平和な世界
真昼の住宅街を早歩きで歩いていた。
片手には拳銃を持っている。
夏の陽射しは町並みを白く飛ばし、蝉時雨は熱された地上へ降り注ぐ。
ぼくは廃墟のサナトリウムへ向かっていた。そこに美甘優がいるような気がしたから。
しかし、彼女の姿はなく、広間は無残にも荒らされていた。テーブルは破壊され、窓ガラスが割られ、カーテンはズタズタに破かれていた。ぼくが持ち込んでいた携帯ゲーム機も雑誌も、すべてバラバラにされて床に散乱している。
「ここ、おれたちの隠れ家にすっから、おまえ、もう来なくていいよ」
茫然と立ち尽くすぼくに、飯島健吾はいった。いつも美甘さんが座っていたソファには平岡亘がふんぞりかえっている。
ぼくと美甘さんだけのたいせつな場所に、飯島と平岡が存在している。体内に異物が混入したような強烈な不快感。いや、おぞましい寄生虫。病原菌だ。
「ケイからこの場所きいたんだよ。こんなとこおれらに黙ってやがって。調子こいてんじゃねえ」
どうして小山田慧がこのサナトリウムのことを知っているのか。疑問におもったが、すぐあることに思い当たった。
以前、美甘さんとサナトリウムの話をしていたとき、小山田に盗み聞きされていたことがあった。おそらくそのときだ。彼のことだ、なんらかの方法でこの場所を突き止めたのだろう。
「これ、おまえが描いたの?」
平岡がぼくのスケッチブックをめくっている。そこには有名アニメの絵のほかに、美甘優の似顔絵が美少女アニメ風に何枚も描かれていた。彼はそれを一枚一枚破り捨て、それも面倒になると「気色悪っ!」とスケッチブックを放り投げた。
ぼくは無言で突っ立っていた。まるで雨風に晒された案山子みたいに。じっと彼らの顔をみつめていた。
「……なに?」
飯島はそう言うと、ぼくの頭にげんこつした。「おら、はやくうせろ。二度とくんなよ? 来たら殺すから」
ぼくはよろめきながら、飯島に向けて拳銃を構えた。ふたりは呆気にとられた顔で、こちらをみつめる。
引き金をひいた。当然、弾丸は発射されない。それでもぼくは引き金をひき続ける。
平岡はおもむろにソファから立ち上がると、全力でぼくに飛び蹴りをした。
ぼくは床に転がる。
ふたりの下卑た笑い声が、廃墟を侵食するように響いた。
サナトリウムからの帰り道、美甘優の自宅へ向かう途中だった。古ぼけたコインランドリーで彼女の姿をみつけた。
せまい店内には彼女以外に人はいない。黄色とみずいろの乾燥機がまるで宇宙船の窓みたいに整列している。ほんのりと洗剤の匂いが漂っていた。
美甘さんは丸椅子に腰掛け、お菓子を食べていた。彼女の好きなエンゼルパイ。紺色のハーフパンツから白い素足が伸び、細い脛がつやつやとしていた。足を組んで、つまさきでサンダルを弄んでいる。
美甘さん、とぼくは声をかける。
彼女は横目でこちらを見たが、すぐに足下に視線を戻した。
「なにしてるの」
ぼくは問いかけた。
「洗濯」と、彼女はこたえた。「うちの洗濯機、壊れちゃったから」
ぼくは美甘さんのまえに立った。
「返すよ」
拳銃を彼女に差し出す。
美甘さんはゆっくりと顔を上げた。
「……モデルガンだったんだね、これ」
やかましい火薬の発火音だけが鳴るモデルガンだった。
彼女は無言でそれを受け取る。
「真夜中に散歩したとき飲み屋のトイレで拾ったって話、あれ、嘘だったの?」
手にしたおもちゃの銃を、美甘さんはじっとみつめている。
「そんなモデルガンでおれを脅してたの? そんなおもちゃで悪い奴をやっつけるって言ってたの?」
ささやき声がきこえた。
「え?」と、ぼくは聞き返す。
バカじゃない。
溜め息のような声。
「あたりまえでしょ? ホンモノのわけないじゃん」
あきれ果てた表情で彼女はいった。「ホンモノの銃がそんなとこに落ちてるわけないじゃん。っていうか、ちょっと考えればわかるでしょ?」
そのとおりだった。考えればわかった。
偽物だったからこそ、彼女はそれを隠しもせず手にしたまま街中を歩いたし、図書館で調べようとしたときも積極的じゃなかった。
「……どうしてそんなことしたの?」
「こわがってる市川くんの情けない顔がバカみたいで、笑えるから」
彼女は小山田慧と同じことを口にした。
笑える。
「それぐらい笑わせてくれたっていいじゃん。市川くんは、あたしにひどいことしたんだから」
乾燥機が止まった。通知音が鳴る。洗濯物が乾いたようだ。
「おれ、それで小山田を殺そうとしたんだ」
美甘さんは怪訝な表情で小首をかしげた。
ぼくは科学技術館でのできごとを彼女に語った。
「おれ、撃てなかった。あいつのこと、すごい嫌いで、殺してやりたいくらいだったけど、でも、撃てなかった。すごいこわかったんだ……」
美甘さんは憐れむような目でぼくをみた。
「おもちゃなのに?」
そして、にわかに笑い出す。「おもちゃの鉄砲で小山田くん殺そうとしたの? おもしろーい! ほんとバカだね!」
おなかを抱え、両足をばたばたとかく。「そんなバカすぎるから、市川くんはいつまでもいじめられるんだよ。なにもできないゴミクズなんだよ」
そうだ、とぼくはいった。
「おれはゴミクズなんだ……」
美甘さんは笑うのをやめ、眉をひそめる。
「おれたちの秘密結社も、飯島たちに荒らされてた。乗っ取られてた。おれはゴミクズだからなにもできなかった」
言いながら、はらりと涙が落ちる。
「そう、あんたはゴミクズなの。くやしかったら鉄砲なんてつかわないで、自分のちからでなんとかしてみろよ」
なにも言い返せず俯いているぼくに、彼女は苛立たしげにため息をつく。
「鉄砲もモデルガンだってわかったし、もういいでしょ? あたしに関わんなくて」
ごっこ遊びはもう終わりだよ。
美甘さんは立ち上がると、乾燥機の蓋を開けた。中から洗濯物を取り出し、乱暴にビニールバッグへ詰め込む。
「もう二度と話しかけてこないでね」
そういったあと、「さっさと死んじゃえ、ゴミクズ」と吐き捨て、そそくさとコインランドリーを出て行った。
その日から美甘優は学校へ姿をあらわさなくなった。
無断欠席らしい。ふたたび登校拒否が始まったのだろうと、クラスメイトは誰ひとりとして気に留めていない。
「おまえさあ、生き物殺しておいて、悪いとか思わねえの?」と飯島がいった。
休み時間、つくえに突っ伏していると、突然に蹴飛ばされた。
「ちっとは反省しろよ」
平岡もいた。
「つーか、死んで詫びろ」
つくえの上には便箋が載っている。わざわざ購入してきたのか、『御霊前』と記されたお葬式に使うような封筒もあった。
「遺書、書いとこうか?」
小山田はそういうと、ぼくの手元にボールペンを置いた。
ぼくはゆっくりと顔を上げ、彼をみつめる。
「書き方わからない?」と、小山田は首を傾げた。穏やかな笑みを浮かべている。
「『猫ちゃんを殺してしまってボクはとっても反省しています。みなさん本当にごめんなさい。猫ちゃんに謝るためボクも天国へ行きます。さようなら』って書くといいよ?」
小山田たち三人のほかにも、遠巻きにクラスメイトたちが好奇の笑みを浮かべながらこちらを眺めている。
「さっさと書けよ! 遺書!」と飯島が喚く。
イーショ! イーショ! と煽りたてる。
「はやく書け、包茎!」
ホ・ウ・ケイ! ホ・ウ・ケイ!
あたらしい玩具をみつけた子どものように、男子数人が集まってきた。手拍子をしながらの大合唱が始まる。
「死ねばいいのに」と、誰かがつぶやく。すると今度は「包茎」が「死ね」に変わった。
シーネ! シーネ! シーネ! シーネ!
「自殺しろ!」
ジーサーツ! ジーサーツ!
あっ、それ。あっ、それそれ。飯島が間抜けヅラのふざけた動きで合いの手を入れる。腹を抱えて笑っていた。小山田も平岡も。いや、クラスメイト全員が嘲笑っていた。
こいつらはなにものなんだ?
こんなことをして、いったいなにがおもしろいんだ?
窓の外では太陽のひかりが燦々と街に降り注いでいる。
平和な世界。
「きみが虐められるのは、『その世界の住人』として生まれ落ちたのが悪い」
小山田の言葉がよみがえる。
これからさき、こんなことが死ぬまで続けられるのだろうか。こんな理不尽で不条理なことがいつまでも起きるのだろうか。
ぼくはポケットにナイフを忍ばせていた。科学技術館で小山田に押しつけられた折りたたみ式のナイフ。ポケットの中でそれをつよく握りしめる。
――もうやめにするのだ。ぼくを、こいつらを、この平和な世界を。
何気なくというように、小山田がこちらから視線を逸らす。
その瞬間、彼の顔から薄ら笑いが消えた。まるで色が抜け落ちるように。潮が引くように。無表情になにかを見つめたまま彫刻のようにかたまる。
どうした……?
怪訝におもったとき、とつぜん小山田が弾けるように動き出した。飯島を突き飛ばし、窓側に転がり込む。
同時にけたたましい破裂音が教室中にこだました。
ぼくはおもわず身をすくめ、きつくまぶたを閉じる。教室に溢れていたおしゃべりが強制的に遮断され、一瞬の沈黙のあと、どよめきが沸いた。
目を開けると、飯島健吾の顔がそこに浮かんでいた。とぼけたような間の抜けた表情。彼の身体は糸が切れた操り人形みたいに頽れた。
ぼくはすばやく音がした方向、小山田がさきほど顔を向けていた場所をふりむいた。
教室の前方、出入り口付近に制服姿の美甘優が立っている。
拳銃を持っていた。
彼女はそれを両手で構え、こちらへゆっくり歩いてくる。
平岡亘は困惑した表情で、倒れた飯島と歩み寄ってくる美甘さんを交互にみている。混乱しているのか、ひきつった笑みをくちびるにはりつかせている。
そこへ容赦なく銃声がとどろいた。
平岡の首元から真っ赤な血煙があがり、ふっとばされたように転倒した。身体がつくえにぶつかる。教科書がばさばさと落ちた。
「は? なに?」
「え? ちょ、なに?」
状況を読み込めず、生徒たちが皆一様に唖然とした表情をうかべている。
平岡は血があふれだす首を押さえながら痙攣し、まるで詰まった排水溝のような音を喉奥から吐き出している。
なんだ? いったいなにが起こっている?
美甘さんが拳銃を撃った? いや、だけど、あの拳銃は偽物だったのではないか。モデルガンだったはずだ。
ぼくはつくえに視線をおとした。白い便箋と葬式の封筒、そして自分の手の甲に赤い飛沫が付着している。
なんだろう、これは。
足下には飯島がボロぞうきんのように横臥し、うつ伏せの平岡からは大量の血液が流れ出している。生臭いにおいが鼻腔をかすめた。
美甘さんが地べたに転がったふたりの傍までやってきた。
「痛いよう……、痛いよう……」という譫言が線香の煙のように立ちのぼる。美甘さんはその呻き声に向けて拳銃を発砲した。強烈な破裂音とともに血飛沫があがり、ぼくはおもわず仰け反る。鼓膜が痺れ、耳の中に綿をつめこまれたようだ。
女子の金切り声が響いた。
それが呼び水となり、いっきに教室が阿鼻叫喚となった。みんなが悲鳴をあげて逃げ惑い、出入り口へ殺到する。
小山田は尻餅をつき、その一部始終をみつめていた。美甘さんは彼に銃口を向ける。
途端、彼は座席の陰に飛び込むように転がり込んだ。
銃声が耳をつんざく。
小山田はすぐに立ち上がると中腰のまま教室を駆けた。
生徒を押しのけ、つくえにぶつかり、椅子がひっくりかえる。缶ペンケースが落下して中身がぶちまけられる。
拳銃をかまえた美甘さんは彼を追い詰める。
一発、二発と射撃しながら、座席の合間をゆっくり歩いていく。引き金がひかれるたび、空薬莢がポップコーンみたいに弾け飛ぶ。
銃弾に窓ガラスが割れた。逃走する生徒たちの群れから喚声があがった。「ちょ、やべえ! やべえって!」喚きながら右往左往する男子。「だれか先生呼んできて!」頭を抱えてしゃがみ込む女子。
美甘さんはスカートをはためかせ駆け出した。
狙いは小山田慧、ただひとり。
なにもかもがスローモーションのようにみえた。悲鳴にあふれた教室に、無数のプリント用紙や埃、ガラス片がきらきらとライスシャワーのように舞っている。雨を逆再生したみたいに天井へ降って、なにもかも目映く輝いている。
そのとき、ぼくはみた。
小山田慧の顔を。
その表情を。
笑っていた。
彼は目をらんらんと光らせていた。楽しくて仕方がないというように無邪気な笑みを浮かべていた。幸福の真っ只中にいるように全身から喜びを発散していた。
そんな彼に向けて、美甘優は発砲する。
あと一歩で廊下というところで、小山田が前のめりに両手を床についた。
ついに銃弾が命中したのか。
いや、ちがう。躓いたのだ。彼は転倒しながら、そのまま傍にいた女子生徒のふくらはぎをつかんだ。縋りつくように両足に抱きつく。彼女は悲鳴を上げ、バランスを崩した。
水谷紗希子だ。
美甘さんは足を止めた。小山田に照準を合わせる。
「やめてええっ!」
水谷さんが叫ぶ。
小山田は咄嗟に水谷さんの髪を乱暴につかみ、むりやり自分のからだに引っ張り込んだ。彼女の身体を盾にするように。
銃声が響く。
水谷さんは反射的に両手で顔を庇ったが、弾丸は腕を貫通しておなかに着弾した。長い黒髪がばさりと踊る。ついで二発目の発砲音。ロッカーに鮮血が飛び散る。彼女は小山田に覆いかぶさるようにして頽れた。
水谷さんは盾にはならなかった。小山田の計略を裏切るように、銃弾は彼女を貫いて彼にも命中したようだった。水谷さんと折り重なるように倒れ込んだ。
美甘さんは拳銃を突きつけたまま、うつぶせに崩れた小山田を見下ろす。銃口から白く硝煙が漂っている。
彼はぴくりとも動かない。身体の下から静かに血液がひろがる。
真っ赤な色が網膜に焼きつく。
不意に、小学五年生の小山田の姿があらわれた。
小山田の自宅へ遊びに行ったこと。ぼくがゲームを攻略するのを、感心して眺める顔。いっしょに『キングレオ』で遊んだこと。母親を語るときの悲しげな表情。家出を決意したとき、坂の下にひろがる街明かりに呆然と立ち尽くす姿。実際ぼくがみたわけでもないのに、そんな姿までも脳裏にありありと浮かぶ。
暗い部屋、殺意を秘めながらテレビゲームをする彼の背中。包丁で自分の肌を傷つける苦悶の表情。上半身裸で窓辺に立つ、天使のような姿。風にカーテンがひるがえり、たゆたう春の甘い香り。ひかりのなかで微笑む、小山田。
小山田慧は死んだ。
それを確認すると、美甘優はゆっくりと拳銃を下ろした。
休み時間の終了をしらせる予鈴が鳴る。
この状況に相応しくない、なんとも長閑な音色。鬼ごっこの終了を告げているようだった。
チャイムが鳴り終わった頃、遅刻してきた愚かな生徒のように、加賀先生が血相を変えて教室へ飛び込んできた。驚愕した表情。なにかを叫ぼうと口をひらくが、そこから声は出ない。
彼は教室を見渡す。転がっている飯島からもう呻き声はきこえない。平岡の指先も動かない。折り重なる水谷紗希子と小山田慧、そして、教室のまんなかに突っ立っている美甘優をみとめた。彼女へむかってふらふらと歩み寄る。
美甘さんはうつむき、脱力したように動かない。長い髪が顔を隠している。
先生は美甘さんの正面に立ちはだかると、おそるおそる彼女の腕をつかんだ。
「……おまえは」と痰のからんだ声がきこえた。
美甘さんがゆっくりと顔をあげる。
「どういう――」
足下でけたたましい破裂音がとどろき、先生は股間を蹴り上げられたように竦みあがった。蹌踉めきながら地面へ膝をつこうとする彼を、彼女はおもいきり蹴り飛ばし、さらに弾丸を撃ち込んだ。先生はコサックダンスを踊るように宙で足をかくと、座席の合間に派手な音を立ててひっくりかえった。
もうどこからも悲鳴はきこえない。奇妙な静寂がおとずれる。
生徒たちは全員教室から逃げ出して、気がつけば着席しているのはぼくだけだった。座席は乱れて、ひっくりかえり、床には教科書や筆記用具、脱げてしまった誰かのうわばきやガラス片が散らばっている。その合間を真っ赤な血液が枝割れしながら流れていた。そんな殺伐とした風景の中、ぼくだけがこれからはじまる授業を待つように自分の席に座っていた。
美甘さんは踵を返し、ぼくの席までやってきた。
ぼくはそっと顔を上げる。
彼女がこちらを見下ろしていた。困ったようにまゆげを下げ、ふるえる睫毛の影が涙袋に落ちている。瞳が潤んでいた。
「市川くんの嫌いなやつ、みんな殺してあげたよ」そういって首を傾げる。さらさらと長い髪がながれた。
「……ねえ、うれしい?」
ほっぺたとブラウスには血飛沫が飛んでいる。もはや誰の血液なのかもわからない。
「……どうして」と、ぼくは呻くようにいった。
美甘さんはおもむろに銃口を自分のこめかみに向けた。そして、「市川くん、ありがとう、おもしろかったよ」といった。
「やめろおおおっ!」
ぼくは咄嗟に椅子をひき、猛然と立ち上がる。前のめりになり、ひったくるように彼女の手首をつかんだ。
同時に引き金がひかれた。
しかし、なにもおこらない。
「……あれ?」
美甘さんはまばたきする。「弾、なくなっちゃった」
そうつぶやくと、手から拳銃がすべり落ちた。
ぼくは安堵のあまり机に両手をつき、おもわずうなだれた。全身の血の気が引き、涙がにじむ。
割れた窓から風が吹き込み、くすんだクリーム色のカーテンがふくらんだ。
陽光がたっぷりと射し込み、光の中を埃が黄金色に舞っている。窓には青空が映っていた。雲といっしょに飛行船がゆっくり飛んでいるのがみえる。
すべてがおわった。
なにもかもが。
そうおもったときだった。
背後で物音がした。
とつぜん、小山田慧の体が動き出した。
毛布をはね除けるようにして水谷さんを乱暴に退かし、彼はすっくと立ち上がった。
さすがに美甘さんも予想外のことで驚いた表情だ。反応できずにいる。
小山田は凝りをほぐすように首を軽くならしながら、こちらへ向かってまっすぐ歩いてくる。
愕然とした。
被弾していなかったのか。銃弾は水谷さんの肉体で止まり、小山田には届いていなかったようだ。白いワイシャツが血に濡れているが、おそらく彼のものではない。
あいつは死んだふりをしていたのだ。
なにごともなかったかのように飄々と美甘さんの目の前までやってくると、無言で彼女の頰を殴りつけた。すかさず、よろける彼女の胸ぐらを乱暴につかみ、顔面に頭突きをする。
「ざんねん。もう少しだったね?」
小山田は声もなく笑っている。無邪気な笑顔。
美甘さんは抵抗しない。弛緩したようにだらりと両腕を下げている。鼻血が垂れていた。
「まったくホントに、よくやってくれたよ」
彼は微笑みながら彼女の胸ぐらを荒々しくねじり上げる。ブラウスがつり上がり、彼女のおなかが露出する。柔らかそうな真っ白い肌。ちいさな切れ目のような臍。その白いおなかに、鋭くこぶしを突き立てた。「うっ!」と呻き声が漏れ、美甘さんの表情が苦痛に歪む。
――そこで、ぼくの思考が霞んだ。
気がつけば、喉が裂けるほどの奇声を発しながら小山田を突き飛ばしていた。
彼は脇腹をおさえながら、ぐらりと後ずさりする。
ぼくは手にしたナイフを彼の足下へ投げつけた。
赤く滲み出す腹部をおさえながら、小山田は屈み込む。ニコニコと満面の笑みを浮かべながら、「クソ虫……」と憎々しげに言葉を吐いた。
驚いてまばたきする美甘さんの手首をつかみ、ぼくはそのまま駆け出した。
教室を飛び出す。
廊下には教室から逃げ出してきたクラスメイトや、騒ぎを聞きつけた他クラスの生徒たちであふれていた。ほとんどの者が、いったい今なにが起きているのか正確に把握できていないようである。騒ぎを起こした当事者のぼくらが通ってもだれも気に留めない。
ぼくは美甘さんの手をしっかりと握って人混みを駆け抜ける。無我夢中だった。途中、青ざめた学年主任をはじめとする数人の教師たちとすれ違う。
階段を駆け下りて、昇降口までやってきた。
一階は静かなものだった。上階の騒ぎにまだ気がついていないのだろうか、どの教室も平穏に授業を行っている気配がする。
ぼくは下駄箱でうわばきから運動靴に履き替えた。
「美甘さんも急いで」
「どこいくの」
彼女は棒立ちだった。
「逃げるんだよ」
「だから、どこに」
「わかんないよ。でも、このままだったら捕まっちゃうだろ」
美甘さんはきょとんとした。
「……いいよ、べつに」
なげやりな言葉に頭がかっと熱くなる。
「よくねえよ!」
誰もいない昇降口に声が反響した。自分でもびっくりするくらいの大声。「はやく靴履けって!」
怒鳴ってしまってから、まずいとおもった。乱暴な言い方だったから。
だけど美甘さんはおとなしく自分の下駄箱へ行った。
ぼくらは校舎を出て、遊歩道を走る。
石畳に木漏れ日がおちていた。風はやわらかく額を撫で、花壇の花をゆらしている。
校門を出て、しばらく走ったところで歩を緩めた。
「あの、美甘さん、鼻血が……」
右の鼻の穴から血が滴っている。ぼくは足を止めてポケットからハンカチを取り出し、彼女に差し出す。だけど、彼女はそれを受け取らない。
「ごめん、ちょっといい?」そのままにしておくわけにもいかない。ぼくはハンカチで彼女の鼻血を遠慮がちにぬぐう。
「……だ、だいじょうぶ?」
美甘さんはなにもこたえず、されるがままじっとしていた。鼻を拭われているあいだ睨むような上目遣いでこちらを見つめている。なんだか目のやり場に困った。
これからどうすればいいのか。
ふたりとも制服姿だ。警察の目にとまったらまずい。平日の昼間に中学生がうろついていれば、たとえなにもなくたって補導されてしまう。なにより美甘さんのブラウスには返り血が散っていた。一旦、帰宅して着替えた方がいいだろうか。
「いこう」
なにひとつ考えはまとまらなかったけど、ぼくは美甘さんの手をひいて、ふたたび歩き出した。
幹線道路へ出た。歩道橋をわたりながら街を見下ろす。歩道をちいさな女の子とその母親が手をつないで歩いていた。信号機が赤に変わると軽自動車が緩やかに停止する。青空にはアドバルーンが漂っていた。教室での惨状が嘘のように牧歌的な風景がひろがっていた。
しかしすぐにそれを壊すように、遠くからサイレンの音がきこえてくる。
やがて歩道橋の下の国道を、何台ものパトカーや救急車、消防車がせわしなく走り抜けていった。
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