めぐる、あなたの記憶の物語 Ⅱ
あなたたちは福井県にある小さな出版社で出会った。あなたは営業、彼は編集で、社長からはよく、性格的には逆な気もするけどな、と言われていた。従業員も十人程度の、本当に小さな会社だけど、幼い頃から本と地元の雰囲気が好きだったあなたにとっては、天職のような職場だった。もちろん仕事だから嬉しいことばかりではないし、つらいこともあったが、それを含めても、楽しい、という気持ちが勝つ場所、というのは、ありがたいものだ。
あなたと彼は同じ年に、その会社に入った。ふたりとも中途入社だった。
年齢を聞く機会もないまま、あなたは何故か、彼を年下だと勘違いしていた。原因のひとつに、彼が敬語だったこともあるが、それだけではなく、彼の外見の印象もあった。
「いつも思ってたんですけど」
と彼が言ったのは、飲み会の時だった。
「どうしたの?」
「もしかして僕のこと、年下だと思ってます?」
「弟と接している感じかな?」
あなたの言葉に、彼は困ったように笑った。
「一応、年上なんですけど……」
「えぇ、そうだったの……あぁ、いや、そうだったんですね」
「いや、もうこの感じで一年以上もやってきたわけだから、もういいですよ。いや、いまだに僕、大学生くらいに間違われるんです」
あなたと彼の年齢はひとつ違いだった。別に彼も、あなたのフランクな接し方が嫌なわけではなかった。ただ今後も長く付き合っていくうえで、勘違いがあるなら、それは解いておきたい、と思ったのだ。
彼もそのうち、あなたに対して、砕けたしゃべりかたになり、仕事仲間、というよりは、どこか友達のような関係になった。
彼は、あなたとは違って、本が好きで、その出版社に入ったわけではなかった。彼はどちらかと言えば、むかしから、チェスや将棋、囲碁といったボードゲームや、テレビゲームだとシミュレーションゲームの類を好んでいて、ほとんど本とは無縁のまま、青春時代を過ごした。特に学生時代、彼は将棋部で、地元ではちょっと名の知れた存在だった。
「なんで、出版社に入ったの?」
と、あなたが彼に聞いたのは、あなたたちの関係がもっと親密になった頃だ。彼は苦笑いを浮かべて、後頭部をかいた。
その日、あなたたちは海を訪れていた。秋の、風の冷たくなった夜の海水浴場は、とても静かだった。歩いていける距離にあるのに、あなたはいままでほとんど海に行ったことがなく、それを聞いた彼が、あなたを海へと誘ったのだ。せっかくだから、どうかな、と。
「ずっと本と関わりたくて、いまここで働いているきみや、あとはそうだな……自分の専門知識を活かして、語学書に携わっている伊藤とか、そういうのを見ていると、なんかすごく申し訳なくなるんだけど、なんとなく、だよ。たまたま求人募集があったから、前職が書店員だったから、多少知識もあったし。そんな、たいしたことのない理由だよ」
「でも、書店員になったのは、本自体に、興味あったからでしょ」
「いや正直に言うと、大学生の時にそこが近くてバイト先だったから、そのままの流れで。ちいさい本屋で、そんなに大変でもなかったから。本質的に、僕は怠け者なんだ」
「あなたはいつも自分のことを低く見せようとするけど、でも実際は違う、ってみんな分かってるよ。……まぁ最初は私も勘違いしてたんだけど」
「もしそう見えているなら嬉しいけど、たぶん書店で働いていた頃の僕は、本当に怠けた人間だった、と思うよ。いま周りからそう見えていないのだとしたら、それは環境に恵まれたんだよ。ここは良い人ばかりだから、ね」
この時のあなたは知らなかったが、彼はむかしの職場で、人間関係がうまくいっていなかった。それは例えば、明らかなブラック企業で、分かりやすい職場いじめを受けていた、という類の話ではなく、もっと言語化しにくいものだった。その職場という狭い世界だけをまとっている空気に、自分だけが疎外感を覚えてしまうような苦しみなのかもしれない。誰かに相談としても、えっそんなことで、と返されてしまうから、周囲に話すこともできず、しかし鬱屈とした気持ちはやむこともなく、降り積もっていく。
限界に来ていた頃に、彼は求人情報で、あなたと出会うことになるその出版社を見つけたのだ。
あなたがそれを知ったのは、彼と一緒に暮らしはじめたあとだ。あなたたちは、もうすぐ三十歳になろうとしていた。
彼は冗談が多くで、近いひとであっても自分の本心を隠そうとするところがあった。だからこそあなたはその話を聞いた時、本当の意味で、心を許してくれたのかな、と感じた。嬉しくて、気付けばあなたは彼の背中を抱きしめていた。
彼から告白されたのは、駅の待合室だった。
あなたは両親が離婚していて、母親は和歌山で暮らしていた。大病を患ったと聞き、あなたは久し振りに母親に会いに和歌山まで向かうことになったのだが、ひとりでは不安だった。だからあなたは、彼を誘った。あなたと再会した母親はとても嬉しそうだった。あなたは彼を、仲の良い友達、と紹介したのだが、母親は、ずっとあなたの恋人だ、と勘違いしていた。
その和歌山からの帰りだった。
お腹が空いたね、と駅に併設されているコンビニでおにぎりをいくつか買って、待合室で食べることにしたのだ。
「オセロでもしない?」
と彼が、あなたに言った。
「オセロ?」
「実は、持ってるんだ」
「なんで?」
「暇な時に、ひとりでオセロをするんだ。敵と味方、二役を自分ひとりで」
「なにそれ」
とあなたは笑った。あなたの表情が暗いことに、彼はずっと前から気付いていた。だからその表情に、彼はほっとした。
「意外と楽しいんだ。……まぁそれはいいとして、明日は休みだし、急いで帰る必要もないでしょ。やろうよ」
「強引。いいよ。どうせ帰っても、ひとりだし」
あなたたちは、オセロをすることになった。しっかりしたものではなく、ちいさなサイズの盤で、その中央に、四つの石を置く。使い慣れているのか、彼の手際はいい。あなたはそのちいさな石がうまく掴めず、何度も落としてしまった。こんなの絶対に負けるよ。変な賭けしなければ良かった、とあなたは思った。
勝負の前に、あなたたちは賭けをした。
勝ったほうは、負けた相手に、なんでもひとつだけ言うことを聞かせることができる。
彼が、ボードゲームに強いことは知っていた。勝てるはず、と勝負に乗ったわけではなく、仮に負けたとしても、彼なら変な命令はしないだろう、と思ったのだ。
黒と白のせめぎ合いは、白が優勢だった。
対局中に、あなたは言った。
「私、お母さんのこと、嫌いだったの」
「そう、なんだ……。しゃべっている感じは、そんなふうには見えなかったけど」
「そりゃあ、お互い、それなりに大人になったわけだからね。顔には出さないよ。娘の生き方にすごく口を出す母親だったんだ。たぶんお母さんは、私の人生も、自分の物だと思っていたんじゃないかな。はっきりと口にはしないけど、ね。行動を管理してきて、十代の頃の私は、不自由だった。自分はすごく自由に生きて、お父さん裏切って、不倫までしてたくせに、ね。むかしはよく思ってた。さっさと、死ねばいいのに、って」
「無理しなくていいよ。言いたくなかったら、言わなくて」
「私が勝手に言いたくて、言ってるだけだから。……なのに、なんで、だろう。もうすぐ死ぬ、って聞いてから、どうも、ね。……人間の感情、っていうのは、本当に困ったもんだ」
やがてすべてひっくり返るように、黒が白を覆い尽くしていった。
それはあまりにも意外な結果だった。
勝ったのは、あなただ。
「なんで手を抜いたの?」
「抜いてないよ」
「そんなわけないでしょ。私、二十年振りくらいにオセロしたんだよ。そんなつねに携帯しているようなひとに勝てるわけ……」
「実力ならそうかもしれないけど、盤上のゲームの勝敗を決めるのは、きっとそれだけじゃないんだよ。心の勝負に、僕は負けたんだ。対局中の、きみの姿に気を取られたんだ。たぶん」
「恥ずかしいこと、言うね。でも良いの。罰ゲームが待っているのに」
「お手柔らかに」
「やだ」あなたは、しっかりと彼を見据えた。「教えて。あなたの気持ちを」
細かくは言わなかった。それで伝わる、と思ったからだ。
「好きです」
そして彼は、あなたに告白した。
ゆっくりとあなたは彼との記憶を辿った。どれも特別な想い出だ。どこにいるかも分からない彼の姿を探して、アパートを出る。あの日の海も、待合室の駅にも行ってみた。ふたりで何度か訪れた、あのインテリアショップにも。そんなに都合よくいるはずがない、と思っていても、かすかな可能性を信じて。
一緒に暮らしはじめて過ごした日々は、陳腐な言い方だが、幸せ、としか言いようのないものだった。ずっとこんな日が続くことを、心の底から願っていた。だけど神様はいつだって気まぐれだ。
悲劇だって、奇跡だって、前触れもなく唐突に、起こしてしまうのだ。
公園に行くと、モニュメントの時計は、零時の三十分前を指し示していた。だけど見つかる気配はかすかにもなかった。
諦めよう。
あなたは、本来、自分のいるべき場所へと向かった。
なんで……。
本当に、神様はいつだって気まぐれだ。
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