8・ゴッドハンド

 私に、この手術ができるのか……?

 もちろん10年前なら――アンを殺す前なら、進んで引き受けただろう。困難な壁だからこそ、医師として、頭蓋底外科医として乗り越えたい衝動に駆られる。誰もが無理な手術だというなら、私が患者を救う他にない。

 だが、今の私は医師とは呼べない。

 アイザーの手術をロボットで仮想体験して、感覚が鈍っていないことには驚いた。それでも、実際に脳に触れたわけではない。長いこと呑み続けていた酒で、自分の身体がどう変化しているかも分からない。

 何よりも、気持ちが手術に耐えられるのかが不安だ……。

 デイビッドが、私を見つめ続ける。唇が、震える。だが、声はもう出せないようだった。瞳から、すうっと生命感が消え去っていく。身体の震えが止まった。

 全身麻酔で意識を失ったのだ。

 ラリンゲルマスクが装着されていく。

 私が手術をしなければ、この青年はおそらく目覚めることはない。イスラエルの国防の要が、日本の希望が、世界を動かす頭脳が、この世界から消える……。

 いや、そんなことではない。

 一つの命がなくなるのだ。

 この命は、彼のものだ。

 必死に生きたいと願っている、彼だけのものだ。

 助けてくれと、私にすがっている命だ。

 医師なら、救わなければならない命だ。

 アンは、死を願っていた。私は、アンの幸せを願っていた。だから、願いを叶えた。私は犯罪者だ。常識に背く罪を犯した。法によって裁かれるだろう。純也には、憎まれ続けるだろう。

 それでもアンは……アンだけは、私の味方のはずだ。それだけでいいではないか。アンさえ幸せに逝くことができたのなら、それでいい。アンが地獄に堕ちたのなら、私も行く。そこできっと、笑顔で私を迎えてくれる……。

 私は妻を殺したことを初めて他人に話した。この場にいるスタッフは、全員それを聞いた。もはや殺人罪は逃れられない。

 今まで胸に収めていたのは――収め続けなければならなかったのは、それを明かせば純也がハンチントン病の可能性があることを知ってしまうからだ。アンが、最も恐れたことだ。命を捨ててまで、隠そうしたことだ。だが、すでに純也は知ってしまった。

 ようやく、重荷を降ろすことができた。

 これで私は、罪を償うことができる。純也にしても、数年のうちには現実を知らなければなかったのだ。アンの望みは叶えた。私は収監される。私の望みも叶えられる。

 だからもう、それはいい。今は忘れよう。今だけを考えよう。

 私は何をしたい?

 この青年をどうしたい? 

 答えは、とっくに出ている。

 救いたい。救わなければならない。

 できることに――できるかもしれないことに、全力を尽くそう。私にしかできないことに、集中しよう。

 医師に戻ろう。もう一度だけ。

「迫田さん……私が手術をしていいか?」

 迫田は私の目を見つめた。

「できるのか?」

 嘘をついても意味はないだろう。

「分からない。ブランクはある。指が思い通り動かないかもしれない。しかも、最高難度の手術だ」

 そして私は、アルコール依存症だった……。

 伊藤が叫んだ。

「やれるものならやってみろ! ハサミを取って、そいつも殺すがいい!」

 伊藤……お前の気持ちは分かっている。

 お前は優秀だからこそ、罠に嵌められた。努力を惜しまずにここまで登ったから、襲い掛かってきた運命だ。それは、お前の責任ではない。

 医師であるより人であろうとした決断は、誰にも責められない。もちろん、私に責める権利はない。

 私自身が、同じ道を選んだのだから。

 だから、もう忘れろ。

 後は、私が引き継ぐ。今は、私が〝医師の責任〟を果たすべき時だ。

 迫田が伊藤を睨みつける。

「伊藤先生、あなたは黙っていていただきたい。これは、私たちの話だ」そして、私の目を見た。「危険を承知していながら、やりたいと?」

「成功する確率は低い。命は救えても、何らかの後遺症が残る恐れもある。だが、このまま放置すれば必ず死ぬ。数日後かもしれないし、数時間後かもしれない。デイビッドの脳は、何度も限界に追いやられている。病院が解放されるまで保つとは限らない」そして問い質した。「テロリストはいつ退去するんだ?」

 迫田は一瞬、返事に詰まった。

「それは……分からない……。今、警察が総力を上げて奴らを追っている。言えるのは、それだけだ……」

「彼らが狙っているのがデイビッドの命なら、死ぬまで解放されないんじゃないのか?」

「我々が中国に勝てなければ……そうなる……」

「警察に勝つ確信があるというなら、私は手を引こう。このままデイビッドの生命維持だけに電力を使って、何もしないで解放を待つ」そして、もう一度念を押した。「自信があるのか?」

「私にどうしろというんだ……?」

 私はきっぱりと言った。

「どちらに賭けるか、決めろ。私の手術か、警察の能力か。中国を排除できるなら、それでいい。ただし、時間はない。どれだけ待てるかも、分からない。手術をするなら、最短でも6時間以上かかる。バッテリーの限界もその程度だろう。一刻も早く手術を始めなければ間に合わない。私は覚悟を決めた。いつでも現場に復帰する。だから今、決断しろ」

 私は息を殺して迫田を見つめた。スタッフたちも、じっと迫田の返事を待っていた。

 迫田は、重苦しいため息を漏らした。

「私が国の命運を決めるのか……」

「責任を果たせ」

 もう一度、長い溜息を漏らす――。

「わかった。手術を進めてくれ。すべての責任は私が負う」

 私は振り返って、背後で状況を見守っていたスタッフに言った。

「私が執刀します。力を貸してください」

 第一助手が、力強くうなづいた。

「やりましょう。神の技、見せてください」

「君、名前は?」

「足立です」そして、傍にいたナースの背中を押し出す。「機械出しはこのナースに。佐々木君です。若いですが、場数を踏んでいます。判断も確かです」

 ナースがぺこりと頭をさげる。

 私は言った。

「状況は極めて厳しい。だが、不可能ではない。そう信じて、患者を救いましょう」

 二人が声を揃える。

「わかりました」

「足立君、ナビゲーション機器の電力消費を極力少なくするように、指揮していただきたい。現状でどれぐらい手術を続けられそうですか?」

 足立はすでに様々な状況を検討していたらしい。答えはすぐに出た。

「MRIは使用できませんが、超音波端子マイクロプローベ、術中MEP、SEP、VEP、ABRなどは必要に応じて使えます。バッテリー容量を確認しましたが、無影灯を一機使用するとして5時間程度、極限まで節約すれば7時間ほどだと思います」

 ぎりぎり、ではある。進行状況によっては脳機能のモニタリングを諦め、勘に頼りながら手術速度を上げなければ時間切れになる。

「とりあえず無影灯は使わずに、照明は顕微鏡のライトだけで進めてみましょう。それで支障はないでしょう。バッテリーの残量は逐次確認できますか?」

「大雑把ですがメーターはあります。残量が10%程度になると赤いランプも点灯します」

 そこまで手術が延びたら、命を保つために幾つかの脳機能を切り捨てるという決断も迫られるかもしれない……。

「では、まず顕微鏡のセッティングをお願いします」そしてナースを見る。「佐々木君、改めて手指消毒をしたい。アルコールはある?」

「はい」

 私は手袋を脱いで、両腕をまくりあげた。本体なら手術室に入る前にブラシや消毒薬を使い、入念に洗うべきところだ。だが、この場でそれは望めない。

 ナースが500㎖のプラスティックボトルに入ったアルコールを取り出す。その前に両手を差し出し、振りかけてもらった。手をこすり合わせながらアルコールを皮膚に擦り込むように消毒する。

 ボトルを片付けようとしたナースに言った。

「アルコールはそこのワゴンに置いておいて」ナースが不思議そうに首をかしげる。「緊急に器具を消毒する場合に備えたいんだ。照明が暗いので、すぐ手が届くわかりやすい場所に準備しておきたい」

 一番の心配だ。備えなければならないのは、私の体なのだ。

 だが、スタッフにそんなことがわかるはずはない。私自身も、消毒用アルコールなど必要にならないことを望んでいる。

 新しい手袋をつけると、足立が言った。

「長嶺先生、顕微鏡セッティング終わりました」

「ありがとう」

 透明なビニールに包まれた顕微鏡が、患者の上から吊るされるような形で脳の露出部分に近づけられていた。顕微鏡のライトは患部を照らしている。

 デイビッドの脳の周囲だけが、スポットライトを浴びるように照らし出されている――。

 ここが、戦場だ。

 私はまた、そこに戻っていかなければならないのだ。

 暗い……。だが、この条件で戦うほかはない。

 まずは、患者の位置の確認だ。私が執刀するなら、私のやり方に合わせてもらわなければならない。手術台の周囲を回りながら、確認していった。

 デイビッドの頭の左右の回転角度、前側への屈曲角度と上げ下げの程度、手術台の高低と角度、頭を固定する3点ピンの位置、無影灯の位置、術者の椅子の位置・高さ、肩の位置と角度――これら一つ一つが、手術のやりやすさを大きく決める。

 10年ぶりの難手術だ。焦って、準備を怠ってはならない。

 そう、自分に言い聞かせた。

 私もかつてはそうだったが、勢いがある脳神経外科医は体力にまかせて長時間の手術を乗り切ろうとする。だがいずれ、それでは連日の手術は引き受けられないと気づく。疲労が重なれば、手術が雑になる。一方で、疲れが蓄積する手術の後半は、特に止血を充分に、しかも丁寧に行わないといけない。術後出血を起こして死亡、あるいは重症後遺症を残す恐れが高いからだ。わずかでも気を抜くと、10年にも及ぶ医療裁判を抱え込む危険がある。

 手術用の体力は、限りある燃料なのだ。だから私は、体力マネジメントに最大の注意を払ってきた。

 患者の頭を固定する位置は極めて重要だ。頭の固定の位置と向きが不適切だと、4、5時間もの顕微鏡操作の間、ずっと無理な姿勢を強いられて疲労感が蓄積していく。しかも、疲れを翌日に持ち越す。だから後輩まかせにはしなかった。任せるとしても、知識、経験、技量を継承できた信頼できる者に限ってきた。

 手術中の姿勢も大事だ。猫背になると脊柱起立筋の負担が数倍に増す。それを防ぐために、背筋を伸ばして顎をひく。手術用椅子に腰かけて正しい姿勢をとった時に、肘の角度が90度になるように調整する。この体勢が、最もストレスが少なく自由度が大きいからだ。

 手先がぶれないように、そして腕の重さを逃がすために、小指と薬指を患者の頭や固定用バーの上に当てて手術用マイクロピンセットを持つ。このときも、手首が上に反らないように注意する。鉛筆を楽に持つような自然な角度で手術道具を扱えなければ、疲労が大きい。

 手術用マイクロハサミ、マイクロピンセット、バイポーラ、マイクロ吸引器は、脳と頭蓋骨の隙間から奥深くに差し入れる。だから器具は狭く深い井戸に入れるような状態になり、その向きは自ずと限定される。これら器具を自然に把持できる手の位置と向きは、自動的に決まってしまう。しかも肘の角度を90度に近づけていくと、術者が座る位置と向きも一点に絞られる。

 そこが最も負担の少ない手術の姿勢だ。この姿勢をキープできるように逆算して、患者の頭を固定しなければならない。 

 幸い、私と伊藤の体格は似ている。デイビッドの頭は、すべて問題がなさそうな位置に定められていた。伊藤の指導のもとで何度も手術を繰り返してきたスタッフが、充分な実力を備えている証拠だといえる。

 これなら、彼らの不手際で手術が停滞する怖れは低いだろう。

 だが、顕微鏡前の椅子に座った時、また息苦しさを感じた。

 心配すべきはスタッフの練度ではなく、やはり私の心理状態のようだ……。

 手術中の呼吸は、緊張で浅くならないよう気を付けなければならない――私にとっての手術の心得だ。だが今は、それが守れるかどうか自信が持てない。

 それでも、もう逃げることは許されない。

 私は、顕微鏡のハンドルを掴んで覗き込んだ。目の前に、脳の表面が広がる。

 思わず目をつぶる。

 生きた脳を覗き込むのは久しぶりだ。

 息を整え、ゆっくりと目を開く。

 顕微鏡の位置と角度を調整しなければならない。私の体と眼に最も負担の少ない場所を定めなければ、長時間の手術には耐えられない。顕微鏡の場所を微調整して、レンズの焦点をデイビッドの脳に合わせる――。

 そこには、アスクレピオスの〝攻撃〟で負った大きな傷があった。顕微鏡のライトが充分に届いて、無影灯がなくても周囲の暗さは気にならない。傷から、わずかな血液が滲んでいる。

 その傷の奥、脳幹に極めて近い場所に、巨大腫瘍が潜んでいるのだ……。

 足立が問う。

「腫瘍までは私がやりましょうか?」

 私の息が荒いのを感じたようだ。それとも単に、それが伊藤のチームのやり方だったのか――。

「いや、ロボットが残した損傷の程度も自分の感覚で確認したい。ウオーミングアップにもなるし、自分でやりましょう」

 靴を脱いだ。

 手術用顕微鏡では、足でペダルを操作して倍率、焦点を変える。ペダルにはジョイスティックがあり、これを足指で操作して顕微鏡の視野をゆっくりと、意のままに移動させられる。パイポーラのスイッチもフットペダルだ。

 繊細な操作を足の感覚で行うには、靴ははかずに直接ペダルを踏む方がいい。福山教授は専用の足袋を愛用していたし、私もそれに倣っていた。

 手指の動きについては心配していない。最近はピアノの練習を増やしてきた。ボトルシップも、人に自慢できる程度の仕上がりを出せている。感覚は、10年前に戻りつつある。

 アルコールで蝕まれた体を少しでも矯正できるように、手足を自由にコントロールする〝神経回路〟を意識して鍛えてきた結果だ。それでも、確実ではない。腫瘍に到達するまでの短い時間ではあっても、この手で器具を操作して勘を取り戻しておきたかった。

 不安なのは、やはり精神状態だ。今はまだ耐えられる。問題はこの先、患部に近づいたときに、それを保てるかどうかだ。

 やってみなければ分からないことばかりだ。

 ロボットが暴走した直後にMRIで確認した限りでは、傷は深そうだが患部へまっすぐ向かっていた。多少の髄液が漏れてブレインシフトが起きていたとしても、腫瘍の存在部位への方向は大きくは変わっていないはずだ。脳にこれ以上にダメージを与えないためには、この傷――すなわち、すでに出来上がっている〝トンネル〟をそのまま拡張するのが賢明だ。致命的に乱暴な〝アプローチ〟だったが、病巣はすぐその先にある。

 通常なら20分はかけて構築する腫瘍へのアクセスルートとビューイングスペースを、〝敵〟の攻撃が一瞬で穿ってしまったことになる。乱暴な〝手術〟で、どんな後遺症を残しているかもわからないが、患部への到達時間が短縮されたことは事実だ。

 今は、それがいい結果をもたらすことを望むしかない。

 私は心の準備をする間も与えられずに、〝アンを殺した場所〟に引き戻されたわけだ。

 頭の中に、手術の進行過程を描いていく――。

 深呼吸で息を整えて、顕微鏡で内部をじっくり観察しながら言った。

「吸引とハサミを。福山式ブレード・ダマスカス・ロングで」

 鉛筆を持つように構えていた私の右手に器具が挟まれた。

 思わずかつての手術場と同じ感覚で命じてしまったが、機械出しナースの反応は私のリズムとぴったりと合っていた。初めてのチームだと気付いて、顕微鏡から目を離してマイクロハサミの種類を確かめた。私が頭で描いていた器具と一致している。

 ナースが問う。

「いけませんか?」

「いや、いい感じだよ」

 タイミングと手に置く位置と向きが絶妙で、慣れを感じる。

 しかも驚いたことに、器具を握った瞬間に私の中で何かのスイッチが入った。

 突然、漠然と抱いていた恐怖感が消え去ったのだ。まるで、最盛期の自分にタイムスリップしたような感覚だった。

 不意に悟った。

 やはり私は、医師だ。患者を救うことに全力を尽くす。それは当然だが、何よりもこうして病に立ち向かうことが〝喜び〟なのだ。

 手術が困難であればあるほど、戦う意欲が湧いてくる。脳外科医として生きる以外には、本当の自分を生きることができないのだ。

 帰ってきたのだ……。私が居るべき場所に……。

 再び顕微鏡に戻る。ここから、脳の中に入っていく。

 まずは損傷部分の点検からだ。傷は小脳テントに綺麗に入っている。その後のデイビッドの様子を見ても、神経に損傷を与えた気配は感じられない。まずはこの傷に沿って周囲を点検しながら、奥に進んでみよう。

 顕微鏡で見た限りでは、傷口に出血が滲み出している。深部へ進んで行く前にまず出血を抑え、視界をクリアにしなければならない。

 表面に湧いている血液を吸引管でそっと吸い出す。マイクロ吸引管で、側頭葉の傷を負った部分を軽く持ち上げる。わずかに隙間を広げただけで、また血液が湧き上がってくる。

 やはり、どこかの血管が傷ついている。傷を修復しながら進んでいくしかない……。

 一般の人はおそらく、手術の上手、下手は切り方やメスさばきで決まると思っているだろう。一部は正しい。だが、高難度脳外科手術では他の臓器と違って、脳深部に達する際の術野が極めて狭くて深い。だからいかに脳と脳の間のスペースを広く、安全に開いて、手術をやりやすくできるが重要になる。

 しかも脳、血管、神経は損傷できないし、したくない。これらをつなぎ止めているトラベキュラとクモ膜を、効果的に切ることがより大事になる。

 トラベキュラをいつ、どこから、どの順で切っていけば広い術野、ワーキングスペースを確保できるか――。ハサミを入れる前にその計画を頭に思い浮かべられるかどうかで、成否が決まるといってもいい。

 術野を広げるために脳ベラを当てるのも、最小限にしなければならない。脳の損傷を防ぐためだ。

 未熟な術者は脳ベラを強く当てすぎ、術後の後遺症やトラブルを誘発しやすい。脳ベラも数分に一度は緩めてやると、脳の血流が保たれて合併症を減らすことができる。手術に夢中になってこの手間を惜しみ、脳ベラを緩めるのを忘れる者は意外に多い。

 しかもその後は、マイクロハサミで切る作業だけでも数千回も繰り返さなければならない。顕微鏡は30倍から50倍で術野を拡大している。その映像を見ながら細かくハサミを使い続けるには、術者がいかにタフでも限度がある。

 かつて手術前に唱えた〝魔法の呪文〟を、自分に言い聞かせる。

『疲労が最小限になるように準備を尽くす……

 早く、きれいに、トラブルの少ない手術を心掛ける……

 無駄な動作を一つ一つ削ぎ落す……

 手術の直前は、5分でもいいから仮眠を取る……』

 苦笑いが浮かんだ。

 今は、仮眠すら贅沢だ。

 体力が保つのか?

 技量が充分に発揮できるのか?

 そもそも、かつての能力が維持できているのか……?

 疑問ばかりだが、もはやぶっつけ本番で試す他はない。少なくとも、知識だけは不足していない。

 経験を積んだ脳神経外科でも理解していない場合が珍しくないが、手術の結果は〝止血技術〟の巧拙で決まる。

 術野を50倍に拡大して見ていると、針で突いたような小さな出血でも、大出血に見えてしまうものだ。見た目に騙されて、反射的にバイポーラで凝固することが結果を悪くする。実際は、はるかに小さい出血である場合が多いからだ。

 傷口周辺のトラベキュラやくも膜を切ってやると、出血点を拡げるような力から解放され、自然に止まることがほとんどだ。しかも出血している場所が明瞭になる。そこでバイポーラ凝固を行えば、ワンアクションで血が止まる。

 これが分かっていないと止血に手間取るし、やみくもに出血点付近を凝固して術野を黒焦げにする。上級者と言われている術者にもこういうタイプがいる。

 止血の方法も状況に合わせて変えなくてはならない。

 焼くのではなく、小さな綿状の手術材料を数秒間当てるだけで止まることも多い。かなり太い静脈からの出血であっても、頭の位置を心臓より少し高くしてやれば勢いは弱まる。ただし限度を超えると、逆に出血点から静脈内に空気が入って空気塞栓症を起こす危険はある。

 そうやって血があふれていない術野を作り、出血点だけをピンポイントでバイポーラ凝固すれば、より効果的で脳へのダメージを軽くできる。

 当然、予後も優れている。

 だが、どんなに高い技量を誇る医師であっても、神にはなれない。犠牲を覚悟しなければならない場合はある。時に、重要な脳や神経、血管を切り捨てざるを得ないこともあるのだ。もちろん犠牲は最小限に、しかも最大限の効果を得られるように考える。

 それでも――どんなに考え尽くしても、決断を迫られることはある。

 たとえば重要な血管が腫瘍に食い込んでいるとき――右半身麻痺が出ることが確実な血管を切断して完全摘出を目指すか、一部の摘出に止めて再発を覚悟するか……。後遺症を受け入れるか、再手術を選ぶか――そんな深刻な状況に直面したことは、一度や二度ではない。

 再手術は難度が倍加する。一回目の手術で正常な組織を壊していて、ランドマーク――目印がなくなるからだ。しかも二回目の手術では本来の血管もなくなっているために、生体の感染防御機能が働きにくい。だから、感染率が上がる。

 癒着組織には正常な血管が走っていないので、切ると全体から血が滲み出す。凝固しても止血しにくい。再手術をする頃には患者が年齢を重ね、手術の負荷に耐えられない場合もある。

 手術は、生涯一度で終わらせるのがベストだという理由だ。

 状況が事前に分かっていれば、あらかじめ本人や家族に同意をとりつけておくこともできる。手術中に選択を迫られれば、術場から出て、直接家族に同意を得る場合もある。

 だが今は、そのどちらも望みようがない。

 アスクレピオスが残した傷が、私にそんな選択を迫りはしないか……。デイビッドのためにも、最も恐れることだった。

 だがまず、この〝入り口〟をこじ開けないことには、先には進めない。

 マイクロ吸引管で傷口から血液を吸い上げる。すぐさま、血液が滲み出してくる。

 右手にマイクロハサミ、左手に吸引管――吸引管は、洗浄液噴射器が一体化したイリゲーション・サクション・システムのハンドピースだ。血管損傷がなければずっとこのまま手術を進められる。血管を痛めると、止血のために右手をバイポーラに持ち替えなければならない。時間とエネルギーのロスが起きる。

 どこだ……どこに傷が付いている……? もう少し出血点にかかる圧力を減らさないと……。

 出血点を正確に同定する必要がある。だが、出血を洗浄液で洗い流した一瞬で出血点の位置を記憶しないと、バイポーラを当てるべき部分が血液に沈んでしまう。だがこの出血を止めないと、ハサミを入れるべき部分も目視できない。

 開始直後から、このジレンマだ。

 もう一度、血液を吸い取る。血液が滲む速度が速い。この速さなら、奥深くから湧き上がってきているとは考えにくい。深くてもせいぜい1センチ程度の場所だろう。

 周辺のトラベキュラを3、4本、切る。ワーキングスペースを広げる。脳にかかる緊張がわずかに緩む。血液を吸引しながら傷口をさらに広げてみる……あった!

 すぐさま鮮血が漏れてくる場所が見えた。

「バイポーラをもらえるかな」

 右手のマイクロハサミが取り去られ、バイポーラが置かれる。ピンセット型になっているバイポーラの先端で出血点を挟み、ペダルを踏んで焼く。

 これで止血できた。

 指先の感覚は鈍っていない。リズム感も以前のままだ。

 傷の内部も、今のところ予測した状態と大差はない。

 先に進めそうだ。

 さらなる出血は少ない。術野はドライエリアになった。止血は完全だ。髄液はドクンドクンと液面を心拍に合わせ拍動させながら、呼吸に合わせてゆっくり上下もする。そして徐々に液面が上昇してくる。

 髄液は脳の奥深く、脈絡叢で次々と産生されてくるのだ。

 吸引管で時々髄液を吸い取る。本来髄液は無色透明だが、アスクレピオスの攻撃で損傷した血管からの出血があるため、薄赤く濁りがある。軽いくも膜下出血と同じだ。髄液は滲んできているが、赤みは薄い。大半は髄液だと考えていい。

 ならば、一気に進むべきだ。

 マイクロ吸引管で、側頭葉を持ち上げる。側頭葉と錐体骨との間にできたわずかな隙間に、マイクロハサミを入れる。完全止血してドライエリアを確保したおかげで、視界が開けた。さらに吸引管を入れて側頭葉を持ち上げる。

 ある程度の深さに達した時点で、入り口の縁を保護するために手術用の小さなコットン――福山式の組織に癒着しない綿を貼り付けていく。さらに要所をコットンで保護しながら、傷の奥へ入っていく。

 吸引管の先からわずかにアートセレブ――洗浄液を噴出させ、硬膜に付着した血液に吹きかけて飛ばす。こびりついた血液も、湿らせて剥がしやすくする。そして吸う。

 今回はすでに傷つけられた脳なので、洗っても洗っても脳と硬膜のあちこちに張り付いた小さな血塊が残されている。

 髄液が滲んでくる。

 髄液を吸い取る時は、吸引管の先に小さな綿を当てる。脳自体や血管を吸い込まないように、わずかに離して吸い取っていく。一か所で吸わず、重要な構造物から少し離れた場所で吸うように注意する。脳の深部に行けばいくほど、吸引管の動きをゆっくりにして、一つ一つの動きの幅を小さくしていかなければならない。うっかり重要なものを吸ったりひっかけたりしないためだ。

 神経を集中しながらの細かい動作が続く。

 洗浄液をほんの少し噴出させる……

 血液をわずかに吹き飛ばす……

 吸引管で、素早く吸い取る……

 術野がきれいになる……

 吸引管の先端で、術野を軽く引っ張る……

 脳、神経、血管どうしをつなぎとめるトラベキュラをぴんと引っ張って、浮き上がらせる……

 血管がないことを確認する……

 切る……

 少し血がにじむ……

 この一連の動作を数千回、数万回と繰り返していくのが脳外科手術だ。

〝ゴッドハンド〟と呼ばれるような医師は、一回の動作を0・2秒縮めることの重要性が分かっている。2万回の動作すべてで0・2秒短縮すれば、手術時間全体を1時間短縮できるからだ。この違いが患者の負担を小さくし、回復を早める。

 手術が進んでいくと、どうしても切らなければならない、あるいは切っても大丈夫な動脈や静脈が現れてくる。その時も基本は同じだ。

 マイクロハサミで血管周囲のトラベキュラを切り、血管を露出させる。マイクロバイポーラに持ち替えて、血管を凝固する。マイクロハサミに持ち替えて血管を切断する。術野がすこし開けたら、左手の吸引管で術野の左側に少し力をかける。トラベキュラを浮き上がらせて、切る――。

 切断すべきものがなくなったら、左手の吸引管で術野の右側の脳や血管に力を加える。すると切るべきものが浮き上がる。〝逆手〟テクニックだ。

 それでも切るべきものがなくなれば、脳ベラの位置を変える。あるいは顕微鏡の視野を数ミリ、どちらかへ移動させる。

 通常ならばトラベキュラを切る際に出血はしない。しかし、アスクレピオスの攻撃で傷口周辺のトラベキュラは引きちぎれていた。脳や血管に無理な力がかかって、複数個所からじわじわと出血している。幸い動脈性出血はなく、脳表の静脈ばかりのようだ。

 これならバイポーラでピンポイントに凝固できる。

 まず、洗浄液を少量かける……

 血液が洗い流される……

 一瞬、出血点が露わになる……

 その位置を目に焼き付ける……

 ふたたび血で覆われる……

 吸引管で血液を吸う……

 出血点は完全に見えなくとも記憶には残っている……

 バイポーラの先端を、出血点を挟むように軽くあてる……

 ペダルを踏んで通電。一瞬で血が止まる……。

 これも同じ動作の繰り返しだが、一つ一つの動作が雑だと血が止まらない。無駄な凝固を重ねると、脳や血管を損傷する。結果、術後の麻痺、出血、てんかん、感染などあらゆる災厄に見舞われる。

 私は慎重に、しかし徐々にスピードを上げながら次々と止血を進めていった。感覚が研ぎ澄まされていくのが、自分でも分かった。

 それにしても不思議な脳だった。

 おそらくこのあたりを通っているだろうと予測した神経や血管が、見当たらない。神経が脳幹から出る場所、頭蓋骨へと入っていく場所が、いずれも脳の中央に、そして頭頂葉側に片寄っているようだ。数ミリではあろうが、今回の術野から離れていてくれたのだ。側頭葉下面の太い血管も見つからない。

 アインシュタインの脳を思い起こした。死後、ホルマリン固定され保存されているものだ。外見の構造上、他の人類との違いが指摘されている。側頭葉の表面と、前頭葉・頭頂葉の表面が連結しているのだ。

 脳は、表面の数ミリメートルの厚さにある神経細胞で情報を処理している。それより深いところは神経の束にすぎない。この束が、前頭・側頭・頭頂・後頭葉を連結し、繊維は何十億本にも達する。アインシュタインの場合、三つの脳が表面で連結していることで、効率的な情報処理・伝達が行われていたとも考えられている。

 実際は、この違いが彼の業績とどう関係しているかは全く解明されていないのだが……。

 デイビッドの脳も、アインシュタインほどではなくても、通常とはかなり異なる。この物理的な違いが、〝天才〟を創り出したことはほぼ間違いないだろう。ありがたいことに、今のところはそのノーマル・バリエーションが、デイビッドを守る方向に働いている。

 神は、この〝天才〟を生かそうと心を決めているようだ。

 そう気を許したとたんに、大量の血液が湧き出してきた。文字通り、大量だ。

 何だ?

 こんな場所にそんな血管があったのか⁉ 

 恐れていたことだが、かなり太い静脈が切断されてされていたようだ。今まで血は止まっていたが、傷を広げられて凝血塊(フィブリン・キャップ)が外れたのだろう。放置しておくだけで命の危険を招く。止血に全力を注がなければならない。後遺症の有無を勘案している余裕はない。目の前の止血だけに集中しよう。

 血の色が黒っぽい。静脈血だ。錐体静脈からだ。出血の勢いからして、断裂したわけではなさそうだ。おそらく小脳上面から錐体静脈が出る場所で、トラベキュラによって押さえつけられている。静脈に無理な力がかかり、静脈壁にピンホールができたのだろう。

 少し頭を上げたい。

 私は言った。

「ギャッチアップ・3センチ。おねがいします……静脈から出血が多い……」

「3センチ、ギャッチアップします」

 私は顕微鏡から目を離さなかったが、スタッフの動きは手に取るように分かった。

 動油圧手術台の電源をオンにする。手術台のコントローラを手にする。手術台の背板を屈折させ、患者の上体が徐々に起きる。重厚なモータと歯車の音が鈍く響きわたる。

「ゆっくりね……行きすぎないように……」

 すると、術野に広がる血液の勢いが弱まった。

「うん、そこでいいよ……」

 吸引し、トラベキュラをわずかに切る。

 どこだ……どこから出血している……?

 再び吸引――すると一瞬だが、右側から血が広がってくるのを〝感じた〟。

「もう少しだけ上げて……」

 さらに出血が弱まる……。

 吸引管で、髄液を少し抜く……

 決して小脳を下に押さないように……

 これ以上、錐体静脈に力がかかるとまずい……

 小脳上面から出る静脈が見える……

 出血点の確認はひとまず後回しだ……

 小脳上面のトラベキュラとくも膜を切っていく……

 いいぞ、小脳、錐体静脈にかかる力がだんだんほぐれていく……

 錐体静脈がよく見えるようになった……

 よし、自然に出血が止まった……

 だが、これだけでは安心できない……

 錐体静脈に吸引管の先端、その脇腹を軽く当てる……

 手前に引く……

 錐体静脈がわずかによじれて、30度ほど回転する……

 見えた……

 出血点に血塊が張り付いている……

 バイポーラに持ち替えて、凝固……

 これで安心だ。念のため錐体静脈周辺のトラベキュラをさらに切っておく。

「止血できたよ……体勢を戻してくれるかな……」

 デイビッドの頭がゆっくりと下がっていった。

 だが、もはや静脈性出血は出てこない。成功だ。

 先に進もう。

 しばらくすると、吸引管の先端で感じる感触が変化した。血管や神経を軽く押し広げる際の抵抗が、わずかに強くなった。髄膜腫の周辺に近づいたため、トラベキュラの数と厚みが増しているのだ。小脳や脳幹に付着する血塊がほとんどない。脳表ににじんだ血液もない。

 アスクレピオスのアタッチメントは、ここから先は届かなかったのだ。ほんのわずかな感触の違いを感じられたことで、さらに自信がわいた。

 指先の感覚は確実に戻ってきている。このままなら、手術を成功させることもできるだろう。このままなら――。

 先に進む。広げ、切り、吸引し、また広げ……また繰り返しだ。

 そして〝目印〟にたどり着いた。 

 聴神経と呼ばれる第八脳神経だ。傷つけないことはもちろんだが、この神経が見つかれば、腫瘍はすぐそこだという案内役になる。神経の周囲を丁寧に切って脇に寄せ、綿で保護する。

 次は顔面神経である第七脳神経を探す。同様に神経を寄せて進入路を開く。

 そしていよいよ、恐れていた場所に近づく……。

 腫瘍の一部が見えた。

 狭い洞窟に入っていったら、冬眠中の熊の丸い背中を発見した――そんな感覚だ。不注意な動作で熊が目を覚ませば、牙を剥いて襲いかかってくるかもしれない……。

「腫瘍に到達しました。プローベを。そのあと、電気生理モニターで電位を確認しましょう」

 ハサミの代わりに、先端が非常に小さな超音波端子マイクロプローベが手渡される。髄膜腫の内部を超音波で画像化し、脳幹や脳底動脈に達するまであと何ミリ腫瘍を削れるかを調べるのだ。ナビゲーションシステムより距離の正確さは劣るが、腫瘍のすぐ向こうに血管があるかないかは明確に分かる。

 超音波画像を確認してマイクロプローベを引き出してから、席を立って腰を伸ばした。

 時計を見る。腫瘍到達まで20分――悪くない。バッテリーはあとどれだけ保つのか? その前に、腫瘍をできる限り取り除いておかなければならない。

 メインディスプレイの周囲にスタッフが集まっていた。暗い手術室の中で、ぼんやりとした灯りに照らされている。その場所だけが、異常に明るく感じられた。

 画面の中央に超音波画像が表示されていた。周囲には、各種モニタリングの数値が並んでいる。

 足立が感心したように言う。

「それにしても巨大な腫瘍ですね……」

 私はうなずいた。

「しかも、多くの神経や血管を巻き込んでいる……」三叉神経が索状物として見える。脳底動脈と後大脳動脈、上小脳動脈もドップラーモードで確認できた。「電気生理モニタリングで電位低下がないのが不思議ですね……。早速切除にかかりましょう。モニタリングは頻繁に。バッテリーはどうですか?」

「今の使用量なら、あと5時間以上は続けられそうです」

「ありがとう」

 そして私は、再び腫瘍との戦いに戻った。

 時間制限は厳しい。だが、進めるところまで進めなければならない。せめて脳ヘルニアだけは回避しなければ……。  

 まず、硬膜から髄膜腫を栄養する血管を凝固する。そして腫瘍の体積を減らすため、内部をくり抜いていく。腫瘍の体積が少し減る。髄膜腫の表面を、モノポーラ――いわゆる電気メスの一種で凝固させ、こそげ取っていく。

 モノポーラにはバイポーラとは違って電極が一極しかなく、もう一方の対極板は患者の体に貼り付けてある。その間に高周波を流して、極小の範囲に電子レンジと似た作用を起こす。高周波を連続的に発生させる〝切開モード〟では組織を切ることを優先し、止血の効果は薄い。一般にメスとして使用する場合は、止血効果も高めた〝ブレンドモード〟が多用される。

 対して弱めの高周波を断続的に発生させる〝凝固モード〟では、100度以下の低温で組織を焼き固めるので、同時に止血もすることができる。

 ピンセット型のバイポーラは、その〝凝固モード〟に特化した器具なのだ。

 次にモノポーラの先端にリング状の針金のようなアタッチメントをつける。モノポーラの凝固力、切断力は大きいため、腫瘍内部に重要な血管や神経が埋まっている付近では危険で使用できない。使えるのは、あくまで安全な場所の髄膜腫切除だけだ。ただ、切った瞬間に凝固もされているので、止血操作が不要になる。

 さらにCUSA(キューサー)――超音波外科用吸引装置に持ち替える。吸引管の中からチタニウム合金の金属管が顔を出している。ハンドピース内部に超音波振動装置があり、金属管先端部が超音波振動し髄膜腫を粉砕するのだ。デブリ――髄膜腫の欠片を吸引管で次々に吸い取っていく。

 時々、バイポーラによる止血が必要になる。脳底動脈の近くまで行ったら、超音波の出力を落として慎重に進まなければならない。

 さらに進む……左手に吸引管、右手にマイクロハサミに持ち替える。

 硬い腫瘍の内部をくり抜くことができた。もはやペラペラの袋状になっている。スペースに余裕ができているので、髄膜腫のヘリを裏返し、血管・神経・小脳・脳幹・側頭葉下面との癒着(アドヒージョン)、接触(アタッチメント)をはがしていく。

 腫瘍に吸引管を軽く当てる……

 癒着した血管から少し浮き上がる……

 トラベキュラが吊り橋のワイヤーのように引っ張られる……

 血管がないことを確認する……

 マイクロハサミで切る……

 吸引管の位置を変える……

 腫瘍を軽く持ち上げる……

 また繰り返しだが、今まで以上に気を抜けない場所だ。この辺りに通っているはずの動眼神経は弱いので、見落としてはならない。眼筋の一つを支配する滑車神経は、さらに細く弱い。

 当初は切ることも想定していたが、ここまでできるなら温存してやりたい。だが腫瘍に埋まっているようだ。気付いたら滑車神経が切れていたということもよくある。

 切れると物が二重に見える複眼を生じるが、その場合は滑車神経の切断面どうしを12―0ナイロンで8針程度で縫合する。半年ほどで複視が改善したり、消失することがある。

 神経が見えた……

 滑車神経、動眼神経に力がかからないよう神経を集中させる……

 ゆっくり……ゆっくり……

 なんとか切断せずに腫瘍を剥がすことができた……

 最後に、脳底動脈、後大脳動脈、上小脳動脈との癒着をはがす。ここまで進めば、腫瘍はかなり小さくなっているはずだ。脳への悪影響も軽減できている。脳底動脈との癒着が強すぎる場合は諦めることもあるが、その心配はなさそうだ。

 若い脳だけあって、腫瘍体積の減量の結果がすぐに現れてきている。今まで圧迫されていた脳幹と側頭葉が、元に戻ろうと少しせりあがっていた。脳の再拡張だ。

 通常の手術なら、腫瘍の悪性度を判定する術中迅速病理(フローズン)を行う。最初に髄膜腫を摘出したら、すぐに病理標本を出すのが定石だ。2、3時間で、髄膜腫が増殖速度が速いタイプか否かが分かる。

 それでも永久標本と違って信頼性がわずかに劣るので、迅速病理の結果は鵜呑みにはできない。結果はどうあれ、取れる腫瘍は可能な限り取り除いておくのが望ましい。

 しかも今回は、オペ室から出られない。そもそも、別室で行われる判定に標本を持ち込むことができない。悪性度が高いという前提で、限界まで取り除くことを追求するしかなかった。

 腫瘍と側頭葉、小脳の癒着を少しはがす。これもトラベキュラや結合組織の切断だ。手術をスピードアップした。意識は研ぎ澄まされ、10年のブランクは頭から消えていた。

 硬い腫瘍を切り、吸引管に吸い付けて運び出し、周辺の情報をモニタリングし、さらに切る……。

 時間に追われ、それでも失敗は許されず、緊張が続く。

 それが幸いしたのだろう。

 私の精神は昂揚していたが、変調を起こしはしなかった。全身にアドレナリンが駆け巡り、だが脳は冷静に状況を見つめていた。コンマ数ミリの誤差も許されない血管に癒着した腫瘍も、着実に切り離し、最盛期に近い速度で手術は進んだ。

 傍では、無線ゴーグルを装着した助手たちが息を呑んでいる気配を感じる。大胆で繊細、そしてリズミカルなハサミの動きに感嘆している。

 吸引管もマイクロハサミもバイポーラーも、いつもの術者より――おそらくは伊藤より、動作の回数が少ないのが分かったようだ。リズミカルでありながら、動作がゆったりとして無駄がないことを感じてくれようだ。

 かつては『マイクロハサミの先端が止まっているように見える』とか『どこを動かしているのか、よくわからない』などと言われたものだ。素早く、最小限の操作をすればそうなるものだ。あの頃と同じ手際が完璧に蘇っているかどうか、自信はない。だが、感覚は確実に戻ってきている。

 それが私やアイザーと、伊藤との違いだ。私たちや福山教授にとって、手術は〝音楽〟だった。時に予測を裏切る腫瘍との〝インプロビゼーション〟だ。私たちは、腫瘍と闘いながらも寄り添い、会話してきたのだ。

 私と伊藤との差は、多分この10年で縮んでいるだろう。だが助手たちの気配からは、その差が消えてはいないことが読み取れる。

 彼らは、バイポーラでの凝固がすべて一回で終わっていることに気付いただろう。

 その使用頻度が少ないのも感じただろう。

 脳ベラを軽くしか当てていないのに、術野が広く取れているということが分かるだろう。

 20分前に切断したトラベキュラは、いまの操作をするのに不可欠だったことに気付いただろう。

 私の肩、首、腰にまったく力が入っていないのが分かっただろう。

 術場で何が起きて誰がどこにいるかまで察しながら進めているという余裕も、感じ取ってくれているに違いない。

 そうだ……今の私には、余裕があった。

 自分が居るべき場所に帰ってきたという、自信があった。

 これが、私だ……。

 本当の、私なのだ……。

 助手たちは驚きのあまり声も出せないのだということが〝空気〟を通じて伝わる。

 吸引管の先で洗浄液を噴出させる。すぐさま血液を吸い取り、脳腫瘍を押して術野を広げる。さらに吸引管の手前の〝腹〟の部分と脳との摩擦力を利用して、手前の左側の脳を持ち上げる。こうすれば、左手の吸引管一本で術野が見やすくできる。〝水をかける、血を吸う、先端で押す、腹で持ち上げる〟という四役を吸引管だけでこなせば、スピードは格段に上がっていく……。

 ついに、足立がつぶやいた。

「いや……何だ……これは……器具が脳とつながってるみたいだ……先端にまで神経が届いている……」

「私たちには、まだ到底無理ですね……嘘みたいだな……」

 悪い気はしない。本当の居場所に帰ってきた安心感がある。

 なんだ、できるじゃないか……。現役の伊藤にさえ、まだ負けていないじゃないか。私は、何を恐れていたんだろう……? 

 そして、思い出した。

 恐れていたのは、アンを殺した場所に戻ることだ。

 そして不意に、ここが〝その場所〟だったことに思い当たった。

 アンを殺した30分……

 その時間を意図して作った同じ血管が、今、目の前に横たわっていた……

 忘れていた……

 ハサミの先に神経を集中するあまり……

 自分のハサミさばきに酔うあまり……

 アンを殺したことを忘れていた……

 アンを、殺した……

 脳が止まった。

 思い通りにコントロールできていた指が、いきなり止まった。――いや、止まったのではない……震えだす寸前だ!

 だめだ! ここで指が震えれば、デイビッドの脳を損傷する!

 私は思い切り息を吸い、呼吸を止め、最小限にしか開いていなかったマイクロハサミの先端を静かに閉じた。

 だめだ! まだだめだ! もう少し待ってくれ!

 ゆっくりと、吸引管とハサミをデイビッドの脳から引き出す……。

 傍らで、足立が言った。

「どうしたんですか? 何か、まずいことが⁉」

 ハサミの先端が脳から出た瞬間に、抑制が効かなくなった。両腕がプルプルと震え始める。吸引管とマイクロハサミが指から滑り落ち、床に当たって金属音を立てた。

 ナースの佐々木が駆け寄る。

「先生! どうしたんですか⁉」

 手の震えを制止できない……

 腕が意思に従わない……

 酒だ……酒を飲んで、一時的にでも止めなければ……

 苦しい……汗が噴き出す……

 息が吸えない……脈拍が早くなっていく……

 あまりに急激な禁断症状で、言葉も出せない……

 背後で迫田の声がした。いつの間にか、近くに来ていたようだ。

「長嶺先生! 大丈夫ですか⁉ 禁断症状ですか⁉ 手術は続けられますか⁉」

 足立の声。

「禁断症状――って⁉」

「先生は、つい最近までアルコール依存症で苦しんでいたんだ⁉」

「そんな人に脳を触らせたんですか⁉」

「治ったと思っていたんだよ! 本人ができると言ったんじゃないか!」

 やはり知られていたのだ。公安は、私がアル中だったことまで調べ上げていたのだ。それでも、過去の名声が必要だったということだ。

 まさか、手術を行うなどと予測できるはずがない。

 だが、私は医師だ。今でも、医師だ。伊藤にすら困難な手術を、ここまで進めて来られたではないか。このオペ室には、手術を引き継げる実力を持った医師はいない。

 腫瘍は7割ほど摘出したはずだが、本当に困難なのはここからだ。重要な血管、神経から剥がす作業が待っている。難度が極めて高い場所だ。ここでやめたら、デイビッドは救えない……。

 震えを止めなければ。

 また深呼吸をして、ナースの後ろのワゴンを見た。消毒液のボトルがまだ置いてあった。エチルアルコール70%が主成分だ。本当に、このボトルを使う羽目になるとは……。

 私は震える指でボトルを取って、キャップを外した。そして、中身をラッパ飲みした。

 周囲に驚きの声が上がる。まさか、そんな行動に出るとは誰も考えなかったのだろう。

 ひどい味だ。喉が焼け、薬臭さと苦味が喉を駆け抜ける。だが腹に落ちた瞬間、それは何とも言えない暖かさとなって広がっていった。アルコールが、血管に染み渡っていくのを感じる。

 そして、指の震えはゆっくりと治っていった……。

 ナースが言った。

「うそ、飲んじゃうなんて……。先生……それ、イソプロが添加されてますよ……」

 イソプロパノール添加エタノール液だ。知っている。肝障害を起こす毒性もある。強いアルコールで、食道も胃も焼ける。

 だが今は、震えが止まりさえすればいい。どうせ手術は、これ一度だけだ。その後なら、どこが壊れようが構いはしない。

 私は言った。

「だが、脳に戻れる。誰か、水をくれないか」

 わずかな間をおいて、ナースが紙コップの水を差し出す。一気に飲むと、腹の中の熱さも次第に消えていく。

 代わって、何年も私を蝕んできた蠱惑的な温もりが全身を包み込む……。

 両手を広げてじっと見つめた。ピクリとも動いていない。ボトルシップで試した時と同じだ。これならあと数時間、保たせる自信がある。震えれば、また飲めばいい。

「ブレード・ダマスカスの予備を。手袋、交換。イリゲーション・サクション・システムをハンドピース及びチューブから全交換」

 足立が言った。

「先生、無理です! やめてください!」

「やめれば、デイビッドは死ぬ。君、続きができるか?」

「それは……」

 伊藤のもとで、ドリリングばかりをやらされていたのかもしれない。それはそれで悪くはない。ある程度手術が上達すれば、上級者の手術を見てテクニックを覚えられる。未熟な手術で患者が〝被害〟を被ることもない。

 だが、顕微鏡操作とドリリングは全く別物だ。

 足立は、見るからに自信がなさそうだ。実際に、一歩後ろに退いた。確かに、半端な経験しかなければこんな部位には触れられない。足立は、自分の実力の限界を理解している。

 迫田が言った。

「本当にできますか?」

「この状態での訓練は積んできた。自信はある」

「わかりました。継続してください。必ずデイビッドを救ってください」

 私はしっかりとうなずいた。

 アルコールの力は大きい。震えを止めるだけではない。弱気も麻痺させる。

 大丈夫だ、私ならできる。

 指さえ震えなければ、真の実力を発揮できる。

 何も考える必要はない。長い脳外科医生活で染み付いた動きを、そのまま素直に出しさえすればいい。手技は、指先が覚えている。

 心を恐怖で縛るな。

 解き放て。

 アン……私に力をくれ。

 この青年を、助けさせてくれ。

 これが終わったら、私は君と共に生きる。法に裁かれ、君が待つ〝地獄〟へ行ける時まで、君だけを思い続けて過ごそう。

 だから、今は――今だけは力を貸してくれ。私を、縛らないでくれ……。

 ナースが言った。

「予備の吸引管、セットアップ完了。ダマスカス用意しました。手袋、交換を……」

 私はうなずいて、手袋を替えた。軽く目をつぶって、深呼吸する。

 背筋を伸ばして、呼吸するごとに自分に言い聞かせた。

――抱えていた問題は、もう出し切った。

――惨めな自分も、弱い自分も、残酷な自分も、全部さらけ出した。

――これ以上、隠さなければならないものはない。

――ここにいるのは、ようやく自分に戻った自分だ。

――私、そのものだ。

――気持ちを新たにしなければならない。

――私なら、できる。

――絶対に、できる!

 目を開いて、手術に戻った。

 再びスイッチが入った。同時に、何もかもが吹っ切れた。

 もう、何も考えなかった。何も恐れず、ただ腫瘍に立ち向かう――いや、闘っているという感覚すら失っていた。

 周囲の音も気配も感じていたが、何も気にならなかった。ターボチャージャーで加速されている気分だ。

 自由だ。心が解放されている。

 私は、私が握ったハサミの先端そのものになったように、腫瘍を切り裂いていった。病変を感じ、温存すべき組織を感じ、なすべき作業を感じ――すべてが、頭で考えるのではなく、手触りや臭いのような感覚として理解されていた。

 ハサミの先端で、脳を直に触っている感覚。吸引管の腹で、脳を軽く押す触覚。全てが明確に、私の脳にダイレクトに流れ込んでくる。さらにかすかな音や匂いが組み合わさり、腫瘍の全体像から極小部分までがはっきりと感じ取れる――。

 伝説的なアルペンレーサー、インゲマル・ステンマルクは、『スキーの裏側に接触する氷片の一粒一粒を感じ取っていた』と言った。そんな大げさな……私は、そう笑ったものだ。だが、今なら分かる。私がまさに、そう感じている。

 まるでデイビッドの脳の中に入り込んだかのように、腫瘍が〝見えて〟いた。

 時間の感覚も消えた。

 なぜだろう――何をどうすればいいのかが、ただ分かった。分かった通りに、ハサミや吸引管が動いている。魔法で生命が宿り、勝手に動き出したように思える。心が空っぽだった。だが、何かが満ちている。体も心も熱いが、脳は冷静だ。体は最高のパフォーマンスを発揮している。

 どんなアクシデントが起きても、自動的に体が対処してくれる気がする。予測されるアクシデントのシーンが次々と頭に浮かぶ。だが、その度に平然と、しかも適確に対処している自分がイメージできる……。

 これが〝ZONE〟なのだ。オリンピック選手が金メダルを取る前に、意図的にこの精神状態に持ち込めるという境地だ。あるいは、〝火事場の馬鹿力〟と呼ばれる精神状態なのか――。

 アンだ……。

 アンを感じる。

 アンが力をくれている。

 私を、ここに連れてきてくれたのだ。

 ありがとう。

 もう少し待っていてくれ。

 あとは、君だけを想って生きていくから……。

 助手たちの感嘆の声が聞こえる。

「なんなんだ……この速さ……」

「それに、正確です……少しの迷いもない……神の技って、これなんですね……」

 自分でもスピードが上がったのが分かる。手術しているのは私だ。だがまるで、ひとりでに腫瘍が減っているように感じる。見る見るうちに切り刻まれ、その容積を減らしている。おそらく、9割ほどは取り除いた。重要血管と神経に癒着した部分が最後の関門だ。脳にかかっていた異常な圧力は、消滅した。

 この手術は成功する――そう確信した時だった。

 背後に迫田の動きを感じた。

「君たち、ちょっと退いていてくれるか……」迫田は、助手の前に出てきたようだ。そして、私の耳元に囁きかけた。「この手術、失敗してもらえないだろうか……」

 は? 何を言っている?

「ふざけてる場合か。必ず成功させる」

 迫田はさらに声を落とした。

「私なら、あなたが奥さんを殺したことをもみ消すことができる。その代わりにこの青年に、奥さんにしたのと同じことをしてほしい。あえて、この手術に失敗してほしいんだ」

 ハサミが凍りついた。

 ふざけているのではない。

 迫田は私に、デイビッドを殺せと要求している。

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