憶をよみがえらせる。

 まだアパートにいた頃だった。真夜中に帰宅した母親が、ふらりと部屋にやってきたことがあった。

 彼女はなにもいわず、毛布にくるまっている美甘さんのとなりに寝転んだ。開けっ放しにされた襖から隣室の灯りが暗い物置部屋まで射し込んでいる。

 しばしの沈黙のあと、「ねえ、優、アイアイって知ってる?」と母親が訊ねてきた。

 とつぜんなにをいいだすのだろう。酔っ払っているのかとおもったが、お酒のにおいはしない。眠りかけていた美甘さんは首を横に振った。

「お猿のアイアイ。南の島の。歌、あるでしょ?」

「うん」

「どんな猿なんだろうね」

「あのね、おめめがまるいの」

「ばか、そんなの誰だって知ってるよ」

「ごめんなさい」

 なにかあると反射的に謝ってしまうくせが、美甘さんにはできてしまっていた。

「きっと可愛い猿なんだよ」と母親はいった。「だって歌になるくらいだし」

「うん」

「ちょっとうたってみてよ、優」

 そう請われて、美甘さんはたどたどしく歌い出す。

 母親は横になったまま片手でほおづえをつき、彼女の拙い歌声に耳をかたむけた。やがて満足げにまぶたをとじる。美甘さんはその様子がなんだかうれしくて、一生懸命にうたってみせた。

 アイアイと南の島について、美甘さんは想像をめぐらしてみる。だけど知識がないためどうにもうまくいかない。頭に浮かぶのは、クレヨンで描いたようないい加減な光景だった。それでもきっと、南の島は天国のようないいところで、そこに住むアイアイはとても可愛らしいお猿なのだと思った。

「なんであの人、いきなりアイアイのことなんて訊いてきたんだろ……」

 バカみたい、と美甘さんはつぶやいた。

 数年後、彼女は図鑑でアイアイの写真をみた。

 それは眉を顰めるほど醜い動物だった。ぎょろりとした目に、おおきな耳。痩せたからだに細長い手足。それらを不潔で硬そうな体毛が覆っている。なんとも醜悪な姿形。まるで悪魔のようだった。

「で、なんの用なの」

 美甘さんは我に返った。

 あれから数日後、母親は約束通り美甘さんのまえにあらわれた。

 そのまま母親をサナトリウムまで案内した。彼女はもの珍しそうについてきた。

 そして今、中庭の桜の木のまえで、母親と対峙していた。

「っていうか、よくぬけぬけと顔出せるね」と母親は続ける。

「あんた、チクったでしょ」

「え」

「わたしに虐待されてるってチクったでしょ」

 母親はくちびるを歪める。まるで拗ねているこどもみたいに。「あんたのせいで、あれからこっちは大変だったんだからね」

 美甘さんはなにも言えず口をつぐむ。

「あんたを理にあげたとき、お金だってわたしたんだよ? 十万!」

 十万。

 このひとにとって自分の価値は十万円だったのか。

 それが安いのか高いのかよくわからない。

「あんたら、裏切り者だよ」と母親は言い放った。「あんたはじつの母親を裏切って、理はじつのきょうだいを裏切って。金をだまし取ってさ」

 美甘さんは黙っていた。

「……ねえ、なんとかいったら?」

 美甘さんは、ごめんなさいといった。

 まるであの頃のように。殴られ罵られていた子供のときのように。

「あんたさ、お金返してくんない?」

 母親はいった。「人のこと犯罪者にしてさ、裏切ったんだから、お金返しなさいよ」

 てのひらを突き出した。

「お金返したら、おかあさんのとこ戻っていいの?」

 無意識にそんなことを言っていた。

 こんな母親のもとになんか戻りたいと思ったことはないのに。今のママとパパがだいすきなのに。それなのに、そんな言葉が口を衝いて出た。

「は? なんでよ?」

「おかあさんは、あたしのこと、どう思ってるんですか」

 彼女は苦笑した。「なんなのよ、めんどくさいこと言わないでよ」

 美甘さんは例の拳銃を取り出し、銃口を彼女に向けた。

「手を上げろ」

 母親はいっしゅんだけ怯んだが、すぐに「あんたねえ……」と嘆息した。おもちゃの銃だと思っているのだろう。

「……撃たれたくなかったら、『優、だいすきだよ』っていってください」

 母親はうんざりした表情をみせる。幼稚なごっこ遊びに無理矢理に付き合わせられているかのように。

「あんた、こんなくだらないことするために、こんなとこまで連れてきたわけ?」

「おねがいだから、いってください」

 母親は溜め息を吐いた。

 それでも、美甘さんは銃を突きつけて叫ぶ。「『だいすきだよ、優』っていえ!」

「馬鹿馬鹿しい……」そういうと、彼女は立ち去ろうとする。

「――まってよ! 行かないで!」

 図らずもどこか悲痛な叫び声をあげていた。置いていかないでと、ひとりにしないでと、縋るように。

 母親は足を止め、ふりかえる。そしてこちらへゆっくり歩み寄ってきた。

 美甘さんの目の前に立つ。

 次の瞬間、頭をおもいきり殴られた。容赦のない打擲に視界がくらくらする。

 思い出した? と言うと、彼女はもう一度、二度と、頭をはたく。

 美甘さんは乱れた髪の毛の隙間から、母親の顔をみつめる。

「ほら、嬉しいんでしょ? 優。笑ってるじゃない」

 母親の言うとおりだった。

 美甘さんは笑っていた。

 無邪気な笑顔を浮かべていた。

「おまえのこと、好きと思ったことなんて一度もないよ」母親は嘲笑った。「嫌いだから捨てたの。いらないの。わかれよ。気持ち悪いんだよ? クソガキ」

 そういって背を向けた。

 おかあさんの背中が遠ざかっていく。

 そのとき不意に、彼女の足元から黒い毛むくじゃらがひょっこり顔を出した。それはするすると足を伝って背中をのぼり、肩に止まった。しっぽを蛇のようにくねらせて、こっちを見ている。ぎょろりとした目。赤くて悪魔のような目。悪魔。悪魔だった。

 乾いた破裂音が響いた。

 美甘さんは引き金をひいていた。

 銃弾は母親を抉り、彼女はあっさりと崩れ落ちた。

 銃口から硝煙が立ちのぼる。

 彼女は構えた拳銃を下ろした。

 叢に沈む母親の背中を静かにみつめる。髪の毛がなんだかまるでマネキンのかつらみたいにみえた。

 頭の中でずっと『アイアイ』の童謡が流れていた。場違いに陽気なその歌が思考から滲み出して、美甘さんは無意識のうち、囁くように口ずさんでいた。

 燃え上がる夕陽。

 くらげのあたまのような塊が、ぐつぐつ煮えたぎるように大地へ沈んでいく。

 夕焼けに染まった草が風に靡いて、燃えあがる草原の真ん中に、たったひとり佇んでいるようだった。

「あたし、あんな母親のこと、すきだったのかな?」

 美甘さんはそっとくちびるをひらいた。

「だから、あの人があたしのことすきになってくれなくて、こんなさびしいのかな? だから、こんなにかなしいのかな?」

 ぼくは口を閉ざし、ただただうつむくだけだった。

 声にするべきなにものもない。言葉にしたところで、所詮それは陳腐なものに違いない。

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