第2話 彼氏

最初に浮かんだ言葉は、どうしよう、という言葉だった。

目の前には血の付いたナイフを持ったまま、血を流して動かなくなった元恋人のさらが横たわっていた。数日前まで一緒にいたい彼女は、今はピクリとも動かない。彼女の首には俺が挙げた銀色のネックレスがついていた。

「この前買い物に行ったとき見つけてさ。さらに似合うかなって。ちょうど一か月記だし、そのお祝いに。」

「うれしい。ありがと。一生大切にするね。」

さらとのこれまでの思い出がよみがえる。それと同時に現実感が追いついてくる。


さらを殺した。


俺の手からさらを刺したナイフが滑り落ちる。

足が震える。その震えが全身を支配するまで一瞬だった。がたがたと震えが止まらない。

胃の中身がせりあがってくる。何度もせき込みながらすべて吐き出す。吐いても、吐いても震えが止まらない。

吐くものがなくなり呼吸が落ち着いても震えは止まらない。しかし、いつまでも現実から逃げてはいられなかった。ちらとさらだったものを見る。

「どうしよう」

改めて、最初に浮かんだ言葉を口に出す。

「隠さないと」

次に出た言葉は、それだった。これまで読んできた推理小説の知識をかたっぱしから引っ張り出す。

「どうする。遺体の隠し場所は?山か海?近場なら山か?いや、近場は危ないか。なら少し遠出して。できれば車はあまり使いたくないな。今は車でばれやすい。」

いろんな考えが頭の中をめぐる。頭を回して恐怖を飲み込む。

「いや、それよりもまずは現状をどうにかしないと。床にこびりつく前に拭かないといけないな。そうすると、死体をどこに置くか決めないと。それに、服も着替えよう。返り血でまっかだ」

死体をおいておくなら浴室だろう。あそこなら血を流せる。次の行動は決まっている。しかし、体が動かない。死体を触ることに抵抗感を感じる。全身の震えも止まらないし、寒気もする。触りたくないのだ。少し前まで恋人だった相手を。その手で殺した相手を。

躊躇していた矢先、家の扉をたたく音がした。

「すいませーん。大丈夫ですかー?さっき大きい音がしましたけど。」

隣の住人だ。この二階建てボロアパートの壁は薄い。先ほどの一軒の音を聞いたのだろう。

「すいません。誰もいませんか?入りますよ?」

また声がかかる。まずい。さらが入ってきたなら鍵が開いているかもしれない。何より今はいられるのはまずい。

ふらつきながら俺は走って玄関まで行き、カギとチェーンを占める。

「す、すいません。椅子を倒してしまって。大丈夫ですから」

声が上ずる。

「本当ですか?それにしてはやけに大きな音でしたけど。それにどこか体調が悪そうよ?」

「椅子に座ったまま落ちてしまって。ほんと、大丈夫ですから」

「そお?何かあったら言ってちょうだいね」

「はい。すいませんでした」

カツカツと足音が通り過ぎていく。少し安心し、玄関のドアにもたれかかる。息が上がっていた。ずるずるとそのまま地面にへたり込む。

妙に疲れた。しんどい。震えも止まらない。呼吸も落ち着かない。

自分の座っている足元を見て異変に気付く。血だまりができている。

「あ」

自分の腹の部分を触り、温かい血がべっとりとつく。さらのではない。俺のちだと直感的に分かった。

さらは突然刺しかかってきた。それを俺は何とか防ぎ、ナイフを奪った。それで無我夢中で馬乗りになって俺は刺した。刺しまくった。起き上がってくるのが怖かった。

さらの死体はナイフを握っていた。俺が奪ったはずなのに。さらは二本目のナイフを持っていたのだ。

寒い。力が抜けていく。寒い。

「し、死にたく、ない」

助けを呼ぼうとドアノブに手をかけようとするが、力が入らずたてない。届かない。

目の前が暗くなる。

焦りが募る。死ぬ。死んでしまう。凍え死んでしまう。いやだ。いやだ。誰か助けてくれ。

死にたくなくて手を伸ばす。視界がぼやける。

助けてくれよ。死んじまう。いやだ。

さむい、さむい。

ああ、

「し、しにた、く、な

血だまりに手が落ちる音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛していました 椎名さくら @katikuika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ