めぐる、あなたの記憶の物語

サトウ・レン

めぐる、あなたの記憶の物語 Ⅰ

 ひとつの四季をへだてて、あなたはかつて住んでいたアパートを訪れた。久し振りに部屋に入ると、懐かしい景色にひとつ息をつき、だけどあなたが暮らしていた頃よりも殺風景になっていて、寂しさも萌した。福井県軽井市は、あなたが生まれてから、長い期間を過ごした慣れ親しんだ場所だ。近くに海岸のある海沿いの町が、あなたの故郷だった。春を前にして、冬を名残り惜しむかのように、降りつもった雪がまだ散見された。


 この一年、あなたは雪もない場所で過ごした。うんざりしていた雪国のかつての冬は、離れてしまったいまのあなたにとっては、幻想的で魅力のあるものになっていた。あなたはこの町がむかしは嫌いで、大人になるにつれて好きにはなっていったが、冬という季節だけは最後まで好きになれないままだった。


 いないんだ、せっかくきたのに。


 その部屋に、探していた相手の姿はなかった。とても大切なひとだ。残念な気持ちにはなるが、事前に会う約束していたわけではない。急な訪問なので彼を責めるのは筋違いだ、とあなたは思い直した。それでもやはり会いたかったかな、という気持ちは強い。


 だってきょうはあなたの誕生日だ。


 そのひとは、あなたの恋人だった。過去形にするかどうかは悩んだが、こんなに離れて過ごしていて、いまも恋人を名乗り続けるのは、さすがに図々しい気がしたのだ。


 同棲していた頃のあなたの痕跡は、あまり残っていない。前はキャビネットのうえに、ふたりで撮った写真を置いていたりもしていたが、もうあったはずの場所に、それはない。まだ彼がここに住んでいる、ということに安心はするけれど、それとは別に、不安に思っている部分もある。男性ひとりの、しかも大雑把な彼にしては、部屋はとても綺麗だ。彼の性格だったら、何着かは脱ぎ捨てた服を床に放置していても、おかしくはない。だってそのことが原因で、あなたはよく彼に怒っていたからだ。人任せにしすぎだよ、と言って。


 もしかしたら新しい恋人でもできたのだろうか。


 私以外の女に、あの浮気者、とあなたは思ったが、それがたとえ事実だとしても責める権利なんてひとつもない、とあなたは感じていた。だって彼とは、もうそういう関係ではないのだから。……と頭では分かっていても、心が理解をしてくれない。


 エリちゃんとか、かな。だったら嫌だな。


 彼とあなたの共通の知り合いであるエリちゃんは、三人一緒の会社で働いていた頃から、とても仲が良かった。仲は良かったし、決して嫌いなわけではなかったけれど、ただあなたはすこしだけ、エリちゃん、伊藤絵里に対して劣等感を持っていたのだ。あなたも素敵なひとだが、負けず劣らず絵里は魅力的で、そして社内では一番の人気者と言っても良かった。容姿の良さもあったかもしれないが、それ以上に、やりとりする相手との距離感の取り方がうまくて、みんなから好かれていたのだ。あなたは彼女とは違って人見知りで、他のひとと仲良くなるのに時間が掛かるほうだったから。それにドイツ生まれの帰国子女で、才女だった、という点でも、きみの劣等感を刺激する一因になっていたかもしれない。あなたは、あなただ、と気にしなくていいことでもあるが、でもそういったことを気にしてしまうのが人間なのかもしれない。


 まぁでもエリちゃんなら仕方ないかな。他のひとだったら、もっと嫌だ。


 隙間のすこし開いたカーテンから窓越しの景色を見ると、雪が降りはじめていた。時期的には、すこし遅めの雪がちらついている。もう時期、春だというのに。


 外はとても寒そうだ。寒がりだったあなたは、ふと寒さに文句ばかり言っていた頃を思い出す。彼は暑がりで、そんなに寒さに弱くはなかったから、余計に腹が立って、よく愚痴をこぼしていたのだ。寒い、寒い。人間、っていうのは本当に不平等にできている、と。そう言うと彼は、こっちは夏に弱いんだから、平等だよ、と笑っていた。


 明日になったら、もう会えなくなるんだから、いてよ。タイミングが悪い。


 寂しそうにつぶやくあなたの声は誰の耳にも届かない。たった一日という約束だった。いや、別にはっきりとそんな約束があったわけではないのだが、おそらくはそういうことだろう、とあなたは考えていた。ここに来るまでにだいぶ時間がかかってしまって、もう夜になってしまっている。壁掛けの時計はあなたのいた頃と変わらず、いまもそこにあった。ふたりで一緒に近くにある古風な雰囲気のインテリアショップで買ったものだ。穏やかな笑みを絶やさない女性の店員さんが、「ふたりの時間を大切に過ごしてくださいね」と言ってくれて、それがすこし気恥ずかしくも嬉しかった覚えがある。あなたたちは当時、とても初々しくて、一言添えた店員さんはきっと、ふたりのその背中を言葉で押してあげたかったのだろう。


 その時計は、夜の十一時を指し示している。

 こんなに遅くなるなんて思わなかった。あなたが福井に着いたのは、夕方の終わり頃、景色に夜の闇が混じっていた。長く暮らしたその場所も、いまのあなたにとっては異界にも等しくて、目移りしてしまったのだ。


 仕方ないのかもしれない。


 あなたが一番最初に会いたい、と思った相手は、彼だった。だけど会いたいひとは他にも何人か浮かんだ。できるなら全員の姿を見たい。遠くで暮らしていた母親はもう亡くなってしまったが、父親や妹、実家で飼っていた猫はまだ元気だったし、昔からの友達だって、会えるならば会いたい。絵里だって時間が許すならば、会いたいひとのひとりだ。そうやって色んな場所に寄るうちに、すこし余裕のあった時間はどんどん過ぎていった。


 久し振りに訪れたその景色を、あなたはもう二度と見ることできないと思っていた。そして、次にその情景を目に焼き付ける瞬間は来ないのかもしれないのだから。


 だけど……いや、だからこそ、あなたは後悔をひとつも残したくなった。

 彼と、会いたい。


 タイムリミットは、あと一時間だ。まるでシンデレラだ。魔法のような奇跡が起こって、あなたもその場所にいる。たぶんいま日本に存在する中で、一番シンデレラの気持ちが分かるのは私だろうな、とあなたは焦りながらも、そんなことを思った。


 どこにいるのだろう。


 誰かを頼ることはできない。あなたが会いたいと思っているひとはたくさんいるのに、いまあなたに会えるひとはひとりも見当たらない。あなたはまた寂しい気持ちになったが、ゆっくり沈んだ感情に浸っている暇はなかった。孤独に哀しむのは、あとでいくらでもできる。


 あなたは記憶をたどることにした。

 古い記憶の中から、いまのあなたを見つけようと思ったのだ。

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