出会う、僕たちの幻想の物語

 あなたに病気が見つかった。彼と同棲をはじめて、すこし経った頃のことだ。病名は、あなたと再会して一か月後に亡くなった、あなたの母親と同じものだ。病名は言いたくない。あなたを死に追いやった病魔のことなんて。何よりも重要なことはあなたがいなくなってしまったことであって、そんなのは些末なことでしかない。死にゆく恋人が美談にされるのは物語の中だけにしてくれ。いっそあなたの死も物語にしてしまって、あなたが好きだったボリス・ヴィアンの小説のように、肺の中に睡蓮を生長でもさせて、すべてをフィクションにでもしてやりたいくらいだ。だけど、これは現実だ。あなたの顔も身体も、体温も、もう知ってしまっている。



 もう……、あなたが教えてくれた、あなたとのひとつの物語に託して、僕を〈彼〉とする必要はないだろう。



 きょうは一年前、誕生日に死んだあなたの命日だ。あなたはここに来るまで、迷いに迷った、と文句を言っていたけれど、僕がここ以外に来るわけがない。あなたに会いに行くに決まっている。ここにはあなたの墓がある。だけど僕の、会いに行く、は比喩的なものでしかなかったわけだけど、まさか本当にあなたと会えるとは思っていなかった。


 ――久し振り。


 その声は、変わらないままだ。

 あなたは、ここに来るまでのことを語ってくれた。懐かしい話を色々してくれた。零時まで、あとすこししか時間がない、と焦ったように。ふたりで海水浴場に遊びに行った話や駅の待合室でオセロをした話を聞きながら、その時のあなたの気持ちを聞くのは、はじめてだったので、そんなことを思っていたんだ、と驚いていた。でも、とてもあなたらしい、とも思った。


 ――新しい恋人はできた?


 そんな寂しそうな顔、しないでくれ。僕だってこの一年、孤独な日々を過ごしてきて、自分で言うことじゃないけど、まだ心は癒えていないんだ。絵里と付き合ったんじゃないか、って……。そもそも絵里はいま、ドイツで、もう長く会ってさえいないよ。あなたが死んですこし経った頃かな。彼女、会社、やめたんだ。いや別にあなたの死は原因じゃない、と思う。何か新しいことを考えるきっかけにはなったかもしれないけど。部屋を綺麗にしているのは、きみに頼りきりだった自分を、すこしは変えようと思って……。そんな話をしているうちに、あなたの足もとあたりがぼやけているのに気付いた。


 ――あぁもうすぐ零時だ。


 ほんのわずかでもあなたに会えて良かった。これは嘘偽りのない気持ちだ。だけど別れの苦しみがもう一度やってくると思うと……。


「消えないでくれ」


 ――無理、言わないでよ。


 あなた自身もなんで、こうやってまた現世に来ることができたのかは分かっていないらしい。ただこの場所にいられるのがきょうの間だけなのは、間違いないそうだ。なにかあなたの中に特別感じるものがあるのかもしれない。


「こんなこと言ったら、女々しい、って笑われちゃうかもしれないけど、ずっと考えてたんだ。もしもきみにもう一度、会えたら、どんな話をしよう、っていうありもしない妄想なんだけど、まさか本当にそんなことが起こるとは思ってなかったよ。実際会ってみると、何を話せばいいか分からないね」


 ――最近は、何か新しいことでもはじめた?


「いや実は、小説を書いているんだ」


 ――どういう風の吹き回し。小説なんてほとんど読まないじゃない。


「ひとりの時間が多くなると、黙々とできることがやりたくなってきてね。最初は詰め将棋の本を買ってきて、解いてたりもしてたんだけど、それも飽きてきて」


 ――それにしても小説、って……本当に、意外。


「そんなに笑うなよ」


 幻か、実際にぬれているのか分からない涙を伝わらせながら、あなたが笑顔を見せる。


 ――どんな小説を書いているの?


「『人間、あるいは感情の用例』っていう、チェスをやめた天才の子と人間になった辞書の恋物語なんだけど、ね」


 ――変な話だ。チェス、好きだもんね。もしかして辞書のほうのモデル、私だったりする。


「意識したわけじゃないけど、きみが暇つぶしに辞書を読んでいた話は、作品に出てくるかな」


 ――へぇ読みたいな。


「まだ完成してないんだ」


 ――途中で書くの、やめたりしないでね。私がいつか読みに行くから。……あと三分か。カップラーメンをつくるくらいの時間しかないね。本当に、何を話せばいいんだろうね。


 そのまま会話はなくなった。


 お互い無理に話す必要がないことに気付いたからだ。あなたは僕の手を握った。あなたの手の感触はなかったけれど、確かに僕たちは触れ合っている。それは僕とあなただけが分かっていればいいことだ。


 ――ありがとう。


 最後にそう言って、あなたは消え、気付けばちらついていた雪もやんでいた。


 家に帰った僕は、ひとつの物語を書くことにした。誰に見せるわけでもない、僕だけの物語だ。タイトルは、そうだな。『めぐる、あなたの記憶の物語』とでもしておこう。


 翌日、梅の花を見つけた。冷たかったきのうとは一転して、暖かくなった風とともに、春の到来を告げているような気がした。

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めぐる、あなたの記憶の物語 サトウ・レン @ryose

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