9・国際テロリズム対策課

 迫田が真剣だと分かった瞬間、様々な謎が一気に解けた。

 迫田は最初から、デイビッドの命を狙っていたのだ。スタッフ三人を脅迫し、アスクレピオスを乗っ取り、中国のサイバー攻撃を装い、そして私に圧力をかけて――。

 何者かが外から監視装置を持ち込んだのではない。迫田自身がこのブレインサイトの中からすべてを操っていたのだ。

 だが、なぜ?

 なぜ、国家的な〝財産〟を殺そうとする?

 国を守るべき警察が、なぜ世界的な頭脳を消そうとする?

 中国に魂を買われたのか?

 だとしても、なぜオペ室で殺す……?

 殺すだけなら、他の場所でもできる。そもそも脳障害は切迫していた。手術を引き延ばすだけで、デイビッドは腫瘍に殺された可能性が高かったのに……?

 私の頭は激しく働いていた。だが、両腕はひとりでに動き続けていた。

 ハサミは腫瘍を切り続け、吸引管がその断片を運び出す――。医師としてなすべきこと、私でなければできないことを、ひたすら続けていた。

 同時に、迫田に話しかけていた。

「だからデイビッドは、何度も何度も殺されかけたのか……」

 迫田が囁く。

「声が大きい」

 私はあえて声を荒げた。

「みんな聞いてくれ。ここにいる公安警察の迫田は、今、私にデイビッドを殺せと命じた。この男が私に触れないようにしてくれ」

 ハサミを握った腕をわずかでも押されれば、デイビッドの脳底動脈に大穴があく。助ける術は、ほぼなくなる。そんなことはさせられない。

 スタッフの間にどよめきが広がるのを感じた。

 誰かが迫田をなじる。

「迫田さん、どういうことなんですか⁉」

 体を引き離したようだ。

 迫田は苛立ちを露わにした。

「君たちには関係ない」

「ないはずがないでしょう⁉ 私たちは、この患者を治療するためにここにいるんです!」

 私は顕微鏡を覗いたまま言った。

「なぜだ……? なぜデイビッドを殺す? 日本を守るのがあなたの仕事じゃないのか? デイビッドが死ねば、日本は窮地に追い込まれるんじゃないのか?」

「私は日本を守らなければならない。だからこそ、この手術で死んでもらわなければならないんだ……」

「だからどうしてなんだ?」

 しばらくの沈黙の後、迫田は言った。

「打ち明ければ、協力してもらえるのか?」

「バカにするな。どんな理由があろうが、患者を殺すことはできない」

「だが君は、妻を殺した」

 そうだ……。

 だがアンは、〝患者〟ではない。私の一部だ。あの時私は、医師ではなかった。アンの夫だったのだ。だからこそ、あの選択があった。

 今は、一人の医師だ。医師なら、意図して患者を殺すことなどできない。

「それがなんだ? あなたは私が罪を逃れようとしていると思っているようだが、それは違う。覚悟は決めている。むしろ、ずっと裁かれることを望んできた。裁かれれば、自由になれる。また、アンと共に生きていける」

 迫田には、私が何を言っているか理解できないだろう。それでいい。他人には踏み込んできてほしくない。

 私の両手は、神経を包み込んでしまった腫瘍を無傷で剥がすところだった。ここが剥離できれば、神経にかかっていた力がなくなって可動性が増す。術野を一気に広げられる。さらに奥深くに、分け入って行ける。

 迫田が言った。

「もう、あんたを脅迫できないことは分かっている……。公安は因果な仕事でね……いつも他人を疑っているし、いつの間にか人の弱みが見えるようになってしまう。あんたは変わった……驚いたことに、この手術の間に変わった……最初は、あんたが最後の砦だと思っていた……何もかもが失敗に終わっても、あんたに手術をさせれば、デイビッドは死ぬだろうと思っていた……」

 妻を殺して落ちぶれた、アルコール依存症の脳外科医――。

 なるほど、適任だな。

 迫田は、このブレインサイトに三人もの〝刺客〟を送り込んでいた。それでも満足せずに、念を入れて四人目まで準備していた。それが、私だ。

 確実に手術を失敗させるために選ばれた、第四の刺客。

 最後の殺人者……。

「だから私だったのか……。脅迫できる過去があるし、アル中だ。しかも、10年間も高難度の手術から離れている……こんな難手術を成功させられるはずはないと、誰でも考えるだろうな……。だから、手術に戻るように追い込んでいったのか……デイビッドを死なせるために……」私は確かに追い込まれた。そして、確かに変わった。いや、自分に戻れた。追い込まれたからこそ、戻れたのだ。皮肉なものだ。迫田が恩人だということになってしまう。「佐々木君、綿を。5かける15ミリで」

 ナースがコットンを差し出す。私は神経に小さなコットンを乗せて保護し、そっと脇に寄せた。髄液の液面がすこし上昇してきている。吸引する。

 迫田は言った。

「すべてを話そう。その上で、決めてくれ」

「結論は出ている。患者を殺すようなことはしない」

「問題はデイビッドじゃない。メタンハイドレートなんだ」

 なんだ?

 メタンハイドレート?

「分からない。何を言っている?」

「日本は、自前の資源など持ってはいけないんだ。原発が満足に稼働していない今、年間数兆円の原油購入代金が余分に石油メジャーに流れている。原発リスクが過剰に煽られているのは資本流出を正当化するためだ。メタンハイドレートは、この利権を破壊しかねない」

 メタンハイドレートは海底の低温、高圧下で固体化したメタンガスだ。溶かせばそのまま天然ガスとして使用できる。その資源が、日本の領海の海底に大量に埋蔵されているという。

 だが、それがデイビッドとどんな関係がある?

「だから、それがどうして⁉」

「メタンハイドレート開発が成功してこの国が覚醒すれば、今度こそ潰される。世界は、日本を恐れている。かつて原爆で国を焼かれたように、今度は何もかも奪われる。二度目はない。日本人は根絶やしにされるかもしれない」

 そういうことか……。

 そのような〝意見〟があることは知っている。藍沢茂明が独立ラボの代表としてテレビで語っていたのを何度か聞いたことがある。メタンハイドレート開発に積極的ではない政府に対して自前資源の重要性を説き続けてきたのだ。

 だが、藍沢議員の活動の柱でもあるメタンハイドレート開発推進は、独立ラボ時代から官僚や学会から無視されてきた。むしろ問題視され、妨害され、マスコミまで動員して〝抹殺〟されようとさえしてきたという。そのバックには石油メジャーや、中国や韓国の暗躍があるそうだ。いわゆるグローバリストが望む世界にとっては、日本がエネルギー海外依存度を減らして真の意味で〝独立〟することが不都合だというのだ。

 かつて言われた、黄禍論とも通じる。現代にもそれは、根深く残っている。

 独立ラボという〝補助線〟を引いた瞬間に、〝公安の陰謀〟の構図がくっきりと現れた。

「あんたは藍沢議員を潰したいのか……」

 迫田は言った。

「私が、ではない。日本を必死に守ってきた〝私たち〟が、だ」

 藍沢議員はセキュリティーの専門家でもある。その尽力で日本へ招聘されたデイビッドが手術中にテロリストに殺されれば、議員の能力が疑問視される。たとえどんなに主張が正しく、首相がその意見を取り入れようとしても、〝取り巻き〟に反対されれば押し切ることは難しい。

 藍沢議員の信頼性が失墜することは、そのままメタンハイドレート開発にブレーキをかけることにつながる。

 だが、世界的な頭脳を失ってイスラエルとの関係を反故にするよりも、藍沢議員を妨害することの方が重要だというのか……?  

「なぜデイビッドの命まで奪う? 病院がテロリストの攻撃を防げなかっただけでも、藍沢議員の権威は失墜するんじゃないのか? そもそも、議員はデイビッドの警護に責任があるのか? 彼が警備の責任者なのか?」

 一度真相を明かした迫田は、もはや〝守秘義務〟を守り続ける気はなさそうだった。

「具体的な警備に責任はない。だがセキュリティーの基本計画は独立ラボ時代の藍沢議員が組んだ。危機管理の本質は、危機に瀕しても〝最も重要な価値〟を守り抜くことにある。病院が襲われてもデイビッドが死ななければ、危機管理に成功したことになる。逆に評価を高めてしまう。彼を排除するには、〝テロリストのサイバーアタック〟と〝デイビッドの死〟というカードが揃わなくてはならない。その二つが同時に起きさえすれば、直接関連していなくても構わない。日本の政策を決定している数人に、『藍沢議員は信頼に値しない』というネガティブな〝印象〟を植え付けさえすれば、それで充分だ。イスラエルとの協力体制が破綻すれば、首相を国際的に孤立させることもできる」

「だから、なぜデイビッドを殺す? それなら、はじめから藍沢議員を狙えばいいじゃないか」

「藍沢茂明は、すでにシンボル化している。藍沢茂明本人が、殺せるなら殺せというような挑戦的な言葉をマスコミで繰り返している。自分が無防備であることを、あえて公言している。その一方で、首相の信頼を得て議員になり、しかもたった数年で国会を覚醒させつつある。憲法改正の先頭にも立っている。その求心力は半端ではない。そんな男を力で潰せば、ただのシンボルが〝神〟に祭り上げられてしまう。神格化されることだけは、絶対に許せない。我々が望むのは、藍沢議員が打ちのめされて静かに表舞台から消え去っていくことだ」

「だが、デイビッドは1000億円もの価値がある頭脳なんだろう……? それなのに……?」

「より大きな利益のためだ。得られるものを金額に変えれば、桁が二つも三つも違う。藍沢議員は危険過ぎる」

「たったそれだけのことで、デイビッドの命を……?」

「たったそれだけ、ではない。彼の主張が世界の勢力地図を書き換える力を秘めているからだ。メタンハイドレート開発はすでに現実味を帯びている。中国も韓国もロシアも、他の大国も本腰を入れ初めている。日本は回収困難な太平洋側の調査でごまかそうとしてきたし、複雑な石油採掘技術を応用させることで時間を引き伸ばしてきた。だが、藍沢議員は日本海側の地方自治体を束ねて、表層型のメタンハイドレートを回収し始めようとしている。政府にも同調する者が増え、それを追認する試掘を実施せざるを得なくなった」

 メタンハイドレートの知識は少しは持っている。

 太平洋側は深い海底の、さらに深い地層に砂と混じって存在している場合が多い。対して日本海側は、多くが固まりとなって露出し、しかも比較的浅い海底にある。そればかりか、海底から自然に剥離してメタンプルームという柱状になって浮き上がっているという。この柱は海面に近づくに従って海中に溶けるか、蒸発してメタンガスを空中に放出しているらしい。

 メタンガスは二酸化炭素の20倍の温室効果を持つ。だから仮にこのガスを回収して燃やせれば、二酸化炭素が発生しても温暖化効果は20分の1に激減する。

 海底のメタンプルームの位置をありふれた魚群探知機で特定できる技術を開発したのも、独立ラボだ。

 そもそもメタンハイドレートは地球の活動そのものが生み出す物質で、石油などの化石燃料と違って尽きることがないとされている。地球が〝生き続ける〟限り、半永久的に供給されるらしい。しかも火山活動が活発な地域、地震が多い地域に集中して存在する。メタンプルームも、有史以前から続いている地球の活動の一つだという。

 だからこそ、メタンハイドレートは〝第四の資源〟、あるいは地球に残された〝最後のエネルギー〟だともいわれる。その資源が日本の領海や排他的経済水域の中に、いわば無尽蔵に眠っているのだ。さらに最近の研究では、メタンハイドレートの下には旧来型の天然ガスや石油資源が眠っているという可能性までが指摘されている。

 独立ラボは、日本海側の表層型を海洋土木や海底炭鉱の採掘技術で回収しようというプランを推進していた。その技術が完成できれば、熱水鉱床などの海底の鉱物資源開発にも応用できるだろう。沖縄沿岸地域では、今も新たな熱水鉱床が発見され続けている。

 日本海側や沖縄の領海内に純国産の資源が生まれれば、日本は資源大国に変わり、地方都市も活性化する。海外からのエネルギー輸入量も減らすことができる。実際に、政府が日本海側の開発にわずかな予算をつけただけで、ロシアから輸入する天然ガスの価格が下がったとも聞いたことがある。

 しかも藍沢議員は、将来はメタンハイドレートから作った天然ガスを開発途上国に安価で売ろう、あるいは無料で配布しても構わないという壮大なビジョンまで語っている。

 日本がエネルギー輸出国に転じる可能性は高い。

 石油価格のコントロールで莫大な利益をあげている石油メジャーにとっては〝悪夢〟だろう。資源の枯渇や政変に揺らいでいる中東の産油国も黙ってはいない。自分たちの権益を根底から覆す〝地殻変動〟だ。沖縄周辺の海底資源を虎視眈々と狙っている中国にとっても、あってはならない事態だ。

「だからって……」

 迫田が淡々と続ける。

「一方で首相は、財務省に反旗を翻して総選挙を強行し、逆に支持基盤を揺るがぬものにした。それどころか、我々のネガティブキャンペーンを逆手にとって財務省を解体しようとまでしている……」

「ネガティブキャンペーンだと……⁉」

「死人を出さずに事を納めるための知恵だよ。だが、今回は逆効果だった。彼らは、我々がこれまで守ってきた日本の安定を、根本から覆そうとしている。藍沢議員さえ潰せば、首相の勢いも削げる。財務省との徹底抗戦の姿勢をあからさまにしている首相を孤立させることもできる。選挙の連勝で勢いづいた首相の取り巻きも、しばらくは怯えて活動を控えるだろう」

「まさか、そんなことまで……?」

 藍沢議員の活動が世界中から危険視される――。

 不条理ではあっても、その理屈は分からないでもない。

 だがなぜ、日本の公安が彼らの言いなりになる?

 迫田の語り口では、政界や官僚の中にも〝仲間〟がいるらしい。

 彼らは、なぜ石油メジャーに迎合する?

 なぜ中国を利するような工作に加担する?

 日本の経済を強化することに、なぜ抗う?

 疑問に捕らわれながらも、私の指は、デイビッドの腫瘍のさらに深い場所を切り開いていた。

 まずい……

 予測していたよりもさらに奥に、腫瘍が広がっている……

 そっちはだめだ……

 ファンクショナルMRIのデータで見た、言語中枢の塊がある方向だ……

 放っておけば、言葉を失う恐れもある……

 ギリギリまで腫瘍を削っておかなければ、どんな悪影響を及ぼすか……。

 ここで摘出をやめるわけにはいかない。

 だが、全身麻酔下では言語機能を確認しながら手術を進めることができない。もう一度、覚醒させなければ……。すでに多くの腫瘍は取り除いたから、発作が起こる可能性は低いはずだ……。

 細かく指先を動かしながら、言った。

「田辺先生、もう一度覚醒下手術に戻りたい。言語機能の確認が必要になりました」

 麻酔医の反応は早かった。

「覚醒準備に入ります。準備は2分で終わります。覚醒が必要になったらご指示ください」

「了解」そして続けた。「迫田さん……誰がそんなことを望んでいるんだ? なぜ、日本が資源を持つことを恐れるんだ?」

 迫田はしばらく考えるように間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。

「70数年前……日本は白人たちの世界支配に抗い、奴隷に堕ちないために銃を取った。戦った相手はアジア諸国ではなく、そこを蹂躙していた欧米人だ。資源もなく、土地も小さく、科学力も遅れた、イエローモンキーの小国だったはずなのに、それでも白人たちを駆逐した。その結果、どうなった。都市を焼かれ、原爆を落とされ、女子供を虐殺され……瀕死の状態に追い込まれたじゃないか。憲法で縛られ、軍備を奪われ、情報組織を抹殺され、財閥解体で経済基盤を打ち砕かれ、虐殺者の汚名を着せられ、祖国を愛するなと教え込まれ、誇りを失くし、さらには皇籍離脱で皇室の安定を奪われ……。それでも国民が団結して必死に経済力を取り戻し、ほんの数十年で強国として再び頭角を現した。その結果どうなった。アメリカの都合で出来上がったプラザ合意でバブルが引き起こされ、バブルを強制終了させた反動で長期のデフレに突き進んだ。しかも日米構造協議で社会構造を破壊され、とてつもない円高で頭を沈められ、産業基盤が海外へと奪い去られていった。その間、日本を真に独立させようとした政治家が何人排除されていったことか……。世界は、日本が台頭した途端に、白人に都合のいいように〝ルール〟を変える。彼らにとって日本は〝脅威の国〟なんだ。殺しても殺しても頭をもたげてくる〝悪魔〟なんだ」

「日本は、国を守ろうとしただけだ」

「それでもかつては、アジアを統括する大国にのし上がった。たった数10年で植民地の独立を実現させてしまった。そんな潜在力を持っている日本が今、未来のエネルギー源と資源を独占したらどうなる? 強大な日本がまたしても復活しようとしたらどうなる? 世界の構図を変えられたくないパワーエリートたちが、結集して日本を潰しに来る。石油メジャーだけじゃない。グローバリストと呼ばれる金融マフィアやユダヤ資本、彼らにコントロールされている中国や韓国が一斉に牙を剥いてくる。地球に残る最後のエネルギーが、尽きることのないメタンハイドレートなんだ。次世代の覇権を握るためには、絶対に押さえなければならない〝ツール〟だ。その大半を日本が握ることになったら、第二次大戦後の世界秩序は逆転する。敗戦国は、リーダーになどなってはならないんだ」

 古臭い議論に思える。恐るべき速度で変化しているのは、医療の現場だけではない。

「だが、化石燃料の時代は間もなく終わる。日本は水素社会に移行しようとしているし、技術は完成されつつある。マグネシウム発電の可能性も高い。人工光合成や藻を利用して燃料を作る研究も進んでいる。太陽光や風力の変換効率も上がっている。安価に大電力を蓄電できる技術も現れ始めた。リスクを抱えながらも、原発は増えつつある。中国は数100基を増設する計画だし、英国やサウジですら新設を決めている。埋蔵エネルギー資源の支配など意味がなくなる」

「それは確かだ。だが、本格的に革新が起きるのは膨大なインフラを整えてからだ。2、30年以上は先になるだろう。21世紀の趨勢は、これからの10年で決まる。EUは分裂し、経済は落ち込む。中国は破綻する。ロシアには産業基盤がない。中東は石油の枯渇と覇権争いで消耗していく。アメリカ経済も表面上は回復しているが、膨大な債務問題は解決していない。だから、金融の引き締めにフェイズを移す他なかった。世界を潤していたドルは引き上げられ、新興国の経済も沈む。世界全体の経済が落ち込めば、唯一底堅さを保っている日本にすがるしかなくなる。何しろ日本は、20年も続いたデフレにさえ耐え抜いて、生き延びるしぶとさを身につけた国だからな。その時、日本がメタンハードレートを資源化していれば、豊富なエネルギーを使って揺らがない国家運営が可能になってしまう。水素を効率的に生産する原料にも活用できるからだ。消費税さえ必要なくなり、豊かな内需が経済をより強固にするだろう。どの国も日本に逆らえなくなる」

「日本が世界を支えればいい」

「〝彼ら〟がそんな事態を放置すると思うか?」

「彼ら……? だから、それは誰なんだ?」

 迫田は、しばらく考えてから続けた。

「……国連の正式名称はユナイテッド・ネイションズ――直訳すれば『連合国』だ。戦争に勝った国が世界を牛耳る仕組みだ。今だにヤルタ・ポツダム体制がこの世界のルールなんだ。日本が資源を手にすれば、彼らは〝超大国〟の再登場に怯え、同盟を組まざるを得ない。あらゆる場面で、日本を締め付けてくる。日本が隙を見せれば、ためらわずに『敵国条項』のカードを切るだろう。食うか食われるかの総力戦になる。今度こそ日本は完全に国を失う。どんな形であれ、次に戦うことになれば皇室の維持すら危うい。現代のカルタゴだよ……戦争でローマに破れて軍事力を奪われ、交易で復活を果たせば国ごと潰される……」

「カルタゴは、戦うことを忘れたから滅びたんじゃないのか」

「日本に〝戦え〟というのか⁉ 時代錯誤も甚だしい。しかも相手は一国ではない。ローマ帝国とは比較にならないスーパーパワーだ。資本、軍事、情報、エネルギー、食料……そのすべてを握る、得体の知れない怪物たちだ。事実、すでに彼らはこの手術室にまでやってきた」

 思わず、吸引管を操る指先が止まった。

「やってきた? ブレインサイトにか? あ、あの、中国のハッキングか⁉」

「あれは違う。病院の占拠は、私が主導した偽装工作だ。デイビッドがテロリストに殺されたように見せかける手段にすぎない。独立ラボが負けたという〝印象〟をより強固にするためだ。エルンストに連絡を取ったのはアラブかドイツの武器商人だろう。間に何人もの仲介者が入っているから、実際には誰だか分かりはしない。知ろうとすれば、私でさえ命が危ない。私は、『必ず中国の仕業だと匂わせろ』と指示しただけだ。その作戦に絡んだ全員が、デイビッドの死を願っている……」

 だから、エルンストというハッカーは中国人の仮面をかぶったのか……。だが……。

「なぜ、武器商人まで……?」

「日本が資源大国になれば、エネルギー価格での世界支配が不可能になる。本気でメタンハイドレート開発を始めれば、世界に向けてアナウンスするだけでも凄まじい破壊力が生まれる。LNG価格が下がれば、もはや原油価格の上昇は期待できない。石油をめぐる争いも無意味になるかもしれない」

「それの何が悪い⁉」

「争いがなくなれば、武器が売れない。市場が縮小して喜ぶビジネスマンはいない。だから、争いはシリア内戦へ、そしてサウジとイランの対立に移行した――いや、させられた」

「そんなことで……」中東では数多くの命が奪われ、おびただしい難民が生まれている。その一人一人が、夢や、家族や、友人や、愛する者を持つ命だ。私たち医師が救おうとしている命と、同じ重さを持っている命だ。「市場なのか……人の命が……」

 涙がにじむ。悔し涙だ。私はあまりにも無力だ。できることといえば、デイビッドを救うために力を振り絞ることだけだ……。

「デイビッドを殺すために〝彼ら〟がやったのは、手術ロボットの暴走だよ。私はテロリストの仕業に見せかけて回線を遮断する手はずを整えていた。だが、決行の直前にロボットがハッキングされてしまった。だから、しばらく様子を見ることにした。彼らの手でデイビッドが殺されるなら、それに越したことはないからな。あれはおそらく、石油メジャーから指令と資金が出た妨害工作だ。私は手術の情報は漏らしたが、米軍の回線への侵入には関わっていない。回線をコントロールできるダーパが、イスラエル側から違法アクセスしたのかもしれない。私たちとは全く別に、彼らも同じことを考え、独自にデイビッドを狙ってきたんだろう。そもそも、イスラエルの了解がなければ、あの妨害は生まれなかったはずだ」

 嘘だろう……?

「イスラエルがデイビッドを殺そうとしたというのか⁉」

「正確には知らない。だが、イスラエルとて一枚岩ではない。ウォール街の住人の多くはユダヤ人だ。BHもグローバル企業だ。〝彼ら〟こそが、今の世界を作ってきた。世界中を〝植民地〟にしてきた。彼らは平等で平和な世界など望んでいない。自分たちの優位を守り続けるためなら、母親でも売るに違いない。だから、彼らへの挑戦は許されない。日本は彼らが作った枠の中にいなければ生きられない。枠の中で、少しでも高い地位を得る――それが、国を守る責任を負った者の仕事なんだ」

 もはやデイビッドは、先鋭的な〝グローバリスト〟たちの総攻撃に晒されているということか……。

 私は言った。

「田辺先生、患者を覚醒させてください」

「分かりました」スタッフたちが覚醒の準備にかかるのを感じた。全身麻酔が解けた瞬間にてんかん発作が再発する可能性もある。その危険に備えるのだ。「1分ほどで意識が回復します」

「ありがとう」

 迫田が言った。

「デイビッドにこの話を聞かせたいのか?」

「手術を進める上で必要なだけだ。だがこれは、患者自身の問題でもある。聞かれて困るなら、黙って奥で見ていろ」

「もう一度お願いする……このまま、手術を失敗させて欲しい。スタッフ全員に、それなりの褒賞がある。当然、罪を問われることはない。日本のためなんだ。この国を存続させ続けることを考えて欲しい……」

「迫田さん……あなたは何を言っているか分かっているのか? ここは病院で、スタッフは患者の命を救うためにここにいる」冷静にならなければならない。だが、怒りは抑えられなかった。「医師や看護師を愚弄するのもいい加減にしろ!」

 迫田は叫んだ。

「日本が力をつけると世界が壊れるんだよ!」

 手術を続ける私の頭の中で、かつてサミュエル・パーカーが語った様々なことが、爆発するように広がった。

『日本は白人に支配された世界を壊そうとしたんだ』サムは、米軍の軍医だった。出会ったのは、被災者で溢れる福島の体育館だ。『そして見事に成し遂げ、新たな秩序を打ち立てる寸前にまでたどり着いた。しかし、戦略的な失敗が敗戦を招いてしまった……。だから戦後、日本は徹底して潰されたんだ――』

 サムの父はやはり軍人で、日本占領初期はGHQの下士官だったという。サムは『民度が低い日本を民主化してやったのだ』と誇る父の自慢を聞いて育った。だが、福島の災害を見たとき、父親の話を疑い始めた。サムはハリケーン・カトリーナで破壊されたニューオリンズにも派遣されていたが、その光景とのあまりもの違いに衝撃を受けたのだ。

 日本の被災地には、略奪も暴動もなかった。人々は打ちひしがれながらも整然と列を守り、常により弱い者をいたわっていた。津波で流された金庫が海岸に打ち上げられれば、中の現金は持ち主に届けられ、その総額は23億円にものぼった。

 しかも、地形が変わるほどの大災害に見舞われ、原発事故にまで襲われてもなお、日本は〝死ななかった〟。悲鳴をあげたのは、日本の〝一地方〟にすぎない東北の産業力を失った世界の方だ。世界は、日本のどんな場所であっても欠かすことができないのだという現実を突きつけられた。

 サムにとってすべてが逆転した。

 日本の民度の高さがたった数10年で作れるはずはない。まして、アメリカがそれを教えられたはずがない。父が嘘をついていた――あるいは現実を直視できないほど愚かだったという事実を知ったのだ。

 サムは米軍が被災地を去ると同時に退役し、福島に住むことを選んだ。そして日本の近現代史を研究し始めた。私は福島を離れてからもたびたびサムに会って、その〝研究成果〟を聞かされていた。

『日本は、戦争がしたかったわけじゃない。コミンテルンの陰謀で国民の側が戦意を煽られていたんだ――』

 ゾルゲ機関に属していた尾崎秀実が近衛内閣のブレーンであり、朝日新聞の記者だったことは常識だ。当時、陸海軍は戦争回避の道を模索していたが、大手新聞はこぞって〝鬼畜米英〟と叫んでいた。

『一方のアメリカも、同じだ。ハルノートを書いた財務次官補のホワイトは、ヴェノナ文書によってコミンテルンのスパイだったことが証明された。ルーズベルト自身がコミンテルンのシンパだったことも後にフーバーが暴いている。ソ連がスパイを操って、日本とアメリカを戦わせたわけだ。その結果、両者は国力を弱め、ソ連が急激に力を増して冷戦時代が訪れた。第一ラウンドを勝ち抜いたのはスターリンだったんだよ――』

 問題は第二ラウンド、つまり戦後だ。

『私の父は恥ずべきことをした。父もその仲間たちも、進んでコミンテルンの手先になっていた。だが、アメリカが日本の潜在的な力を恐れていたのも事実だ。だから徹底的に国力を削ごうとした。新憲法で核武装を封じ、公職追放で戦前の日本を支えた人材を退け、過激な左翼勢力に置き換えた。政治家、官僚、大学、マスコミは彼らが牛耳ることになった。焚書で過去を消し、検閲で情報を統制し、プレスコードでマスコミを縛り上げ、日本は残虐で犯罪的な戦争を行った野蛮な国だと繰り返した。仕上げが、東京裁判だ。南京虐殺は、でっち上げだと思う。従軍慰安婦とは戦時売春婦にすぎないだろう。プレスコードではアメリカだけではなく、中国や朝鮮の批判も禁止されていた。アメリカは中国と朝鮮を、日本の復活を阻止する〝重石〟として利用したんだ。彼らが日本に反発しているうちは、アジアを束ねて白人世界に対峙するビジョンが描けないからな。しかも戦後は大蔵官僚、財務官僚をアメリカに留学させて支配下に置き、日本の根幹を陰からコントロールしてきた。その財務省に正面切って抵抗したのは、戦後70年も経っているというのに、今の首相が初めてなんだ――』

 確かに首相は、政府内で大勢を握る〝財務省派〟に戦いを挑んだ。そして選挙という最も民主的な手段によって、風穴を開けた。

 日本は、GHQの洗脳から目を覚まし始めている。

『それでも戦争を体験した人々が生きているうちは、まだ良かった。今は負けたふりをしているだけだ……そう信じて、国家基盤の立て直しに全力を注げた。だが彼らが死んでいくと、自虐史観が再生産され、拡大され、団塊世代が政治や経済を動かしていくことになる。そして財務省が敷いた路線によって、国の形が歪められていった――』

 私も、その教育に染められた一人だ。

 自然科学の世界ではあまり意識しなかったが、東大でも人文系は左翼に占められている。しかも、その多くが政官界や法曹界、マスコミや教育界、さらに財界に進んでいる。官僚に選挙はない。財務省に進んだ東大出身者が日本の進路を定めているのなら、国民は〝行き先〟を選ぶ権利を奪われていることになってしまう。

 自虐史観に浸りきった彼らの異質さに気づかされたのは、ボランティアで〝生の日本〟に触れてからだ。

『それでも、日本はまだ日本だった。被災地には日本の真の姿があった。海外からの賞賛の視線を受けて、日本人自身がそれに気づいた。ようやく今、日本の尊厳を取り戻そうという動きが起きはじめた。ネットには、わずかに本当の情報が残っていた。それによって、中国や韓国の真の姿も暴かれてきた。本当はアメリカが何をしてきたか、かつてのソ連や中国がどんな謀略を駆使していたのかが知られ始めた。これからが、本当に日本が復活するときだ。それを待ち望んでいる国も多い』

 福山教授とともに海外を巡っていた当時は、私も似たような感触を持っていた。私たちは、どんな国でも歓迎された。それは多分、高度な医療技術を伝えていたからだけではない。日本という国そのものが、〝信頼〟され、求められていたのだ。

 東大に戻ってからの私は、そのことをすっかり忘れていた。

『歴史の浅い国々は、〝理念〟によって作られてきた。不完全ながら、アメリカは〝自由の国〟を、フランスは〝平等の国〟を目指してきた。だがそれは、いつも個と個の軋轢を生む。国家と個人の対立を生む。一方日本は、国民国家のDNAとして〝和〟の精神を育んできた。個はもちろん大事にするが、必要ならば公に殉じる覚悟を持つ。権利が全てに勝る欧米の〝利己主義〟とは違う、義務を重んじる〝利他主義〟だ。隣の中国は〝利己主義〟の権化で、生まれながらのグローバリストだといっていい。国の指導者が蓄財を目的に働き、常に国外に逃亡する準備を整えている――そんな不正がまかり通る国だと見抜かれているからこそ、中国は日本の台頭を封じる〝重石〟に利用されてきた。知れば知るほど、日本は強くなるべきだと思う。そうなれば、世界は根底から変われるかもしれない。台湾の李登輝は、「21世紀は日本の世紀になる」と予言した。私も同感だ』

 だから私は独立ラボの活動に心を揺さぶられたのだ。ただ自国が裕福になりたくて資源を求めるのではない。国を守った上で、その恩恵を世界に浸み渡らせるための開発だ。

 理念だけではなく、かつての日本はそれを実践した。

 私は迫田に尋ねた。

「デイビッドが死んだら、それで日本はどうなるというんだ……?」

「何度も窮地を切り抜けてきた首相の勢いも、今度こそ失速する。体調不良か何かの理由をつけて、〝財務省派〟に交代させられるだろう。かつて起きた〝突然の首相交代〟が繰り返されるわけだ。そして、日本単独で資源開発を進める道は塞がれる。石油メジャーやユダヤ資本が加わって、メタンハイドレートの共同開発が始まる。その動きはすでに顕在化している。東大の研究チームは、イギリスの技術を用いた採掘法を導入しようとしている。日本政府は、アラスカのメタンハイドレートをアメリカと共同開発する協定を結んだ。日本海や東シナ海に米国系を導き入れるための布石だよ。一方の英国系の石油メジャーは、中国と組んで南シナ海のメタンハイドレート利権に手を突っ込み始めた。すべて、バランスをとるための方策だ。その結果、均衡が訪れ、スーパーパワーの隙間に日本が生き残れる道が開ける。世界は、日本の暴走に怯えずにすむようになる」

「世界? あんたの世界、だろう? それならいいのか? グローバル資本を引き込めさえすれば、君たちは満足なのか?」

「そうだ。そうなれば我々日本は、欧米と利益を分け合える。共存できる。不可欠なパートナーとなり、無用な対立に怯えることもなくなる。それこそが、安全保障だ」

「つまり、今まで通り甘い利権にありつけるというわけか」

 迫田は初めて、怒りをにじませた。

「何だと⁉」

「知り合いから、日本には『敗戦利得者』というグループがいると教えられた。グローバル資本や、それに操られたアメリカや中国に媚びて、自分たちの利益を囲い込もうとする連中だ。今の日本を作ってきた者たちだ。そしておそらく、カルタゴを滅ぼした者たちだ。政治家にも、官僚にも、経済界にも、労働組合にも、マスコミにも、教育界にも……今の日本にはどんな場所にも根を張っているそうだ。つまり、あんたが代表する〝私たち〟だ。そうだろう?」

 迫田は絞り出すように答えた。口調から、苛立ちが隠せない。

「解釈などどうでもいい。大事なのは現実だ。日本は、アメリカの庇護があってようやく生き延びてこられた。飼い犬と呼びたければ呼ぶがいい。だが、軍事も情報機関も外交も、アメリカの協力がなければ何一つ機能しない。朝鮮半島で有事があっても邦人救出は米軍頼みだ。抑止力は皆無だし、ミサイル防衛も不備だらけだ。それどころか、国防を議論する土壌すら存在しない。それでも戦えというのか? 世界はすべて〝敵側〟なんだぞ?」

「世界は大きく変化している。グローバル資本が何もかも支配しているわけじゃない。アメリカやEUの激動だって、国民がアイデンティティーを守ろうとしているからこその現象だ。彼らへの反発の現れじゃないのか」

「だからこそ、なんだよ。存亡を賭けた戦いで退くわけにはいかない――彼らはそう腹を決めた。抗う者たちを一掃すべく、全力で反撃を開始している」

「そんな、勝手な……。自分たちの利益のためにまた世界を好き放題に作り変えようというのか」

「弱者は、強者に従う……。自然の理だ」

「そんなものは、日本の生き方じゃない。第二次大戦後に植民地から脱出できたのは日本のおかげだと感謝している国も多いのに……」

「だが、彼らにどんな力がある? 全てを束ねたところで、微々たるものだ。しかも、中国の金に目がくらんで容易く魂を売る。そもそも、互いに争って束ねることなどできやしない」

「グローバリズムとは違う道を模索している大国は他にもある。日本だけが孤立しているわけじゃない」

「その通りだ。インド、トルコ、ロシア――皆、彼らの手のひらから逃れようともがいている。だからこそグローバリストたちは、ポリティカルコレクトネスという〝呪文〟で人々を洗脳し、移民を兵器のように利用して国境を破壊している。今起こっているのは、石油利権争いという単純なものではない。反グローバリストたちを殲滅するための、〝最終戦争〟なんだ」

「だったらなぜ、戦っている国と力を合わせない?」

 迫田の口調が荒くなる。

「どこも自国を守るだけで精一杯だからだ! どの国も内部からグローバリストの侵食を受けている。合わせる力などろくに残されていない。日本だけが、孤立無援で戦えというのか⁉ 私は、この国が滅びないように手を打たなければならないんだ!」

 苛立つのは、図星だからだ。迫田自身が、心の底では私と同じように考えているからだ。

 そして同時に、〝敵〟の強大な力を知り尽くしているからだ……。

「その知り合いに叱られたよ。日本は世界一深く、強い根を持った国だ。たった一度戦争に負けただけで、何もかも終わった気になってはいけない。国家間の平等が実現できる国があるとすれば、それは日本だ。日本がリーダーになった世界を見せてくれ――とね」

 サムは本気だった。

「そんな夢物語が、実現できるものか。我々官僚は、現実だけを見る。その中で、最善を求める」

「だからデイビッドを殺すというのか? それがあなたの信念なのか?」

「私に背負わされた責任だ……」

 その言葉は、歯切れが悪かった。

 迫田は、苦渋を抱えている。デイビッドを殺したいと願う〝勢力〟の先兵になりながらも、疑問と迷いを感じている。自分に課せられた〝任務〟と、日本人としての〝魂〟の間で、引き裂かれている――。

 私には、そうとしか感じられなかった。

 私は、心から懇願した。

「病院を解放してくれ。ブレインサイトに電気が届くようにしてくれ。あなたなら、その権限があるんだろう?」

 電力が欲しかった。時間が欲しかった。それさえあれば、この手術を成功させる自信はある……。

 迫田さえ、同意してくれたなら……。

 迫田は吐き捨てるように言った。

「買い被るな。私はただの駒にすぎない。手術が終わってもいないのに、撤収を決める権限などない」

 無駄だったようだ。

「あくまでも妨害するというのか……?」

「妨害などしない。何もしないだけだ。医師の責任を云々するなら、最後まで自分の力だけでやり通すんだな」

 分かった。やり通してみせる。デイビッドを救ってみせる。だが、私の力ではない。

 ここにいるチームの力で、救ってみせる。

 迫田が私を説得することを諦めて、歩き出す気配があった。休憩コーナーへ向かう気らしい。

 私は、どうしても確かめたかった。

「迫田さん……。一人の男として聞きたい。あなたは、本当にデイビッドを殺したいのか?」

 迫田の足が止まる。しばらく自問したのか、長い沈黙の後に答えた。

「……デイビッドは、今まで……最高の教師であり、戦友だった……」

「ならば、なぜ……?」

 迫田はうめいた。

「それは、触れてはならない日本の病なんだよ……」

「病気なら、治せるはずだ」

「手をつければ死ぬ……そういう病だって、あるんじゃないか?」

 それは、ある。だが……。

「私は、災害の現場で日本人の底力を見てきた。日本はまだ死んでない」

「私の使命は、その日本を延命させることだ」

「それだけでいいのか? 医師は、治療のために最後の最後まで力を尽くす。あなたは、どうなんだ……?」

 迫田は答えなかった。小さな足音が去っていく。

 と、デイビッドがか細い声を漏らした。

「……お願い……僕を助けて……」

 意識を取り戻したのだ。全身麻酔がかかっていたことに気づいていないようだ。

 私は腫瘍を切り進めた。

 脳や血管に取り残されている腫瘍を、少しずつピースミール――細切れに切除していく。吸引管で吸い取り、また切り進める。作業を続けながら言った。

「デイビッド、もう大丈夫だ。すでに腫瘍の大半は取り除いた。ほら、発作は起きていないだろう?」

「え? ……そうなの? もう手術してるの……? 僕、眠ってたの……?」

「そうだ。すでに3時間以上、全身麻酔で眠っていた。だが、まだ重要な部分が残っている。一番の難関だ。こうやって話をしながら、脳底動脈から側頭葉内側にかけて癒着している最後の腫瘍を取り除きたい。残念だが、手術を妨害されて術中迅速病理ができなかった。おそらく髄膜腫グレードⅡだとは思う。年配者なら部分摘出でも諦められるが、君の若さだと近いうちに再発したり悪性転化してグレードⅢになりかねない。取り残しが多いと危険なんだ……。しくじりそうになると、言葉がおかしくなる。そこが限界だというサインだ。確認したいから、できるだけ話をしてほしい」

「でも……命は? 僕、生きていられるの……?」

「それは保証する。だが……」

「なに……?」

「まだ君の命を狙っている者がいる」

「まさか……迫田さん……?」

「なぜ分かった?」

「さっき……夢で見た……あれ、本当だったの……? あなたたちの話だったの……?」

「聞こえていたのか……」

「僕……殺されるの……?」

「迫田は、殺すと言っている」

「なぜ……?」

「長い話だ。日本と世界の歴史に絡む、長く、重い話だ。だが、直接君に関わることではない」

「関わりがないのに、殺されるの……?」

「そうしたい者たちがいる。君の頭脳は、世界に与える影響が大きすぎた。迫田は、彼らの手先に過ぎない」

「彼ら? 誰?」

「誰なんだろうな……。こいつだ、と名指しできればいいんだが。私にも本当のところは分からない。世界中に、たくさんいるようだしな。とりあえず、君が死ねば日本の領海内のメタンハイドレート利権が石油メジャーのものになるそうだ」

 意外にも、デイビッドにとっては充分な説明だったようだ。

「そういうことか……。分かるよ。僕の周りって、そんな話がゴロゴロしてるから……。手術、まだ時間がかかるんでしょう……? 全部、話してよ」

「そうだな……君には聞く権利がある」

 そして、すべてを話した。

 話しながら、デイビッドの様子を観察し、腫瘍の摘出を進めていった。さらに、1時間ほどが過ぎる――。

 周囲に、ざわめきが起きる。

 看護師が緊迫した口調で言った。

「バッテリーの赤ランプがつきました。残り約10%です」

 いよいよ恐れていた事態がやってきた。タイムリミットが迫りつつある。そろそろ撤収の準備にかからなければ、傷を塞ぐことさえできなくなる。

 急がなくては……

 多少の機能を切り捨ててでも重要な部分を取り除かなくては……

 もう少しだ……

 ここだけは取りきってしまいたい……

 そうすれば、再発の可能性も格段に減らせるはずだ……

 術野を広げなくては……

 命か、機能か……

 時間がない……

 決断するしかないな……

 助手たちの声が耳に入る。

「すごい……まだスピードが上がるのか……」

 さらに数十分が過ぎる――。

 自分の脳から炎が噴き出すのではないかはないかと思えるほど加熱した、緊迫の数十分――。

 そして、終わった……。

 傷口から吸引管とハサミを抜き、ぐったりと肩を落とした。長い溜息が漏れる。

 終わったのだ……。

 可能な限り、腫瘍は取り除いた。これ以上は、私にも手が出せない。

 まだ腫瘍は若干残っている。髄膜腫のカプセル部分の一部だ。だが、しっかり凝固しておいた。万一残存腫瘍が再増大したとしても、この部位であれば再手術でアプローチしやすい。再発を早期に発見して腫瘍が小さいうちに再手術すれば、手術難度はかなり低い。

 ただ、どうしても時間が足りなかった。残念ながら、諦めざるを得なかった神経機能があった……。

 私は椅子から立ち上がって腰を伸ばした。

 振り返ると、壁際で迫田がアスクレピオスのエンジニアに取り押さえられていた。手術の成否を見極めるために、戻ってきたようだ。

 私は闇にうっすらと浮かんだ迫田の目を見つめて言った。

「成功したよ」

 足立がゴーグルを外して手術台の前の椅子に腰を下ろす。

「閉頭は私がさせていただきます。長時間、お疲れ様でした。素晴らしい技術を見せていただいて、ありがとうございました」

 薄暗い部屋の中でも、スタッフたちが一斉に頭を下げるのが分かった。

 やり遂げられた……。

 私は、本当に医師に戻れたのだ。

 迫田がうめいた。

「やりきったのか……。どうするんだ……? この結果が日本の未来を変えるんだぞ……責任を取れるのか……?」

「医師の責任は、患者を救うことだ」

「日本が殺されるんだ……。たった一つの命にこだわったために……」

 迫田は真実を語っているのかもしれない。だが私には、他に選べる道はなかった。医師なら、皆、同じはずだ。

「そうかもしれない。そうはならないかもしれない。それを決めるのは、私じゃない。君たちでもない。日本の国民だ。私は、この国の力を信じている」

「君は気楽でいい。そうやっていつでも責任を投げ出せるんだからな……」

 迫田は、ミスを犯したことを責められるのだろう。失うものも大きいのだろう。

 まさか殺されはしないと思うが、それすら確信は持てない……。

「医師の仕事は終わった。デイビッドを殺すことがあんたの仕事だというなら、自分自身で手を下すことだな。デイビッドの目を見ながら、あんたが、自分のその手で殺せ。ただし、私も、ここのスタッフも、あんたが何をしようとしたか知っている。戦略デスクでもすべてを見ている。それを隠せるか? どうやって? 全員を殺すか? あんた一人で殺せるか? みんな抵抗するぞ。仲間を呼ぶのか? それでもやるなら、やるがいい。それがあんたの信念なら、それを貫け。我々は、医師の信念で戦う」

 迫田にはもう抵抗する気力はないようだった。がっくりと肩を落として、自ら休憩コーナーへ向かった。崩れるように腰を落とす。

 スマホを取って、通話する。

「失敗だ……すべて、リセットする。クリーニングにかかれ」

 ようやく諦めたようだ。つまり、これで病院も解放されるということだ。

 デイビッドがか細い声で言った。

「先生……」

 私は手術台を回って、デイビッドの顔の前にしゃがみ込んだ。目を見つめる。暗がりで細かい部分は見えなかったが、瞳の奥には力強い生命力が蘇っていた。

「なんだ?」

「ありがとう……本当にありがとう……。でも、変なんだ。泣きたいのに、涙が出てこない……」

 伝えなければならない。

「残念だが、重い後遺症が残った……」

「何か、大変なこと……? 半身不随、とか……」

「感情が素直に表せなくなった。涙腺の神経を切らざるを得なかったんだ。顔面神経と聴神経の間の中間神経は細いうえに、腫瘍との癒着が特に強くてね……。もう少し時間があれば良かったんだが……。すまない。君は、もう涙を流せない。目薬が手放せなくなる……」

「後遺症は……それだけ?」

「他はおそらく、何も異常は起きないはずだ。リハビリをしながらコンピュータを操作してみないと、すべてが元通りになるかどうかは分からない。一緒に確かめよう」

「ありがとう……先生に会えてよかった……」

 すべては、デイビッドに伝えた。私には手術経過をメモしたビデオもある。手術記録や術中ビデオが迫田たちに隠蔽されたとしても、今日、ブレインサイトで何が起きたのか――その顛末は明らかにできる。

 あのカメラは、デイビッドに渡そう。それをどう使うかは、デイビッドが決めればいい。命を懸けて手に入れた、世界の真実だ。

 ウィキリークスに渡してもいいし、イスラエルの情報機関が使っても構わない。これだけの頭脳だ、きっと世界の役に立つことに使ってくれるだろう。

 私の役目は終わった。後はアンと過ごせれば、それでいい。

 と、天井のスピーカーが言った。

『長嶺先生。息子さんからメールが入りました。読み上げますか?』

 何だろう? 何であろうと、純也とも向かい合わなければならない。それは、父親の責任だ。

「読んでください」

『「母さんのビデオを見た。まだ、どうしていいかは分からない。でも、近いうちに電話する。父さんとゆっくり話がしたい」――以上です』

 思わず、涙があふれた。

 純也は私を〝父さん〟と呼んだ。現実を一つ、認めたのだ。

 私も話をしたい。共に、ハンチントン病の恐怖と戦いたい。一緒に生きたい……。

『あ、それと、さっき別の連絡が入りました。本館が解放されたそうです。出入りも自由になりました。こっちの状況は伝えました。大至急、電力線を運ぶと言っています。テレビじゃ、この事件の話題で持ちきりだそうですよ』

 誰かが言った。

「もう照明をつけていいだろう。まだ、バッテリーは余ってるんだろう?」

 スタッフたちが慌ただしく動く。照明がつけられた。光が溢れる。

 真っ白に輝く、SF映画の宇宙船を思わせるブレインサイト――。

 私の〝戦場〟だ。

 眩しい……。

 誰かがドアを開ける。外では、数人の警備員が大きなリールに巻き付けた電線を転がしてくるところだった。もう、電力の心配はいらない。

 迫田が休憩コーナーから言った。

「長嶺先生……あんたに電話だ」

 ソファーに座ったまま、目を背けてスマホを差し出している。

 私は迫田に歩み寄り、無言でスマホを受け取った。

 耳に添えたと同時に、大声が響く。

『おい、サトシか⁉』

 声が大きい。アイザーだ。

「手術は無事に終わったよ」

『話は聞いた! おめでとう。全世界の患者を代表して、サトシの医学界復帰を歓迎する』

「それは、どうかな……」

 罪は償う。

 いつ刑務所から出られるかは分からない。それからは、アンと純也と共に過ごす。医師を続けるかどうかは、今は決められない。どのみち実刑を受ければ、その時点で医師免許は剥奪される。

『これだけの手術を成功させておいて、辞めるとは言わないだろうな⁉ 私の病院でも、まだ席は空いてるぞ!』

 イスラエル――か。そんな選択肢もあるのかもしれないな。

 日本でも刑務所では圧倒的に医師が不足している。模範囚であれば、特例で刑務所内での医療活動は許されるかもしれない。法律的にはどうだか分からないが、たとえわずかでも希望は希望だ。

 今は、生きたい。だから、希望にはすがっていたい。

「まだ分からない……だが、医師には戻れた」

『そうだ、それでいい。お前はやっと、本当の自分に戻ったんだ』

 その通りだ。

 私は、私だ。

 これでまた、生きていける。

 まずは、アンに会おう。見ることができなかった、アンが残した動画を開こう。

 そして、少しだけ酒を飲もう。

 本物の酒を。

                          ――了

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