夜のはじまり

 ぼくは美甘さんを連れ、自宅までやってきた。

 幸い両親は仕事で留守だ。ズボンのポケットから合い鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。靴を脱ぎ捨て、上がり框を踏む。

 美甘さんは三和土にぼんやり立っている。背後でドアがばたんと閉まり、室内が薄暗くなった。陽のひかりに目が慣れていたせいで、なにもかもがまっくらにみえる。

 まずは美甘さんを洗面所へ連れていき、返り血で汚れた手と顔を洗面所で洗わせた。薄く朱色に染まった水が排水溝へ流れていく。

 自室のタンスを開け、彼女が着ることのできそうな洋服を探す。適当なものを見繕い、「じゃあ、これに着替えて」と彼女に渡した。

 すると、美甘さんはスカートのホックを外してジッパーを下げると、躊躇なくそれをストンと足下に落とした。白いふともものまぶしさが網膜に飛び込む。

「ちょっ、ちょっとまって! ここじゃなくて洗面所で着替えなよ」

 いやいや、それよりぼくが部屋を出ていけばいいじゃないか。そんなふうにまごついていると、

「は? いまさら? なんなの、もっと最低なことしたくせに!」彼女は眉間に皺をよせ、いきなり怒鳴りだした。

「まんこ見たかったんでしょ? みせてやるから見てろよ」

 そういってパンティに手をかけると、そのままそれをずり下げた。不意打ちでおもわず見てしまう。まったく陰毛の生えていない着せ替え人形のような性器だった。そしてなぜか、そこから透明な粘液がパンティへ糸を引いている。

 ぼくはあわてて目を逸らし、逃げるように部屋を飛び出した。

 そのままダイニングへむかった。電話台の抽斗から母親の財布を手に取る。ぼくがお金を盗んでいることに気づいても、彼女はそこから財布を移動させないでいた。中から一万円札二枚と千円札三枚を抜き取りポケットにねじ込むと、ボールペンをつかみメモ帳を引き寄せた。おかあさん宛てに、お金を盗んでしまったことや、これからたいへんな迷惑をかけてしまうことへの謝罪を書く。しかし、なかなかうまく文章にできない。あたまのなかに様々な情報が怒濤のごとく流れ込んで、まるで処理ができなかった。

 それからふと思いついて、リビングへ向かった。

 テレビをつけてみる。どの局もいつもと変わりないお昼番組を放映していた。さすがにまだ報道されていないか。そうおもってテレビを消そうとしたとき、やけに耳につくチャイムが鳴った。ニュース速報だ。

『××・××市の中学校で発砲 死傷者の情報も』と画面上部にテロップが流れた。

 ぼくはふるえる手でリモコンの電源ボタンを押した。

「美甘さん」

 自室へ引き返しドアをノックした。

 いっこうに返事がない。おそるおそるドアを開ける。

 美甘さんは床に横たわっていた。だけど、しっかりとぼくの服には着替えている。Tシャツにジーンズという格好だ。

「疲れちゃった……」と彼女はつぶやいた。「寝たい」

「ごめん。ここじゃだめなんだ。もうすこしがんばろう」

 ぼくは励ますように声をかけた。

 美甘さんは億劫そうに上半身を起こす。

「……きもちわるい」と、気怠そうにあたまを掻いた。髪の毛がボサボサと乱れる。

「えっ、具合が悪いの?」

「市川くんのくせに服からいい匂いがする……」

 えっ? ああ、と拍子抜けしたように、ぼくは声を吐いた。

「うちのおかあさんがちゃんと洗濯してくれるから、あの、柔軟剤とか」

 美甘さんはそれを無視して、シュシュで髪を結わえる。そして立ち上がると、ふらふらと部屋を出た。

 ぼくも急いで制服から私服へ着替える。

 自宅マンションの駐輪場から自分の自転車を引っ張り出した。なんとか後ろに美甘さんを乗せて走れそうだ。

「乗って」と、ぼくは彼女を促した。

「……だいじょうぶなの?」

「た、たぶん」

 正直ふたり乗りなんて滅多にしない。いや、ほとんどしたことがない。

「こけないでね。痛いのやだよ?」

 そういって彼女は荷台に跨った。ハンドルがぐらつく。

「あ、あの。おれに触るの嫌だろうけどさ、ちょっとつかまってて」

 美甘さんはなにも言わず、ぼくの腰に手を置いた。

「いくよ」

 ぼくは少々ふらつきながらペダルを踏み込む。

 マンションの敷地を出て、住宅街を走った。ある程度スピードに乗ってしまえば車体が安定する。なんとかいけそうだ。

 穏やかな風を切りながら歩道の並木道をくぐる。

 木漏れ日がストロボみたいにぼくらを照らした。住宅街を抜けて、米軍基地のフェンス沿いを走る。遥か向こう側、ちょうど滑走路から輸送機が飛び立つのがみえた。

 好きな女の子と自転車でふたり乗り。こんな状況じゃなければ心躍るようなシュチュエーションだったはずだ。このまま映画館にでもデートへ行けたらどれだけいいだろう。

 上空をヘリコプターが騒がしく旋回していた。おそらく米軍機ではない。テレビ局のものだろうか。遠くからサイレンもきこえる。徐々に街がものものしい雰囲気に包まれている。

 不意に、ぼくのからだに掴まる美甘さんの腕に力が籠った。


 結局、ぼくがおもいつく逃げ場所といったらひとつしかない。

 廃墟のサナトリウムだ。

 広間は飯島たちに荒らされてしまったので、四階の小部屋にやってきた。

 やわらかい水色の壁紙に、床には枯れ葉色の絨毯が敷き詰められ、上げ下げ窓から中庭が見下ろせる。いつか美甘さんが死んだように寝転んでいた部屋だ。

 彼女は部屋に入るなり、ベッドに横になった。よっぽど疲れたのか、まぶたが重たそうだ。

「どういうことなの。あの銃、モデルガンだったのに……」

 目をつぶったまま返事がない。

 眠ってしまったのかとおもいきや、

「……市川くんに渡したやつはモデルガンだよ」と、ぼんやりとした声がきこえてきた。

「本物はあたしが持ってたの」

「わけわかんないよ……」

「市川くんなんかに、あたしの大事なもの触らせるわけないじゃん」

 バカじゃない、と寝返りをうつ。

 ぼくはそれ以上なにもいえず口を噤んだ。

 発砲音が脳裏によみがえる。

 割れる窓ガラス。床に散らばる筆記用具。プリント用紙が花吹雪のように舞い、阿鼻叫喚となる教室。血煙をあげて次々と倒れこむ生徒たち。駆ける小山田慧の姿。

 いったい何人死んだのだろう? 頭の中で指折り数えてみるがうまくいかない。とにかくおおくの人間が死んだ。殺された。殺したのは美甘さんだ。

 ぼくは目の前の女の子の姿をみつめる。

 ごくふつうの中学生の女の子。そんな女の子がいっしゅんにして何人もの命を奪っていった。それはまるで夢の中みたいに曖昧だった。血なまぐさい大量殺人と、いまここにある美甘さんの白くて細い腕、華奢でか弱そうな身体が乖離してどうにも結びつかない。

 だけど、これは紛れもない現実だった。殺人事件だ。

 成人ならば間違いなく死刑に処されるほどの重罪だが、ぼくらはまだ未成年だった。少年法が適用されるだろう。しかしあれだけの惨事だ。厳罰もあり得るのかもしれない。前例などなく、このまま捕まったらどういう処遇を受けるのかまったく予測がつかなかった。

「美甘さんはなんも悪いことしてないよ」

 ぼくはいった。彼女は返事をしない。

 なぜあんなことをしたのかなんて、愚かな質問をするつもりは毛頭ない。美甘さんはぼくを救うために、ケダモノたちを射殺したのだ。問題はどうしてぼくなんかのためにあそこまでのことをしてくれたのかということだ。

 彼女は悪くない。

 だけど理由はどうあれ殺人を犯したものは拘束され、法の裁きを受ける。それがこの世界のルールだった。

 それなのに、小山田たちを誰が咎めただろう。ぼくは死んでいったものたちに暴力をふるわれ、金銭を巻き上げられた。それをいったい誰が裁いてくれたのだ? だれもが見て見ぬ振りだった。それどころか、スポーツ観戦のごとく楽しんでいる節さえあった。あの担任教師でさえ。

「美甘さんは悪くない」

「うるさい」うんざりしたように美甘さんはいった。「黙ってて」

「どうしておれなんかのためにあんなことしたんだよ」

 はあ? と彼女はこちらに視線を向けた。

「おまえのためじゃねえよ。悪い奴を鉄砲で撃ちたかったっていってたじゃん、あたし。てか、ひとの秘密基地こんなに荒らしたバカをやっつけただけだから」

「おれが殺したことにすればいいんだ。あいつら恨んでたのおれなんだし」

「かっこつけてんじゃねえよ」

「かっこつけてないよ、おれは美甘さんをたすけたいんだ!」

「じゃあ、あたしといっしょに死んで」

 美甘さんはさえぎるようにいった。「ここの屋上からいっしょに飛び降りて」

 ぼくは言葉を失ってしまう。

「あのとき、ホントはあたしも鉄砲で死ぬつもりだったの。でも、弾はなくなっちゃうし、市川くんは邪魔してくるしで出来なかったの。だから責任とって、あたしといっしょに死んで。おねがい」

 なにもこたえられずにいると、「なに。できないの?」と責められる。

「……それは、美甘さんをたすけることになるの?」

 彼女は眉間に皺を寄せた。

「たすけるって、なに?」

 怒っているような、悲しんでいるような、そんな表情だった。

 沈黙がふたりの間に倒れ込む。

 ぼくはとぼとぼと、部屋の隅のひとりがけソファに腰を下ろした。

 意外にもクッションがやわらかい。そのやわらかさに全身が脱力してゆく。自分のなにもかもすべてが沈み込んでしまって、もう二度と浮き上がってこられそうにない、そんな錯覚に囚われる。ひどく疲弊していた。脳も睡眠を求めている。それなのに目は冴えわたり、眼球が乾いて痛いほどだった。

 ぼくは自分のてのひらに視線を落とした。

 この手でナイフを握り、小山田の腹部を刺した。肉体をつらぬく感触も手応えらしきものも感じなかった。無我夢中だったからだろう。だけど、彼をナイフで刺したのは確かだ。

 小山田は死んだのだろうか?

 おもわず冷笑した。

 死ぬわけがない。直感的にそうおもった。あいつは生きている。ぼくなんかに殺されはしない。そういう運命ではないのだ。傷だらけの彼の身体、そこへ新たな傷が刻まれただけに過ぎない。

 そこでふと、あることに思い至った。

 とても重要なことだ。

 ぼくらがこの廃墟に出入りしていることを、小山田慧は知っている。もし彼が会話できるような状態ならば、警察関係者にこのサナトリウムのことを告げるかもしれない。いや、まちがいなく告げるだろう。あのふたりが逃げ込むなら、あの廃墟しかないと。

 この場所もそう長くは居られそうにない。かといってどこへ行くかなんて、今すぐには決められなかった。

 どうすればいいのだろう。どうすれば……。

 片手で額を押さえ嘆息した。

 美甘さんのかすかな寝息がきこえてくる。

 ぼくはソファにふかく腰を沈め、じっと窓の外を見据えた。嵐が過ぎ去るのを辛抱強く待つように。


 瞬きをするたびに夜は忍び寄った。

 影は形を変えて、次第に色濃くなり、やがて影そのものが夜になりかわる。

 低いジェット音を響かせながら、米軍の航空機が飛び交っているのが見えた。一機が飛び去っていけば、またもう一機が飛来する。はさみでおりがみを切り込むように、ランディングライトが夜空を裂いている。

 衣擦れの音がした。

 すっかり闇に溶け込んだ部屋の片隅で、瞳だけが猫のそれのようにまばたきしていた。

「起きた?」と、ぼくは声をかける。

 一呼吸おいて、うん……という声がした。

「……何時?」

「わからないけど、もう七時は過ぎてるかも」

 それに返事するように微かな吐息がきこえる。

 ひとしきりの沈黙のあと、「おしっこ」と美甘さんはいった。

 スプリングマットの軋む音。彼女は立ち上がり、そっと部屋を出ていった。

 ぼくは胸騒ぎがして、飛び上がるようにソファから立ち上がった。あとを追いかける。すると、彼女は不快そうにこちらをふりかえった。

「なに」

「あ、あの、なんかあったらすぐ呼んで」

「は? なにがあるんだよ」

 呆れたようにそう言うと、「バカ」と暗い廊下をそそくさと歩いていった。

 しばらくして美甘さんが部屋に戻ってくると、なぜだかわからないがほっと安堵した。

 彼女はベッドに腰を落とし、暗闇の中で髪を梳きながら、小さくあくびをする。それからぱたりと上半身だけベッドに倒れ込んだ。

 外明かりが淡くこぼれている。

 窓の形をした四角いひかりが絨毯にぼんやり染み込んでいた。

 ぼくらはまるで、これから埋葬されるのを待つ死体だ。この廃墟の部屋そのものが、おおきな棺桶のようにおもえた。

「これからどうすんの」

 美甘さんは仰向けに天井へむかって言った。「ずっとここに隠れてるつもり?」

 なにもこたえられない。自分でもどうすればいいのかまるで整理がつかなかった。

「さっきもいったけど、市川くんのためにやったわけじゃないから、べつにカッコつけて責任感じることないんだけど」

「……」

「ただ鉄砲、使いたかっただけだし。飯島くんたちを殺さなきゃ、いつかそこらへんのやつ殺してたんじゃん? 通り魔といっしょだよ」

「やめろよ、そんな頭のへんなやつみたいなことするわけないだろ、美甘さんが」

 すると、彼女がこちらへ視線を投げた。

「……あたし、頭へんなのかな?」

 思いがけず、悲しげな声がきこえた。

「だ、だから、へんじゃないって!」

 ぼくはあわてて否定した。

「でも、みんなを鉄砲で殺してるときにね、なんかあたし、すっごい興奮してた。いっぱい血が飛び出るのみて、ああ、ひとを殺してるって、めちゃくちゃ興奮した。頭がくらくらして、なんかもうイッちゃいそうだった……」

 へんでしょ? と美甘さんはいった。

 薄闇の中、ぼくは瞬く双眸をみつめる。

 やがて、そのふたつの小さなひかりは、蝋燭の火が絶えるように消えた。

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