ボディ・ランゲージ

麻根重次

ボディ・ランゲージ

 男は革張りのくたびれたソファに足を投げ出して座り込み、深いため息をひとつついた。


 とりあえず今日やるべき仕事は済んだ。それだけでもひとつ心が軽くなる筈だった。それなのに何だろうか、この落ち着かない気分は。


 まるで腹の中で無数の昆虫が這いまわっているような、或いは飲み過ぎた翌日にようやく酒が抜けてきて、しかしまだ本調子には至らない、そんな時のような、何とも言えない気分の悪さがあった。


 閉め切ったカーテンの向こうには、都会の眠らない夜の灯りが瞬いていることだろう。タワーマンションとは呼べないまでも、それなりの高さのあるこの住まいからは、街のかなりの範囲が見渡せる。

 それが気に入って購入した部屋なのに、気が付けばもう何年も夜景など見ていないことに男は気付き、ふと自嘲気味に笑った。


 思えば彼女とうまくいかなくなってからというもの、余計に景色など見る余裕がなくなっていた。


 彼女――礼香は今頃どうしているだろうか。きっと俺を恨んでいることだろう。どちらが悪かったのか、今となってはもうわからない。

 ただ、男の夢の中に出てくるたびに礼香は男を強く非難してきた。そのことは深層心理の中で、本当は自分が悪かったのだ、と考えていることを嫌でも男に思い知らせてくるようで大層気が滅入った。

 


 初めて礼香と出会ったのは取引先の会社の応接室だった。

 代り映えのしないいつものルート営業。いわば現代の御用聞きといえるこの退屈な仕事の最中にあって、礼香は男の心に熱い何かを呼び起こしてくれたのだ。


 その会社に新卒で入ったばかりだという礼香は、一介の営業マンに過ぎない男にも丁寧な態度でお茶を運んでくれた。後で聞けば、お茶出しはその時がまだ3回目だったそうで、随分緊張していたらしい。


 飛びぬけて美人だとは言えないが、ぱっちりとした大きな目と、笑ったときにできるえくぼが可愛らしかった。どことなく初々しくて、少しぎこちない所作も、男の目には好ましく映った。そんな礼香に男は一目で惚れ込んだ。


 30歳を迎えたばかりの自分とは少し年齢差があるな、ということには最初から気づいていたが、訪問の度に少しずつ打ち解けていく感触は、学生の頃の甘酸っぱい恋愛を思い出してとても気分がよかったものだ。


 やがてプライベートでの食事の約束を取り付けた時には年甲斐もなく舞い上がってしまい、寝付けないままに一晩でワインを1本空にしてしまったのを未だに覚えている。


 二人の関係はやがて友人を超え、特別なものになった。

 何度もデートをし、身体を重ねた。喧嘩もしたが大概のことは水に流してうまくいっていた筈だった。

 だが、あの一件がその関係を全て台無しにしてしまった。



 男はもう一度ため息をつき、重い身体を無理やり起こしてキッチンへと向かった。頭を冷やした方がいい。色々考え出すと、つい余計なことまで思い出してしまう。もう終わったことなのだ。今更取り返しなどつくはずもない。


 単身者用の小型の冷蔵庫を開けると、中はほとんど一杯だった。男は舌打ちをしながらビールをひと缶探し当てると、それを持って椅子に腰かけた。

 疲労からか、それとも缶の周囲が濡れているせいか、プルトップがうまく開かない。しばらく格闘した後、ようやくプシュ、と音を立ててビールの飛沫が少し噴き出した。


 ひと息に半分ほどを流し込む。だがほんの数秒前まで期待していたほどに美味くは感じなかった。いやに金臭さが鼻につく。顔をしかめながらももう一口飲み、男はこれからのことを考えた。


 幸いにも明日は仕事が休みだ。天気も悪くないし、一日かけてあちこち車で回ることはできそうだ。肌寒くて遠出をするにはいい季節とはいえないが、それは逆に海にも山にもひとけがないということを意味する。

 こんなときに人混みの中へ出かけて行くのはごめんだった。

 


 思えばきっかけとなったのも、ドライブ中の車の中だった。

 はじめはほんの些細なことだったのだ。その日、男は昼食に美味いイタリアンの店を予約していた。少し遠出だったがネット上でも人気の店で、予約が取りにくいことでも有名だった。ちょっとしたサプライズのつもりで、礼香にはその店のことを伝えてはいなかった。


 店までもう少し、というところまできて、男が昼食について切り出そうとしたときだった。礼香は、実は、と少し嬉しそうな顔で鞄から包みを取り出した。


「ほら、お弁当作ってきたの。どこか景色のいいところで食べようよ」


 あの時、男が素直に受け入れて、店の予約をキャンセルすればよかったのかもしれない。だが男は少し眉を顰め、予約を入れてあること、弁当を作るなら最初からそう行って欲しかったこと、せっかく取れた予約を無駄にしたくないことを、グズグズと並べ立ててしまった。

 それを聞いて礼香は怒り、じゃあ一人で行って来ればいいでしょ、と言い放った。


 その後の車内は最悪の雰囲気だった。売り言葉に買い言葉、これまで密かに水面下に貯めこんでいたものがお互いに噴き出したかのように、相手を非難するための言葉の応酬が続いた。結局レストランの予約も、礼香の弁当も両方無駄になったのは覚えている。



 礼香の顔を潰してしまったのだ。それは間違いない。

 こうして考えてみれば、確かに最初に謝るべきは自分だった。それでも、と男は思い直す。あの喧嘩はきっかけに過ぎない。二人の関係を終わらせたという点においては、礼香に明らかに非がある。


 飲み終わった空き缶を握りつぶし、男は少しふらつく足で立ち上がった。


 もう一度シャワーを浴びたかった。

 ついさっきもシャワーを使ったのだが、なんだか身体中が気持ち悪くて仕方が無かった。ここのところ部屋の掃除をさぼっていたせいかもしれない。

 元々綺麗好きだったが、最近は気分が滅入っていたせいか、まるでやる気が起こらなかったのだ。だがこうも汚れてしまってはもう見てみぬふりもできない。


 明日、ドライブから帰ってきたら大がかりな掃除をしなければ、と男は心に決め、風呂場へと向かった。



 シャワーを浴びているとまた礼香とのことがフラッシュバックする。

 大喧嘩をしたドライブデートからひと月ほど、二人の仲は疎遠になっていた。お互いに自分から謝ろうとしなかったこともあったが、タイミング悪く男の仕事が急に忙しくなったこともあった。


 その頃、男は配置転換により、営業職を離れて設計部門へと回されていた。礼香の会社を訪れるチャンスもなく、男は毎晩遅くまでパソコンと格闘していた。

 夕食は近くのコンビニで買った弁当。それを食べればあとは朝まで泥のように眠る日々。世間ではデスマーチなどと呼ぶらしいが、まさしく死に向かって行軍しているかのような気分だった。


 ようやく納品を迎え、久しぶりに早く帰れることになった日、男は覚悟を決めて礼香の家を訪ねた。謝罪するつもりだったのだ。玄関の前で一呼吸入れると、インターホンを押す。しかし反応はなかった。


 留守か、と落胆しかけた男の耳に、声が聞こえてきた。それは微かではあったが、明らかに自分にも何度も聞き覚えのある女の淫靡な声だった。

 まさか、という思いと、聞き間違いだ、という思いが一瞬にして交錯する。


 恐る恐る玄関のノブに手をかけると、ドアは何の抵抗もなく開いた。そしてワンルームの部屋の中からは、シャワーの音と、間違えようのない礼香の嬌声が聞こえてきたのだ。そこに混じる男性のうめき声が耳に入ったとき、男は目の前が真っ赤に染まるのを感じた。


 それから先のことは正直あまり覚えていない。思い出せるのはそれからしばらく経って別れ話を切り出したときの、礼香の不貞腐れた表情だけだ。

 あんなに可愛いと思ったふくれ面が、あの時は怒りを超えて憎悪を掻き立てる対象にしかならなかった。



 男はシャワーで浴室の床面をもう一度丹念に洗い流し、レバーを捻って湯を止めた。排水溝に吸い込まれる泡を見ながら、これでよかったのだ、と自分に言い聞かせる。


 因果応報。男はこの言葉を何度も反芻しながら胸に刻んだ。

 世の中の出来事は、全て原因があって結果がある。そして時は巻き戻せない。全てを受け止めて己の中で消化してしまうしかないのだ。


 礼香との関係を終わらせたことが正解だったのか、それとも失敗だったのか、それもまた未来になってみなければわからない。だが少なくとも、手を切ったのを後悔しないことだ。


 * 


「ええ、家の中は惨状でした。可哀想に、新人のやつなんてあれが異動してきて最初の現場でしたからね。しばらくトイレに籠ってゲーゲーやりっぱなしでしたよ」


「らしいな。どんな状態だったって?」


「被害者、伊丹礼香の身体はバラバラでした。家中のあっちこっちにそのパーツが置いてあるような感じでしてね。風呂場で解体したあと、冷蔵庫に詰めてったんでしょうが、入りきらなかったんですかね」


「そこんとこちょっと詳しく。ちゃんと報告書作らねえといかんからな」


「ええ、まずは冷蔵庫の中には両腕、下腹部、それから太股ですね、それが押し込まれてました。それからその近くには頭部。んでしょう。それとましてね、人相は全くわかりませんでしたよ」


「えげつねえなあ。それから?」


「はい、あとはソファの上に膝から下のですね、乱暴に感じで。それと最後に、胸部は風呂場に置いたままでした。でしてね。どうも「インガオウホウ」って文字に刻んだみたいです」


「なんともまあ……。よっぽど恨みがあったってことかね。それで、容疑者の様子は?」


「容疑者の三沢は今のところめぼしい証言はしていません。というか、なんだか抜け殻みたいな感じで……もしかすると精神鑑定が必要になるかもしれませんね。――おっと、もう昼だ。ちょっと失礼しますよ」


 そう言い残すと、若い刑事は立ち上がって部屋を出て行った。そういえば朝から、今日はフライドチキンが安いとかなんとか言っていたな。


 窓の方を見ると、署のすぐ向かいにあるチキンのチェーン店に入っていく姿が見える。老刑事は苦笑しながら自分の弁当を取り出して広げた。


「あんな現場の後にフライドチキンとは、な。まったく、ヤツだ」

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