水牢の花姫

雨色銀水

水牢の花姫


 いつかの遠い、遠い昔。

 とある場所に『華国』という国がありました。

 たくさんの花が咲き乱れ、温かい光に満ち溢れたその国。

 華国は、人々からこの世の楽園と呼ばれていました。

 そんな華国には、最も貴き宝と呼ばれるものがあります。

 それは、花の舞い散る湖畔に佇む一人の少女。

 『花姫』――彼女は、人々からそう呼ばれていました。



 花姫の周りには、いつも花が咲き乱れていました。

 花姫が歩けば、足跡に花が芽吹き。

 花姫が笑えば、つぼみが花開く。

 たとえ花が散ったとしても、花姫が目を向ければ、花弁は風に舞い続けるのです。

 だから彼女の住む湖に、花が絶えることはありません。

 美しく穏やかで、優しい花姫。

 そんな彼女を、人々は心から愛し。

 花姫も、彼女の花を愛してくれる人々を、深く愛していました。



 光溢れ、温かな華国。

 咲き乱れる花のような花姫。

 夢のように美しいそれは、同時に儚く脆いもの。

 ある日の雨の日のことです。

 華国は、唐突に終わりを迎えました。

 美しいものは奪われる。

 その言葉通り、華国の美しさに目が眩んだ者たちが、すべてを奪い去ったのです。

 光も、穏やかな緑も。優しい風も、あるときは人々すらも。

 壊され、踏みにじられ、汚され、根こそぎ奪い去られた。

 それは、絶望の光景でした。

 涙さえ残されない場所で、奪った者たちは笑います。

 それが華国の終わりの日。

 そしてそれは、花姫にとっても、終わりの日となったのでした。



 華国が奪い尽くされるのを、花姫はずっと見つめていました。

 逃げろと、そう言ってくれる人々がいました。

 けれど、花姫は湖から離れることはありません。

 愛したこの場所で、花姫は願います。

 すべてが終わるのだとしても、どうか最後まで心を散らさないで――と。

 それは儚い願いでした。

 破壊の足音が、花姫の湖に迫ります。

 それでも花姫は微笑んでいました。

 美しく穏やかで、優しい花姫のままに。

 そうして花姫の愛した花は踏みにじられ、湖に破壊の足音が響き渡り。

 花姫は――美しい花を手折るように、囚われたのでした。



 花姫を捕らえた国の王は、彼女に向かってこう言いました。

 我がものになるのならば、命は助けよう――と。

 それは拒否権のない言葉でした。

 どちらを選んでも、待っているのは終わり――。

 花姫は儚く微笑みました。

 心を殺すなら、生きる意味などありはしない。

 花姫は自分の心を選びました。

 彼女を待っていたのは――光の差さない、暗く深い水牢。



 冷たい水牢。

 光も差さず、花も咲かず、草も芽吹かない。

 そんな場所に、花姫は打ち捨てられました。

 あまりにも寒くて、寂しい場所で。

 訪れるのは、たった一人の牢番だけ。

 震える体を抱きしめながら、それでも涙は流さずに。

 花姫は、じっと時が流れるのを待っていました。

 光の差さない水牢では、朝も夜も訪れない。

 今がいつで、閉じ込められてから何日経ったのか。

 時を刻むのは、水滴が床を打つ音だけでした。

 希望など、いつの間にか消えていきます。

 絶望も、過ごすうちに薄れてしまいました。

 今、花姫に残っている想いは、たった一つ。

 穏やかに壊れゆく『諦め』だけ。

 もう二度と、あの花の咲き乱れる湖には戻れない。

 そう考えてしまうと、どうしようもなく心が震えて。

 花姫はずっと目を閉じていました。

 温かかった華国の光。

 それすらも二度と見ることの叶わない花姫。

 冷たい水牢に横たわり、目を閉じている彼女の上に。

 ある時、ふっと、温かさが落ちたのです。



 それは最初、かすかなものでした。

 目を閉じたままの花姫は、頬に触れる温かさに気付きます。

 遥か昔に忘れてしまったような、自分のものではない温度。

 遠ざかってしまった記憶を震わすそれに、花姫は目を開きました。

 そして見えた眩しいもの。

 そのものの名は――光。

 水牢の天井のわずかな隙間から、光が降り注いでいます。

 闇に慣れてしまった花姫の目には眩しすぎる光。

 けれど、花姫は体を引きずるようにして、光に近付いていきます。

 どうか。

 花姫は願います。

 どうか、消えないで。

 手を伸ばして。

 どうか、私を照らして下さい。

 流れなかったはずの涙が、花姫の頬を伝っていき。

 どうか、私を温めて――。

 花姫は、涙を流しながら光に触れました。

 あれほど、当たり前に在り続けていた光。

 それがこれほど、貴く愛おしいものだったと、花姫は初めて気付いたのです。

 光は本当に温かい。

 そのわずかなぬくもりを、花姫は。

 消えてしまうまで、ずっと抱きしめ続けていました。



 光が消えても、花姫の心にはかすかな温かさが宿っていました。

 ただ一度の光がもたらしたものが、花姫の心を生かしています。

 もう一度、あの光が見たい。

 その想いだけで、花姫は生きていくことができるのです。

 暗く冷たい水牢で、たった独り。

 それでも、花姫は目を閉じてはいませんでした。

 いつか、また、あの光が差す日が来る。

 そう思うだけで、花姫は救われるのです。

 そう、いつか。

 いつか、いつか。そう願い続けたなら、きっと。

 止まったような暗闇の中で時が巡り。

 再びまた、その日が訪れたのです。



 おそらく、その日は年に一度だけなのでしょう。

 光が天井の割れ目から降り注いで、花姫は微笑みます。

 たった一度だけの微笑でした。

 冷たく暗い水牢で耐える時間から、解放される一瞬。

 花姫は、この光を浴びるためだけに生きていました。

 止まってしまった闇の中で、たった一度だけ生き返る刹那。

 ただ、それだけのためだけに。

 花姫は生きるのです。

 いつしかそれが、花姫の生きる理由になっていったのでした。



 何度も時が巡って、何度も光が訪れて。

 そのたびに、花姫は微笑んで光を待ちました。

 光を浴び、時が過ぎるたび。

 花姫の美しさは衰え、足腰は萎え、髪は色を失っていきました。

 それでも、花姫の顔に諦めが浮かぶことはありません。

 ただ、もう一度。

 もう一度だけ、光を。

 花姫は微笑みます。

 もう一度だけ、光を浴びられたなら。

 もう動くこともできなくても、花姫は笑います。

 それが私の幸せ。

 もう一度あの光を浴びられたなら、私はもう一度、生きられる。

 何度、時が巡っても。

 光を浴びる花姫の顔には笑みがありました。

 ほんのひと時。

 されどひと時。

 ただの一瞬でも、幸せを見つけられたなら。

 生きていけるのだと、花姫は笑うのでしょう。

 巡る年月、そして、花姫は――


 ――――

 ――


 倒れ伏した花姫を、牢番はじっと見つめていました。

 かつての美しい顔も、しなやかな姿も、優しい色の髪も。

 衰え、失われた哀れな花の姫。

 そして今、その命も終わりを迎えようとしていました。

 彼女に何の罪もないことを、牢番は知っています。

 彼女がひと時、光が差すその瞬間を待っていたことを、牢番は気付いています。

 哀れで悲しい、花に愛された姫。

 もう二度と、花姫が愛した湖に戻ることはありません。

 だからこれは、許されないこと。

 牢番は、水牢の鍵を開けました。

 動くこともなく、ただそこにあるだけの花姫に歩み寄り。

 そのやせ衰えた体を、抱き上げたのです。

 花姫は何も言いませんでした。

 そんな花姫を一度だけ見て、牢番は歩きだします。

 水牢の外へ。

 花姫が望んだ、ひと時の中へ。



 温かな光が、空から降り注いでいます。

 何の変哲もない、晴れた空の光景。

 その下を牢番は歩んで、ふと、足を止めました。

 そこは、小さな花が咲き誇る、穏やかな草原。

 花姫が愛した湖にすこしだけ似た、優しい色の場所。

 その花と緑の中に、牢番は花姫を横たえました。

 花姫はじっと、目を閉じたままで。

 衰えた顔は、悲しいほどに青白く。

 何もかも終わってしまったかのように、指先は動くこともありませんでした。

 その姿は、決して美しくはありません。

 しかしそれでも、目を離せない何かが花姫を包んでいました。

 牢番の見守る先で、花姫の頬を風がなでていきます。

 乾いた目尻には、何も宿らず。

 けれど風が通り過ぎた後――花姫は、夢から覚めるように目を開いたのです。

 光が、衰えた目に降り注いで。

 花姫は、眩しそうに目を細めます。

 もう花姫を縛るものは、何もありませんでした。

 花も風も、空もそして光も。

 彼女が愛したものはすべて、彼女の前に在りました。

 花姫は、そっと目元をゆるめます。

 二度と花姫の顔は笑みを作ることはありません。

 それでも花姫が微笑んでいることは、牢番にだけはわかりました。

 空を見て、風に吹かれて、花の香りを感じて。

 遮るもののない光を浴びて、花姫は動かない手を伸ばします。

 その手が光を掴むことはなくとも、光が彼女の手を掴むことでしょう。

 花姫は優しく目元を緩めて、そして――


『幸せな、人生でした』


 牢番は、ただ一度だけうなずきました。



 そこに在ったのは、過ぎ行く時の中でたった一度だけ見つけた――

 永遠の中に咲いた、ひと時の幸せ。



【End】

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