7・ニュースセンター12

 ブレインサイトが静まり返った。みんなが、私に注目して固唾を呑んでいる。

 デイビッドには話すべきなのだ。そうでなければ、フェアとは言えない。

 私は続けた。

「妻と出会ったのはアメリカにいた頃だ。妻は――アンは、アメリカ人にしては恐ろしく控えめで、他人を避けるようなところがある娘だった。私が考えていた陽気でフレンドリーなアメリカ人とは全く違っていて、そこに惹かれた。しつこくデートに誘い、アンはいつの間にか私に心を開くようになり、そして結婚を約束した。アンが幼い頃に父を亡くしたことはその時に知った。婚約はしたが、条件を付けられた。子供は作らないというという約束だ。私は息子が欲しかった。子供嫌いでも、できてしまえばアンも喜ぶと信じていた。だから、避妊していると嘘をついた……」

 みんな、黙って聞いていた。

 彼らにとってはどうでもいい話だろう。だが、重要なのだ。私はアンとの約束を破った。どうしても子供が欲しかった私は、アンを騙した……。

 だから、殺さなければならなかったのだ……。

 すべての責任は、私にある。

「実際、子供が生まれてからは、アンの態度も変わった。本当に純也をかわいがった。私たちは、幸せだった。その幸せが壊れたのは、アンが40歳を超えた頃だった。アンが恐れていた病気が、初めて症状となって現れた」

 今でも時々考える。あの時、純也さえ産んでいなければ、アンはどうしたのだろうか、と……。

「ハンチントン病――治療法が存在しない遺伝病だ。常染色体優性遺伝によって発病する神経変性疾患で、徐々に発症し進行する。舞踏運動といわれる異常運動、認知症や人格変化など起こす。欧米人とは違って日本人には極めて珍しい症例で、国内患者数は800人前後しかいない。遺伝子の特定の部分が異常に重複することが原因で起きるといわれている。おおむね35歳以上になってから発症する時限爆弾のような病いだが、アンの父方にはその病気が多かった。発症した者の子供には、50%の確率で遺伝する。そしてアンは幼い頃から、ハンチントン病を発症した父の妹を身近に見て育ってきた。当然、自分にも発症の可能性があることを知っていた。だから、若い頃から他人を避けるように暮らしてきたんだ。結婚もしないと決めていた、と言った」

 類似の疾病に、パーキンソン病がある。語感が似ていると言えなくもないので、勘違いされることもある。だが、こちらは脳幹の異常がドーパミンの減少を引き起こし、運動が困難になることが多い。しかし遺伝することはないし、寝たきりになることはあっても他者に害を及ぼすことは少ない。何より、日本での患者数は10万人以上とも言われ、絶対数が桁違いだ。難病ではあっても症例が多いため、研究も進んでいる。薬物治療によって、症状は抑えられるし寿命が短くなることもない。

 ハンチントン病は違う。意思に反した過剰な動きを抑制できなくなるし、怒りを抑えられないなどの神経症状によって他人に危害を加えることもある。 

 アンは幼い頃から、父親は事故で死んだと聞かされていた。だがハイスクールを卒業する頃には、ハンチントンの苦痛に怯えて自殺したのではないかと疑うようになっていた。

「それでもアンは、遺伝子検査を受けようとはしなかった。検査をすれば発症の可能性は確実に分かる。だが陽性だと分かったところで、治療する方法がない。発症の確率は50%――コイン投げのような賭けだ。アンは、私たちには何も知らせず、その恐怖を一人で呑み込んで、家族として精一杯生きることを選んできたんだ。このまま何も起きずに老いていけることを、神に祈り続けた。そして、賭けに敗れた……」

 病いは非情だ。時に、人の幸せを恨むかのように襲いかかってくる。

 私にすがるように事実を明かした時のアンの目は、いまだに忘れられない。アンのためにできることは、どんなことでもやらなければならないと心を決めた。

 どんなことでも……。

「アンには、自分の変調がすぐに分かったようだ。その時初めて、私にすべてを打ち明けた。アンは、叔母の症状が進行するに従って、その悲惨さが増すのをずっと見続けてきた。叔母が実の父やアンの母すらも認識できなくなり、時に激しい暴力を振るうのを見てきた。叔母の症状は特に重篤で、死ぬ前はまるで凶暴なゾンビのようだったとまで言った。発症した者の家族が苦痛のどん底に沈むのを体験してきたんだ。だから、アンは結婚も子供も諦めていた。いつ自分が発症するかと怯えながら生きてきた。アンは、私との出会いが救いだったと言った。純也を産んだこともかけがえのない喜びだと言った。だがそれは、命懸けの賭けの上の幸せだったんだ……」

 アンがそれまで幸せだったことを、私は疑っていない。だからこそ、奈落が深いのだ……。

「しかも、アンを襲った病いはハンチントン病だけではなかった。ハンチントンの進行状態を確認するための検査で、脳幹を圧迫しているメニンジオーマが発見された……。部位も形状も……デイビッド、君の脳にある腫瘍と極めて似た症状だった……。腫瘍を放置すれば命が危ない。手術で腫瘍から助かったところで、もう一方のハンチントン病は容赦なく進行していく。確実に家族を蝕んでいく。希望のない苦しみを家族にもたらしながら、死を迎えなければならない。だからアンは、私に懇願した。メニンジオーマの手術の際に命を絶って欲しい、と……」

 私はもちろん拒否した。

 それは積極的な安楽死だ。高度な医療を使った自殺幇助だ。日本では認められるはずもない。安楽死を認めている国や地域に移住すれば法的な問題は消えるが、純也が自分にも発病の可能性があることに気づいてしまう。しかも、医師の信念に背く。

 何より、愛する女をこの手で殺すことなど、できはしない……。

「腫瘍は取り除く自信があった。だからアンを説得しようとした。アンは譲らなかった。ハンチントンで苦しみながら死にたくはない……。幸せな家族のままで死んでいきたい……。私や純也に、叔母のように醜い自分の記憶を残したくない……。たとえ一瞬でも、家族からモンスターのように見られたくはない……」

 それだけなら、決してアンに賛成はしなかっただろう……。

「何より、純也にハンチントン病の可能性があることを知らせたくない……いずれは向き合うことから逃げられなくても、今しばらくは――せめてあと10年間だけは、純也に普通の若者として過ごさせてあげたい……彼女はそう言って、手術中に殺して欲しいとすがった。アンが一番大事に思っていたのは、純也の未来だった。自分がハンチントンだと分かれば、純也も発病の可能性があると知る。もともと医大生だったのだから、その意味は嫌でも理解する。発病してもしなくても、そのこと自体が純也の未来をねじ曲げる。遺伝子検査は純也自身の了解がなければできない。だが、検査を受ける事自体が、とてつもない恐怖だ。治療法が存在しない難病なんだからね。陽性だと分かれば、いつ発病するかと怯えて過ごすことになる。未来を失う。陰性だとしても、普通の若者に戻ることは難しい。自分の子供には絶対に遺伝しないという確証も持てない。普通に恋をし、普通に夢を見て、普通に壁にぶつかっていく……アンは、純也にそういう人生を送って欲しかったんだ」

 それは、アンにとっては何事にも勝る価値だった。

「自分が知ることができなかった普通の喜びを、純也に味わって欲しかったんだ。仮に陽性だとしても、発症するまでの人生は普通の若者として歩んで欲しかったんだ……私たちにとっては退屈極まりない〝普通の生活〟でも、それはアンには絶対に手に入らない〝特別な世界〟だった……だから、純也にはその世界で暮らして欲しかったんだ……たとえいつかは、現実と向き合わなければならないとしても……せめて、それまでは……」

 私たちの議論は、何度も何度も繰り返された。時に、罵り合っているようにも見えただろう。アンが私を責めているようにも思えたかもしれない。アンは泣き叫び、私に携帯を投げつけたこともある。苦しんでいたのだ。

 だから純也は、私を憎んだ。

 それでも私には、真実を告げることは許されなかった。アンが命を捨ててまで叶えたかった願いを踏みにじることなど、できるはずがなかった。

 アンがどれほど純也を愛していたか……。

 私がどれほどアンを愛していたか……。

 私が子供を望んだために、自分の手でアンを殺さなければならなかったことを……純也に伝えることはできなかった……。

 結局私は、アンに説得された。

「アンは、クリスチャンだった。当然、自殺は禁じられている。神に与えられた命を自ら断つのは、地獄へ堕ちる罪だ。それを覚悟で、アンは死を選んだ。たとえ数年間に過ぎないと分かっていても、息子に平穏に過ごせる日々を手渡すために、自分が地獄に堕ちる道を選んだ……。私は、アンの願いを叶えることしかできなかった」

 私もまた、医師の魂を捨て、共に地獄へ堕ちることを決めた。

 通常は、医師は家族の手術は避けるものだ。平常心が保てる保証がないからだ。だが、この難手術を成功させる可能性がある医師は私以外にいない。危険を冒してまで執刀しようと望む者もいない。私の執刀に異議を唱える者は誰もいなかった。

 今でも夢に見る。

 アンの錐体斜台メニンジオーマは、脳底動脈を包み込んでいた。

 髄膜腫を少しずつ取り除き、あと1ミリ向こうに脳底動脈がある……

 残り1ミリのメニンジオーマを、マイクロハサミでさらに切除しようとする……

 脳底動脈が拍動し、その上にかぶさっている固いメニンジオーマが生き物のように脈動する……

 呼吸に合わせて、髄液がさざ波のように寄せては引く……

 摘出を進めるにつれて拍動が少しずつ増していく……

 これ以上ハサミを進めるのは危険かどうか――それは、私と同じ技量を持つ脳神経外科医にしか判別できない。あの時の息苦しさは、今でも胸に刻まれている。

 この種の手術では、血管損傷をした場合に備えておくこともある。頭皮の動脈を剥いておいて、脳底動脈のそばの動脈にバイパスできるよう準備しておくのだ。だが私はそれを、あえてしておかなかった。ゴッドハンドにはそんな必要はない――スタッフはそう思っていたに違いない。

 そして私は、ハサミを押した。

 血管が切れるかすかな手応えも、まだ私の指先から消えていない。

 脳底動脈を切りつける……

 脳の奥深く、深さ10センチの場所で、トンネルの向こうから激しい動脈性出血が起きる……

 術場にどよめきが聞こえる……

 誰かの声が聞こえる……

 『教授……まさか……』

 私が妻の手術に失敗するとは、誰一人考えていなかっただろう。

 出血を止めるために、脳底動脈そのものを脳動脈瘤クリップで挟んだ。術野が深すぎるために、血管損傷部位を縫合することが困難だからだ。極めて自然な対処法だ。誰が見ても、疑問を差し挟む余地はない。

 だが、アンの脳底動脈が〝不可抗力〟で損傷されたとき、バイパスの準備も〝たまたま〟行われていなかった。

 その後私は、バイパス手術と腫瘍摘出を〝超スピード〟で行った。本気で全力を振り絞った。おそらく、普段の手術より何割かは早かっただろう。

 それでも、あらかじめバイパスを準備していたより、30分間余計に時間を費やした。

 意図して作った30分だ。

 アンの命を奪うための、30分――。

 術前の画像診断で、アンの側副血行路――血流の迂回路が未発達だということは予測できていた。だからその間、脳底動脈支配領域は血流が途絶えた。その結果、アンは二日後に術後脳梗塞で息をひきとった。

 アンの表情に、苦悶の色はなかった。

 唯一の救いだ。

 すべてを企んだのは私だ。

 私がアンを、文字通り殺したのだ。

「私が妻を殺したんだ……」

 オペ室は静まり返ったままだ。何を言うべきかなど、分かるはずもない。

 最初に口を開いたのは伊藤だった。

「ほら見ろ! こいつだって人殺しだ! 自分の手で人を殺してるんだ!」

 伊藤の声は薄暗いブレインサイトに響き渡った。私をなじる言葉だ。

 私はなじられて当然だ。医師がやってはならない〝犯罪〟を犯したのだから。

 だが、私には分かった。

 伊藤は、私が追い込まれた〝地獄〟を理解している。自分が置かれた立場と同じだと分かっている。分かっているからこそ、なじらずにはいられないのだ。

 伊藤の言葉に応える者はいない。オペ室が、またしても沈黙に包まれる。

 最初に口を開いたのはデイビッドだ。か細い声で言った。

「殺したの?」

 私はきっぱり応えた。

「私が妻を殺した」

「わざと?」

「そうだ」

「失敗、じゃないんだよね……救えたのに、わざとしくじったんだよね……」

「そうだ。この手で、殺した。医師……なのに……」

「だったら……僕も手術して」

 意外な言葉だった。

「なぜ? ……妻を殺したんだぞ?」

「僕を殺す理由はある? あなたも……誰かに脅迫されているの?」

「まさか。できることなら、助けたい」

「だったら手術してよ……分かるんだ……もう時間がないって……」

 どうすればいい?

 事実を知れば拒むだろうと思って打ち明けたのだ。それでも、私に手術しろという。10年ものブランクがある、酒浸りの私に……。

 どうすればいいんだ……?

 その時だった。天井のスピーカーから声が降ってきた。

『嘘だ……母さんが死にたがってただなんて、絶対に嘘だ……』

 意表を突かれた。

 なぜ⁉

 あり得ない!

 私は天井を見上げた。純也の声だ。こんな場所で、息子の声が聞こえるはずがない。

 幻聴か?

 追いつめられて、頭がおかしくなったか?

 観覧室を見る。暗がりの中に、ぼんやりと人影が見える。目が闇に慣れてきているのだ。だが、まさかそこに純也がいるはずなどない。

 病院は占拠され、誰も出入りできないはずだ。純也の声がするはずがない。

 だが気がつくと、周囲のスタッフたちもスピーカーを見上げている。声は確かに聞こえたのだ。

 と、再び声がした。別の人物だ。

『ダメだって! 喋らないって約束だろう!』

『うるさい! 親父と話させろ! 母さんを殺した男と話をさせろ!』

 母さんを殺した男……。やはり、純也だ……。

 なぜだ……?

 なぜ、こんな時に、こんな場所に……?

 迫田が観覧室に向かって叫ぶ。

「どういうことだ⁉ 誰か部外者がいるのか⁉」

 観覧室の中で、慌てふためくような人影が動く。

『いえ、あの……テレビ局からメールがあって、話をしたいっていうから……声を聞くだけって言う約束で、僕の携帯をスピーカーのそばに置いていたんです……すみません……』

「馬鹿者! なんてことをした! 国家機密が絡んでるんだぞ! 軽々しく取材などさせるな!」

『すみません! 今、切ります!』

 また純也の声だ。

『切るな! もう取材じゃない! 親父と話させてくれ!』

 間違いない。確かに息子の声だ。

 なぜ純也はここに電話ができたんだ?

 私は迫田に言った。

「あれは私の息子だ。なぜだか分からないが、私がここにいることを知ったらしい。息子と話したい。これは家族の問題だ。絶対に情報は外部に漏らさせない。だから話をさせてくれ」

 迫田は怒りを隠さずに、それでもうなずいた。

「分かった。あんたには恩がある。ここは譲ろう。だが、もしも患者の件が一言でもマスコミに漏れたら、覚悟しろ。職を失うだけではすまないぞ!」

「当然だ」そして、天井に言った。「純也、今のは聞いたな。そばに誰か他の人間はいるのか?」

『いや、僕だけだ』

「ならば約束しろ。ここで起こっていることは日本の――いや、世界の命運に関わる国家機密だ。マスコミが軽々しく取り上げていいことではない。絶対に他には漏らすな。約束を破れば、お前だけじゃなく、局に制裁が加えられるぞ。分かったな」

 しばらくの沈黙。

『分かった……局には知らせない』

 迫田が部屋の奥に向かうのが見えた。部下への連絡だ。この通話を逆探知して、発信者を捜せとでも言うのだろう。

 逮捕されても仕方がない。情報を漏らしさえしなければ、危害を加えられることはないだろう。

 そう、願いたい。

 私は言った。

「まず教えてくれ。なぜお前はそこの電話に出ているんだ?」

『ニュースをかき集めるのが仕事だからだよ。はくちょう病院が占拠されてすぐ、スタッフが病院内の情報を調べ出した。そこで今、あんたが特別な手術にオブザーバーとして参加してると分かった。いまだに有名人だから、注目されているんだ。震災のボランティアだって、売名のためにやってたんだろう? 残念だけど、局では僕があんたの子供だってことも知られてる。で、僕が直接連絡を取れと命じられた。仕事だから、命令されれば「やりたくない」とは言えない。最初にあんたに連絡したけど、携帯の電源が切られてた。だけど手術スタッフのリストもあったんで、手当たり次第にメールを送った。たまたま繋がったのがその「戦略デスク」とかいう場所で、「金を渡す」と言ったら手術室の話を盗み聴きさせてくれた。「聞くだけで、絶対に言葉は喋らない」という約束でね』

 私の携帯は更衣室のロッカーの中だ。真っ先に私に連絡を取ったなら、純也を責めることはできないだろう。テレビ局がスクープを手にするためには、時に買収も必要だろう。

 だが、タイミングが悪過ぎる。国テロが絡む事案に純也を巻き込みたくはない。

 そうはいっても、もはや止める手段もない。

「それがお前の仕事なんだな……スタッフを買収してまで……」

『これも、僕の仕事だ。ニュースセンターのスタッフなんだから、情報収集には走り回る。奇麗ごとばかり言ってられない』

「今の話は、どこから聞いていた?」

『ついさっきだよ。だが、あんたが母さんを殺したことははっきり聞いた』

 それが本当なら、公安には関わりは持たずにすむかもしれない。私たち親子の問題として済ませられるかもしれない。

「ならば、母さんの病気のことは分かったな?」

 返事は素早かった。

『信じない。ハンチントン病だって? そんな話、母さんから一度も聞いたことはない』

「母さんが死を選んだのは、お前にそれを聞かせたくなかったからだ」

『ふざけるな! 僕はずっと見てたんだ。いつもいつもあんたが母さんと言い争っているのを。その度に、母さんは一晩中泣き明かしていた。僕は知らないと思ってるんだろう⁉ 何で母さんを殺したんだよ⁉」

「それが、母さんを……母さんの魂を救う唯一の道だと思ったからだ。ハンチントンを治せる方法があるなら、どんなことがあろうと希望は捨てなかった」

『嘘だ! 母さんは手術の前の晩に僕に言った。「ごめんね、強く生きるのよ」って……。死ぬと分かっていたんだ。あんたに殺されることが分かっていたんだ。だからそれを、こっそり僕に知らせようとしていたんだ!』

「それが母さんの本心だからだよ。お前に、恐怖と無縁の人生を送って欲しかったんだ……」

『じゃあ、何でいつも喧嘩ばかりしていたんだよ⁉ だから殺したんじゃないのかよ⁉』

 純也はもう、真実に気づいているようだ。

 だがそれは、これまで信じてきた世界を逆転させる。それを認めれば、自分にハンチントン病の恐れがあると認めることになる。

 恐怖と立ち向かわなければならない……。

 こんな状況で知らされるのは、あまりにも惨い。

「私は母さんの考えを変えようとした。だが母さんは死を望んでいた。その信念は揺らがなかった。だから、言い争いになったんだ……本当に、止めたかった……今でも、止めていたらどうなっていたか考える……どうなっていたんだろうな……私たちは……」

 壊れていくアンを見て、みんなが苦しむことは間違いない。だがその苦しみが〝不幸〟なのか〝救済〟になるのかは、誰にも分からない。

 ただそれが、アンが望んだ未来ではないことは確かだ。

『何でだよ……何で殺したんだよ……』

 純也の声は震えていた。涙を必死に堪えているようだ。

 私はアンから託された役目を、今こそ果たすべきときだと確信した。

「純也……母さんがホームページを作っていたことは覚えているな。更新もしていないから見る者はもういないだろうが、今でもサーバには置かれたままだ。母さんはそこに、純也へのメッセージを残したと言っていた」

『何だよ、それ……』

「ビデオレターだ。中身は知らない。お前に見せるためだから、私は見ていない」見ていないのは事実だが、理由は違う。見るのが怖いのだ。アンを殺したことを、私自身がまだ受け止め切れていないからだ。「URLの最後に、〝ジュンヤ1124〟と打ち込め。どこにもリンクしていない隠しページが開く。そこに動画が置いてあるはずだ」

『僕の誕生日……』

「そうだ。母さんは私に言い置いていった。『純也が結婚するか30歳になったら、このビデオを見せてください』……と。私は、必ずそうすると約束した。その約束だけが、私を今まで生かしてきたんだ……。そこに何があるのか、自分の目で確かめなさい」

『何だよ、それ……』

「また後で話をしよう。お前が動画を見てから、な。今は、ここでとんでもない事件が起きている。お前やテレビ局が関わりを持ってはならない性質の事件だ。だから、通話を切れ」

 迫田がうなずきながら言った。

「戦略デスクのスタッフ! 電話を切って私に見せろ! バッテリーが外せるなら、その場で外せ! またこのようなリークを企んだら、容赦なく処罰するぞ! 命までは奪えないかもしれないが、死んだほうがましだったと後悔させてやる!」

『iPhoneなんで、バッテリーは――』

「ならばここから見える場所に置いておけ! 絶対に手を触れるな!」

 スタッフの怯えた声が返る。

『わ、わかりました! 本当にごめんなさい!』

 そして、スマホの電源は切られた。

 想像もしていなかった事態だ。まさかこんな時に純也と話をすることになるとは……。だが、良かったのかもしれない。少なくとも事実を伝えることはできた。アンの伝言を託すこともできた。

 後は純也がどう考えるか、だ。

 できれば、ハンチントン病の遺伝子検査に付き添いたいものだ。結果がどう出ても、その〝現実〟を二人で受け止めたい。しかし、純也がこの先も私とは関わりたくないというなら、それも受け入れるしかない。

 すべては純也が決めることだ。

 その時だった。手術台の上のデイビッドが細かく震え始めた。

 まずい!

 てんかん発作か⁉

 デイビッドが言った。

「ああ……だめだ……止められない……」

 ついに限界を超えてしまったのだ。

 もともと発作が起きやすい素地が揃っている上に、物理的、精神的なストレスが加わった。重積化しているのでコントロールが難しい。手術中のリスクも爆発的に跳ね上がる。

 運良く生き延びられたとしても難治性てんかんに移行して、抗てんかん薬を3種類も服用し続けなければならない……。

 時間的猶予はあまりない。

 いったん足を踏み外せば、後は奈落の底に吸い込まれるだけだ。

 私は麻酔医に言った。

「全身麻酔だ。発作を止める! 気道を確保して」

 第一助手が素早く動いて、ナースからラリンゲルマスクを受け取る。

 だが、その先はどうする?

 脳の圧迫を取り除かなければ、不可逆的損傷は進行していく。最終的には脳幹ヘルニアが最後の一線を越えて、脳幹機能が停止する。一刻も早く腫瘍を取り除いて脳の変形を戻さなければ、死を意味する……。

 どうする……?

 この手術ができる技能を持つ者は、もう私しか残っていない……。

 デイビッドは私を見つめた。

 その目に、うっすらと涙がたまっている。今までとは全く違う、怯えた子猫のような目だった。

「おねがい……たすけて……死にたくないよ……」

 天才とて、人間だ。死は恐ろしい。当たり前だ。

 まずい……。

 デイビッドには、もう時間がない……。

 私の目の前で、息絶えようとしている……。

 私は、どうすればいいんだ……?

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